【ブハラを巡って思うところ】

 

【赤軍と民族】

ブハラの城(アルク)などを歩いてふと思うのだが、もともとハーンやエミールが支配していた地域に、ある日、ロシア帝国の力が及んできて、そして、ある日とつぜん、労働者による革命がやって来た。この地の人々にとっては赤軍ですら侵略者であり抑圧者の一つだったのではないかと思う。現にアルクは赤軍によって破壊されている。

とにかく、この地域には、もともと民主政治というものが育っているわけはなく、ソ連崩壊による独立後でも、国の功労者を、革命の功労者を讃えるのと同様、悪く言えば、政治的意図もあらわにしながら妄信的に讃え上げる風潮は、厳然として残る。

かつてはエミール(王)、そしてレーニン、スターリン等々ときて、いまはカリモフ大統領だ。カリモフをとやかく言う気はないし、そういう意味ではカザフスタンのナザルバエフ大統領も同じで、別に彼らが民族解放運動であるとか、地域に根ざした運動をしたわけではなくて、ソ連の幹部であったに過ぎず、そもそもソ連の崩壊に続く各国の独立も、中央アジアの立場からすれば、決して望んでいたわけではなく、むしろ「結果として独立した」という色が濃いように思う。むろん、この辺りは、僕自身も勉強せねばなるまいが、現国境を決定したのがスターリンであるとすれば、「民族の指導者」としては、まずこの辺を解消、というか、明確にする必要があるだろう。その意味で、カザフ・キルギス・ウズベクの国境が、あるようでほとんどないというのが興味深いのである。そして、トルクメンとの国境は非常に厳しいということも聞いている。

ソ連のやっていたことは、共産主義だのなんだの言う前に、ようするに「クレムリン主導の王朝」だったのではないかと思う。中央アジア諸国にとっては、支配者が取って替わっただけに過ぎないのではないか。エミールは殺され、ロシア皇帝の支配下に置かれた。次は、ロシア皇帝に代わり、ソビエト共産党指導者がやって来た。そもそもの土壌がヨーロッパとアジアで違うのだから、独立後の歩み方について、バルト三国などと大きく違うのも当然である。

まだまだロシアの力がなくてはやっていけず、だからロシアの力が残る。

それでも中央アジアとしては、トルコを手本というか兄貴分としているのだから、これはこれで面白い。もともと同系の民族だし、宗教も同じイスラムだ。もはやウズベキスタンには「アタチュルク通り」も存在する。

 

【外貨と観光】

ウズベキスタンには街中に両替所がない。だから地元民は、外貨を取得することができない。

あるとき、ある人に聞いた話では、この当時、一般市場での外貨両替が禁止されているとのことであった。カザフスタンやキルギスタンでは、街のあちこちに両替所があったが、ウズベキスタンには全くない。正規の両替所は、我々が既に足を運んだタシケントの国立銀行か、ホテルの両替所でしかできないのだ。「だからブラックマーケットが流行るんだよ。みんなドルをほしがっているからね」と、その人は言った。

観光資源を通して外貨が入るから、それで良いのだろうか。このままでは金持ち観光客しか来られない国になってしまうゾ。そして地元民は、なにかにつけては外人客から金をせびるようになる。すべてがよろしくない方向に進んでいる。もっと公正にやるべきだ。とはいえ、観光客から金をぼったくるのは観光地の宿命とも言えるような来もするが・・・。

それにしても街中に両替所がないということだけでも、カザフ・キルギスなどとの方針の違いが見える。まあ、だからこそウズベク政府に金がないのではないか。カザフは、全てにおいてウズベクより2歩も3歩も進んでいるように思える。というより、カザフスタンは多分にロシア色が強い。それだけロシア人が多いことを表しているが、加えて近代化が進んでいるようにも思える。それでも、なにか国の安定感を感じるのはキルギスタンなのだ。確たる理由はない。しかし、なにか強い力のようなものを感じる。人々が明るいというのもある。民族的な差なのかもしれない。山岳系民族の強さなのかもしれない。それはわからない。

それとも、レーニン像が健在だからなのだろうか。カザフスタンのレーニン像跡地には、主が取り去られた台座だけがさみしく、しかし堂々と残っている。ウズベキスタンでは、レーニン像は地球儀や三角錐のようなモニュメントに取って代わられた。しかし、キルギスタンでは、レーニンは厳然としてそこにいる。