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923日(水) 車中にて 晴れ

 

【もはやビシュケクはかって知ったる街】

 その後も車はすっ飛ばし、やがて真っ暗闇で星だけが輝く山中で、かなり長い仮眠を取る。星空は美しく、オリオン座が光っていた。そして再び動き出し、夜が明け、朝食を食べ、ビシュケクへと向かった。朝方通ったトクトグルという街からビシュケクまでの、いわば最後の峠越えは、右に左にと非常にワイルドワインディングで、なるほどこれでは少年少女が車に酔ってゲエゲエ吐いたというのもうなずける。山は意外にも深く、峡谷も美しい。さきほどまで平地にいたかと思うと、登り始めればあっという間に眼下は遙かになる。道は険しく、それでも車幅があるから十分飛ばせる。対向車が来てもおかまいなし、前に遅いトラックがあればすぐに追い抜こうとする。カーブだからといって、沿道には警告灯もなければ看板もない。粗末なガードレールが見えるだけで、その先は谷だ。そのカーブを、速度を落とすこともなくギューンと曲がる。こんな山道を、ビシュケクから発ったときは真っ暗だったことを思い出す。「一歩間違えれば真っ逆さまだね」。

 ビシュケクには正午前に着いた。もはや3度目、勝手の分かる土地はホッとする。今日もビジネスセンターに泊まるつもりだったので、オヤジに前まで運んでもらった。

 夜行タクシーは思いのほか快適だった。僕は助手席で比較的広いスペースだったこともあるし、足を伸ばせたのも嬉しかった。ユウコは少々窮屈だったようだが、それでも行きのジープに比べれば全然ましだったようだ。それに2度目の経験だったので、馴れもあったのかよく眠れた気がする。意外にも我々は元気であった。それはもしかしたら、再び都会へやって来たという喜びが、疲れに勝っていただけなのかもしれない。勝手を知る街は気が楽だ。あの宿に泊まれば安心だ、あの食堂なら安くて美味しい、羊から逃れられる、プロブから逃れられる、といった判断ができる。ともあれ、2人とも元気だ。ビジネスセンターには幸い安い部屋に空きがあり、「今日はツイテルぞ!」と、街へやって来てウキウキしている我々をさらに喜ばせた。2人で早速イラン大使館へ出かけることにした。

 

【イラン大使館で日本人に出会う】

 申請時に応対してくれた、丸顔の優しそうな職員は我々のことを覚えていたのかいないのか、我々が受付に入るなり「パスポートと申請用紙を提出してくれ」と言う。「そんなものもらってませんよ」と答えると、とくに驚きもせず「ああそうだっけ」とパスポートだけ受け取り、我々に申請用紙をくれた。これを書いていると、2人の日本人旅行者がやってきた。

同年代と思われ、我々と同様、男女のペアである。はじめは挨拶だけ交わし、我々は再び書類に戻ったが、23つ、理解できない質問があった。彼らはすでに申請用紙の記入を終えたらしく、執務室に引っ込んだおじさんを待っている様子だ。そこで彼らに質問がてら話しかけてみた。申請用紙には自分の身元の他、父の姓名や所在地、同行者氏名及びその関係など、僕が経験したことのない滑稽な質問が多いが、そのなかに「滞在中の費用の出資者の氏名、および本人との関係」なる項目があり、これがよくわからなかったのである。

男性の答えによると「前者は要するに『金は誰が出すのか』という質問なので、イランの場合は男性の名前を書いておくのが無難です。自分で出す場合は『myself』と」。

僕が名乗ると男性が「僕はYです。こちらは・・・」と、彼らもカップルの様子である。

それにしても驚いたのは彼らの格好であった。女性のほうはこざっぱりとして、多少化粧もしているようであり、とくに不自然さはない。肌の白さが目を引くのは、濃紺のスカーフで頭を覆っているからかもしれない。久しぶりに日本人に会うため、その清潔感が際だつというのだろうか、とにかく清楚な印象を受ける。いっぽう男性のほうはというと、彼女とまさしく対照的である。色は浅黒く、薄汚れたカーキ色のシャツに、ツギの入った安物のトレパン。裸足にウォーキングサンダルを履いている。短パン、サンダル姿でのモスク入場を禁ずる国家の大使館に来るにしては、少々礼を失しているのではないかと、ペルシャ人でもない僕が要らぬ懸念を抱く。良く言えば旅巧者、悪く言えば旅ズレした風貌である。

話を聞くと、さすが旅巧者で、いろいろなことを知っていた。彼らは我々と同様、ウルムチからカザフスタンに入ったのだが、鉄道ではなく、伊寧経由でバスでの国境越えだったらしい。彼らは我々の鉄道経験談を知り、「バスでも鉄道でも同じくらいの値段だったのか・・・」と感慨深げである。彼らはその後、キルギスへ入り、カラコルのほうを回ってきたという。我々もカラコルに行った話をすると「ヴァレンティンに会いましたか?」と聞いてくる。それで経緯を話すと、どうやら我々がカラコルに着いた日にヴァレンティンがいなかったのは「彼らを空港に迎えに行っていたから」で、その後、我々がヴァレンティン氏に会ったときに「うちに日本人が泊まっているぞ」と言っていたのは、いま目の前にいるY夫妻のことだったのだ。

「カラコルは彼の民宿が良いんですよ。あとはダメです。僕らは彼の馬でアルティンアラシャンまで行ったんですが」と、これは少々羨ましい話だが、あのときヴァレンティンを捕まえていたら彼らと同行することになったと思うと、旅の偶然とは、なんとも分からない話だ。

さらに、別の土地(おそらくサムやエレーナがいったところ)では鷹匠に会ったらしく、鷹狩りはシーズンでないから見せてくれなかったが、鷹そのものは見ることができたと、これまた羨ましい話であった。

これからキルギス南部に向かう予定なのだが「別の旅行者から、ナルインからカザルマンのルートがなかなか良いって言われてるんで、どうしようかなと思っているんですよ」と、これまた面白い話である。オシュを経由してウズベクに入り、フェルガナ盆地からウズベクを東西に横断し、トルクメンからイランに至る予定だそうだ。そこで我々がオシュまでタクシーで行って戻ってきた話をすると、これはさすがに彼らも興味津々だが、旅の経費を知ると「それって、飛行機と同じ値段ですよ」と言う。僕はびっくりしてしまった。ビシュケクからオシュまで飛行機が飛んでいることも驚きだが、20ドルもかけないでオシュまで飛べてしまうとは。しかも、飛べば1時間で着くであろう。我々はその道を、右に左に揺られ、窮屈な思いをしながら18時間もかけて行ったのだ。まあ、だからこそ面白い旅でもあったのだが。

 

 丸顔のおじさんが用紙を取りに来た。Yさんがなにやら質問をしている。

 おじさんはふたたび執務室に入る。Yさんから、ウズベクのビザはどうしたのかと聞かれ、我々の事情を話すと「インビテーションがあればタダなんだよねー。まっとうですよね」と夫婦2人で目を合わせる。「Yさんはどうしたんですか?」「いや・・・ぶっちぎって・・・」照れくさそうにニヤニヤと笑う。何をどうぶっちぎったのか理解に苦しむが、とにかくビザはあるらしい。2人でウズベクからトルクメンの旅程を話し合っている。「このまちで1泊して、ここは日帰りで・・・」と、端で聞いてもかなりのハードスケジュールだ。短時間でくまなく見る気でいるらしい。ウズベクは30日間、ビザの有効期間をビッチリ使って、「見られるものは全て見るつもりです」と言う。

 

 話ぶるから察するに、Yさんは悪い人ではないのだが、僕にはどこか、いけ好かない感じがする。

ふたたびおじさんが出てきて、僕に向かって「君たちはこの2人と一緒に行くのかね」と尋ねてくる。僕は真に受けキョトンとしていると「とりあえずハイと答えておけばいいですよ」と、Yさんが言う。なんのことだかわからない。Yさんが応対し、おじさんが再び引っ込んだ。

僕が「さきほど大使館の人と何を話していたのですか?」と聞くと、話はこうだ。

「知っているとおり、ここの大使館では基本的に1週間か、せいぜい10日のトランジットビザしか取ることはできません。もちろんイラン国内で延長することもできます。だけども、彼らはムスリムだから、おだて褒めると機嫌が良くなるんですよ。そこで『10日でイランを観光するなんて、とてもできた話ではない。だいたいイランには観光名所が沢山あるではないか。テヘラン・マシュハド・バム・ケルマン・ヤズド・シーラーズ・イスファハン・ハマダン・タブリーズ・アフワズ。カスピ海にエルブールズ山脈、ペルシャ湾。ひと月あっても足りないくらいです』とかなんとか説明するんです。するとあちらも『お、こいつ良く知ってるな』と感心し、本来は10日で50ドルのところを、10ドル追加で30日有効にしてくれるっていう話になったんですよ。さっき『君たちも一緒か』と聞かれたのはそういうことです」。

つまりYさんのおかげで我々にも30日間有効のトランジットビザが取れることになったらしい。これは感謝しなければならない。

「ムスリムにはとにかく褒めることです。こっち(奥さん)はクリケットに詳しいんですが、パキスタンでもクリケットが盛んで、パキスタンを旅したときに『ナントカというチームの誰それは上手いですね』と話をしたら相手が大喜びしたんですよ。とにかくおだてることですよ」。

それにしても、トランジット(通過)に30日とは、不思議な感覚である。するとふたたびYさんが「彼らの発想では、陸路はすべてトランジットなんですね。ツーリストは空路で入ることになっている」と言う。

パスポートが返ってきた。Yさん、「あっ、ツーリストビザになってる! やったぁー、これだと国内で延長しやすいんですよ」。30日のビザを更に延長する気でいるらしい。

話好きであり、内容も豊富であり、話す内容には興味もある。だが、人柄はどうも好きになれない。

しかしそれでも、彼らの情報は得るべきところが多い。ビシュケクには大使館設置の準備機関として「日本キルギスセンター」というものがあるらしく、「日本の雑誌も読めますよ」と言う。読む気は全くないので、話につき合うために場所だけなんとなく聞いて住所を確かめなかったが、これがあとで失敗した。

 Yさんが「タジキスタンには行かないんですか?」と聞く。戦地の本場は南部にあるので、キルギスに近い北部フェルガナ盆地は比較的平穏だという話もあるが、行く気も魅力もない。彼もとくに行くという強い姿勢はないが、とにかくカザフ以外の中央アジアは見尽くしてしまう気でいるらしい。

 

大使館で別れたあと、ユウコが言った。

「ああいう旅巧者が、『旅行人』なんかに情報を載せるんだろうね。意外と旅行作家だったりしてね」。

 

 僕は、彼にいちど会っているような気がしていた。それは1994年の5月、学生のときにウズベクをツアーで回った、初めての海外旅行の時である。ブハラの街の1日観光を終えてホテルブハラに戻ると、その男がロビーにいた。歳は僕と変わらず20代前半に見えた。タンガリーのシャツにカーキのチノパンを履き、肩にディパックを下げていた。彼のビーチサンダル姿に驚いたのをよく覚えている。ちょうどウズベクとトルクメンの関係が良くなかった頃で、彼はトルクメンへ陸路で入国したかったのだが、ビザを取ることができずに困っていたのであった。「650ドル出せばタシケントからテヘランに飛べるんですけどね。なんとかしてトルクメンのビザを取れないかなと思って」と、我々のガイドをしてくれていたロシア人女性さんに取り合っていた。「ここに泊まっているんですか?」と聞くと「まさか。ザラフシャンという、裏のホテルなんですけど。すごいですよ、トイレの水は出ないし。まあ、いいんですけど。ここは、お湯が出ますか? いいですよねー。こないだの街では、知り合いになったおじさんが家に泊めてくれるってんで厄介になったら、夜に警察が来て追い出されてしまいました。まだ固いんですよね。おじさんにも悪いことしましたよ」。

 その当時の彼とYさんが同一人物なのかどうか、確かめるすべもない。しかし、僕は当時その男の話を聞きながら「なんとたくましいツワモノだ」と思う半面、どこかいけ好かない感情を覚えたのであった。そのイケスカナイ感じが、今回とも似ていたのである。

 

【気になる情報】

 銀行とカードの話がどうなったのか気になるのでメールを確認したいのだが、スラヴィック大学に行ってみると「今日はサーバがダウンしているのでインターネットにつながらない」とのこと。がっくり。そこで、さきほど話のでた「日本キルギスセンター」とやらに行けば、そこにマシンがあるかもしれないし、なにか情報が得られるかもしれないと思い、探してみることにした。街の真ん中に大きな銅像の建つ公園があって、そこの裏辺りだということはさっきの話で聞いていたが、住所を聞いていないのが失敗した。行けば看板でも出ているだろうと思ってあちこちうろついてみるが、看板はない。

「裏と言うからには、まさに裏なのでは」と考えると、そこは重厚な建築物であり、なんとなく政府の建物っぽい、堅苦しい雰囲気を醸している。どうもこれが怪しい。しかし、どこに入り口があるのかわからない。いや、入り口らしい扉はいくつかあるのだが、開けて良いものやらどうやら・・・と悩んでいると、一つの扉をユウコが思い切って開け、中に入っていった。どうなることかと冷や冷やしたが、パスポート番号を記帳させられたあと、「日本キルギスセンターはもうひとつ向こうの扉から入ればよい」と言われた。

言われたとおりに進み、あらためて扉を開けると、そこでは警備の若い衛兵が職員らしいオネエチャンとおしゃべりをしていた。彼が「ここでパスポートを預かります」と言う。セキュリティに不安があるが、反抗するわけにもいかない。建物は広く、全体が一つの庁舎のようなものなのではないかと思うが、正確なところはわからない。衛兵から説明を受けたのだが、ロシア語なので「階段を上がって、廊下をまっすぐ」ということしか分からない。とにかく階段を上がったり、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、なかなかそれというものがないなあと思っていると、3階の階段近くの廊下に日本語での「海外危険情報キルギス版」が掲示されていた。キルギスに駐留している職員だか会社員が、最近強盗にあったニュースであった。掲示板の反対側を振り向くとそこには扉の開いた部屋があり、中に人もいるので声をかけると日本人の若い女の子が出てきた。

さっそく「街にインターネットカフェみたいなところはありませんか?」と尋ねる。彼女は1人金髪の若い男の子を呼びだし、日本語でいろいろとやりとりした後、「建物を出てすぐ左に行き、最初の角で左に曲がるとこれがラザコフ通りで、これをまっすぐ下ってトクトグル通りとの交差点を渡った右角に「ДОМ−ПРИРОД(Dom-Prirod)」という3階建ての建物がある。その2階にЕЛКАТという店というか、そういうところがある。カフェではないが、インターネットはできる」という答えが返ってきた。地図で確かめると、意外にもそのままラザコフ通りを下ればイラン大使館に出る通りであった。

御礼を言って階段を下りようとしたところ、階段の右手に図書閲覧室があった。そこにはさきほどのYさん夫妻が、2人で会話もせずにそれぞれの雑誌に見入っていた。こういっては失礼に当たるが、「旅慣れているわりには日本離れができていないものだ」と思う。そうまでして日本の情報が気になるのだろうか。それとも活字に飢えているのだろうか。

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 しかしのちに、我々も活字に飢えている自分を実感することになるのだが、このときには知る由もない。

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 それにしても、この日本キルギスセンターの一件に関しては、情報をしっかり獲得しなかったことが失敗の原因である、ユウコにも悪いことをしたと思う。情報というものは、得られる限り得ておくべきで、それをどう利用するか、あるいは利用しないかということは、あとから考えればよい。ハナから「その情報は要らない」と突っぱねると、今日のように損をする。見つかったから良かったものの、場所すら聞いていなかったら今頃はどうなっていたか。「あのとき教えてもらえば良かった」というのが最も良くないのだが、僕はこれをよくやるのが悪い癖である。もう一歩押し出して、あるいはもう一歩冷静になって、聞くべきことを聞かなければいけないのだが、どうも臆することが多く、けっきょくあとから思い悩み、あるいは要らぬ苦労をすることになる。タダである限り、見るのも聞くのも「取捨」が基本なのだ。取ってから捨てることはできる。取ってないものは拾うことすらできない。できるのは後悔のみだ。蘭州のヒゲさんも土産屋で「見るのはタダだ」と言っていたし、Yさんも「ヴァレンティンさんからいろいろと情報は得ましたけど、彼は高値でふっかけてくるので、ひととり話だけ聞いて、あとで自力でやったことも多かったですよ」と言っている。

 

【やっとみつけたインターネットサービス】

 20分ほど歩いて、Dom-Prirodはすぐに見つかった。Elkatには英語のできるスタッフがいた。ここでは「コンピュータは持てないが、しかしコンピュータを使いたい人たちのためのサービス」をおこなっており、言うなれば会員制のコンピュータ利用所ということになる。本来ならば個人のメールボックスを設けるところだが、我々は「今日だけここで使わせてもらいたい。インターネットにつなぐだけなので」と頼んで1台割り当ててもらった。これは当時の最新鋭機と言ってよく、大学のマシンよりずっと快適で、接続状況もよろしい。

 妻の実家からのメールの返事は、我々の期待に反して、まるで要領を得ておらず、苛立つ思いである。しかし、こちらの心配事が十分に伝わらなかったと思うと、それはけっきょく我々の不徳の致すところであり、また、かえってよけいな心配をかけてしまったかと思うと、やはりメールは出さない方がよかったかもしれない。

けっきょく、気になるカードの限度額は分からず、そして限度額の増額は本人でないと無理ということだ。ぐっとこらえて御礼の返事を書く。

 

【悲しい知らせ】

 珍しく兄貴からメールが来ていた。訃報である。

「大宮の祖母が亡くなった」。

祖母が入院したことはウルムチでの親父からのFAXで知っていたから、それなりに覚悟はしていたのだが、実際にこうなるとやはり言葉を失う。亡くなったのは921日というから2日前だ。メールの送信日時も92120:11(日本時)となっている。兄も知らせを受けてすぐにメールを出したのに違いない。「帰ってくる必要はないが、親父と、生前祖母と同居していた伯父に手紙を書いてくれ」とある。今さら帰るすべもないので言われるまでもないことであるが、タイミング良く知らせを受け取れたことは、不幸中の幸いであろうか。なにか虫の知らせでも働いたのか。それをユウコに話すと、彼女は「なんとなく今日はどうしてもメールを取らねばならない」気分だったのだそうだ。虫の知らせとは、いかに・・・。

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 この後、約1ヶ月半にわたってインターネットを使える環境が無かったことを考えると、まさに天佑と言うべきであろう。

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 すでに夕方6時を回っている。いまから郵便局へ行っては間に合わない。が、明日はアルマトイへ移動する予定だし、午後にはいよいよもってウズベキスタンのビザを獲得し、夜行バスでアルマトイから一路西へ、ジャンブールの街へ行く予定を立てていた。

そこで、この予定は変えないまま、ウズベキスタン大使館でビザを取ったあと、そこから郵便局へ出かけハガキを買い、その場で書いて投函することにした。これでも夜行バスには十分間に合うはずだ。

 

 宿への帰り道、電報局の前を通りがかった。ふと、僕に一つの思いがよぎった。「手紙を出すことばかり考えていたが、郵便では何日かかるか分からない。忘れた頃に届いては間抜けも良いところだ。それよりも、電報のほうが良かったのではないか?・・・いや、そうするとローマ字電報になってしまうから、かえって良くないか・・・でも、急ぎ知らせたということで我々の意志は伝わるかも・・・だったら、いっそのこと電話をすれば良いのではないか? 今は夜7時前。日本は? 夜10時頃か。亡くなったのが21日夕方か夜として、通夜は22日、葬儀は23日か。あるいは祖父の葬儀のように、大宮の伯父の家で葬式を行ったかもしれない。いずれにせよ、もう夜だ。誰かは家にいるだろう。いま電話すれば・・・」。

 悩む頭で、しかし受けての混乱を避けるためには、電報電話のことは触れず、やはり手紙を出すことにした。

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“旅の空からお悔やみを申し上げる無礼をお許し下さい。

 本日、兄より訃報を受けました。先月末に入院したとの知らせは父より受けており、その後の経過を案じておりましたが、誠に残念です。亡き祖母のご冥福を、ここにお祈りする次第です。キルギスタン、ビシュケクにて     マサト・ユウコ”

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帰国後に聞いた話では、このときに親戚が集まった際、我々が中国から送った写真を父が持参し、我々の旅について、いっとき話題の華となったそうだ。また、父は祖母の最期について、「最期はあまりにも呆気なかったよ。前日も見舞いに行って、ベッドの上で偉そうに威張っていたくせに。人間というのは意外に簡単に死ぬものなんだなあと思ったよ。もっと苦しむかと思ったが」と語っていたのが印象的であった。

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