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1011日(日)ブハラ 晴れ

 

【ウルゲンチへ】

 今日は移動日。バスでウルゲンチに向かうつもりでいる。

 先日来、朝食での顔見知りとなったドイツ人ツアーの皆さんと朝食を一緒に食べる。「一緒に」とは言っても、タイミングが同じだけで、彼らは15人ほどの一段であるので、大テーブルを囲み、我々はその脇のテーブルで、ちんまりと食事をする。中高齢者が中心のツアーなせいか、我々に優しく声をかけてくれるのが嬉しい。

我々にとっては久しぶりの西洋朝食なので、「うまいうまい」となんでも残さず全部平らげ、おかげで朝から腹一杯なのだが、彼らドイツの年輩の方々にとっては口に合わないものもあるらしく、残したり、不平をぶつぶつ言っている方もある。

 

【サーシャとは一見カワイイ名前だが、立派なオジサンである】

朝食前に、この宿の主人のサーシャと会い、パスポートが返ってきた。

ホテルタシケントでは、そんなに泊まりもしないのに30日分のレジスターをしてくれたのでこれで充分かと思っていたが、サーシャに言わせると「滞在都市ごとに必ずレジスターをしないと、出国時に問題になる」とのことである。良い機会なのでウルゲンチ行きのバスについて尋ねてみた。我々はウルゲンチまでバスで行き、到着が遅ければそこで1泊するが、早く着けるならばそのままヒワまで行ってしまうつもりであった。しかし彼の話によると、バスは11本しかなく、しかも出発時刻は1430と遅い。話を聞いて、僕が「78時間かかるから、着くのは夜だなあ」とつぶやくと、サーシャは続けて「しかも、今は綿の収穫シーズンだから、毎日バスが出るとは限らないよ」と言う。そして、今日バスがあるかどうかは、バスターミナルで確認する意外になく、しかも直前にならないと判明しないというのである。

「だからタクシーを使えばいい。ヒワ行きのタクシーはバスターミナルにたむろしているので交渉すると良い」。サーシャは簡単に言う。そこで「いくらぐらいで行けますか?」と聞くと、「交渉するんだよ」と、まるで僕の質問は愚問であるかのように軽くあしらわれた。要するに、値段は決まっていないのだ。

「だけども、だいたい45ドルから60ドルってとこだね。ソム払いならば12,000から・・・うーん、16,000ぐらいだろうねえ。タクシーの人たちはドルの方が喜ぶよ」。ついでに、バスターミナルに行くにはどうすればいいかと尋ねると、「君たちの泊まっている建物に面した通りの反対側にタクシーがたむろしているから、あれを拾えばいいんだよ」。それで料金は、と聞くと、またも愚問が来たか、と鼻で笑って、しかし優しく、「それは君たち次第だが、100から200ソムってとこだろうね」と答えた。

 

【ヒワに行くには、バスが良いかタクシーが良いか。どうして綿花シーズンにバスが無いの?】

 朝食時に、ドイツ人団体とは別に2人連れの白人がいた。ところでドイツ人の団体さんは、我々と同様、今日でブハラを去る。中庭にスーツケースがいくつも並んでいたのはツアーの人々の荷物だったのだが、白人の2人は、彼らはここからサマルカンドに向かうのだそうだ。「我々はヒワに行きます」とユウコが言うと、「バスはあてにならないし、スピードが遅い。しかもウルゲンチで乗り換えなければならない。だから絶対タクシーが良いよ。僕らはヒワからこっちに来たんだが、50ドルで来られたよ」と言った。

なんとなくバスにこだわりたい気もするが、「タクシーで速く行った方が楽だ」と言われると、心が揺らぐ。疲れているのであろうか。

焦る必要はないので、いったん部屋に戻った。昨日シャワーから湯が出なかったので、ここであらためてシャワーを浴びる。

この宿へ来た初日、僕のあとにユウコがシャワーを浴びたのだが、部屋に帰ってくると寒そうな顔をしていた。なにごとかと尋ねると「シャワーからお湯が出ない」と言うのである。その日、夕食を食べているとき、オジサンが1人やって来て風呂場の裏側に入ってなにやらいじってすぐ消えた。そこは暗くてよく見えなかったが、火が炊かれていた。今にして思えば風呂釜だったような気がする。このオジサンは、夕方5時過ぎと7時前の2回、そして朝にも現れた。一体何をしているのかというと、実は風呂釜の火を入れたり消したりしていたのではないか。いや、そうなのだ。ここまでの経験からすると、お湯の出る時間は朝7時〜9時と夕方5時〜7時までということになる。夜7時を過ぎて火を消しても貯水槽にはまだ湯が残っているから、多少遅くまでシャワーを浴びることができるが、それでも限界はある。他の泊まり客からも「シャワーのお湯が出ない」という声が挙がっていたことを思うと、ほぼ間違いない。

 

【ブハラを去り、ヒワへ】

 サーシャは「昼まで部屋にいて休んでいてかまわないよ」と優しいが、せっかち人生の我々としては、1430分発のバスはどうにも待ちきれず、しかもバスがないとショックが大きいので、タクシーで行くことに決した。

本館に行くとサーシャはおらず、初日に見たオバチャンが洗濯をしていた。我々を見ると彼女は「もう行くの?」と言い、我々は彼女に鍵を返した。いまいちど、食堂を見物し、そして本館の部屋も見せていただく。粗末な、というより生活住居そのものの別館と違い、こちらはまさしくホテル的ペンション的小ぎれいでおしゃれで美しい部屋であった。「さすが、15ドルの違いは大きいね」と去ろうとすると、部屋のドアの注意書きが目に入った。その中に「洗濯物は部屋に干さないでください。洗濯は、従業員に頼んでください」とある。「洗濯を頼むことにより、さらに料金アップか。今の我々にはツライね」。

これが実感である。

 

【タクシーと砂漠とベンジンニェット】

 10時過ぎにサーシャのB&Bを出てバスターミナルへ向かう。

バスターミナルでのタクシーとの交渉の結果、言い値80ドルというのを50ドルまで頑張り、1045分に出発した。

タクシーは一本道の街道を行く。僕にとっては、団体ツアーのバスで走ったことがある道である。街を出れば、車窓の景色は広々とした綿花畑になり、やがてステップになり、そして砂漠、またステップと走る。

ほとんど無言のまま、昼食休憩もないまま昼が過ぎ、おそらく半分ほど走ったところで、タクシーの運ちゃんがおもむろ「ベンジン、ニェット」と言う。ガソリンがないのである。街道筋にはいつも使っているガソリンスタンドがあるらしいのだが、今日は日曜のため、その全てが休みというのである。

街道を外れたりしてあちこち回るが、選んだ道には何もなかったり、あってもひどく高かったり、ここはというガソリンスタンドは見つからない。とうとう、ある集落でたむろしているオヤジ共に声をかけ、「この辺で日曜もやっているガソリンスタンドはないか」と相談を始める始末である。しかし、情報を集めて、「こっちだ」と向かってもやはり休みで、またオヤジ共のもとに戻る。

すると何が決まったのか、そのうちの1人がタクシーに乗り込んだ。4人でどこへ行くのかと思えば、そのオヤジの家らしいところに行き、オヤジが家に消えると、やがて倉庫からガソリンタンクを出してきた。なんのために買い込んであったのか走らないが、いずれにせよ、オヤジの貯蓄ガソリンを運ちゃんが「買い取った」わけだ。これで当面の問題は解決したが、運ちゃんは「ベンジン、ドーラガ(ガソリンが高い)」と嘆いている。

 

【タクシーの中での考え事】

 ウズベキスタンはどことなく一体感に欠ける雰囲気があるが、それは歴史から見てもその通りのような気がする。ヒワ、ブハラ、サマルカンド、コーカンド、タシケント。都市や地域が持つ歴史の歩みは、それぞれに大きく違う。それぞれが独立した国家として相争っていた時代もある。1人の支配者のもとに置かれたこともある。互いに相容れない勢力下に置かれた時代もある。多くの支配者が出たり入ったりしてきた。それに、今の中央アジアの国々の国境線はスターリンによって引かれ、その線のまま独立したという点も、若干無理のあるところであろう。引き直すというのも混乱を招くだろうが、といって統合できるかというと、それはそれでいろいろと問題があるように思える。それでも現状(1998年現在)においては、カザフ・キルギス・ウズベクの国境は、あってないようなものだし、経済協定などもあるみたいだし、そのうち連邦制みたいなものになるのかもしれないな。そうすると、境目のありようも変わるということだ、きっと。しかしそうすると、中央アジアでは、内戦で荒れているタジキスタンと、周囲の国と関係の悪いトルクメンが取り残されるということか・・・。

 

【ベンジンドーラガでヒワに到着】

 ヒワのメインゲートにあたる西門の前に、1645分に到着した。タクシーを降りて、約束の50ドルを払うと、運ちゃん「ガソリンが高かったんだからあと5ドルくれよ、ダンナ」と懇願する。が、我々の知ったことではない。むしろ、ガソリン探しに方々つき合わされて、到着が遅くなった分の罰金をいただきたいぐらいである。相手にせず無視して背中を向けると、これ以上は追って来なかった。ここで払えば僕の負けである。

 ホテルヒワは、サマルカンドで出会った「談志師匠」のお薦めだが、これは西門をくぐってすぐ右手にある。「ホテルヒワ」の看板がメドレセに掲げられている。つまりメドレセがホテルなのである。だからフロントらしいものもなく、1階の部屋の1つがフロントであった。ドアが開いているので中を覗くと、部屋にいたオヤジはいきなり「君は日本から来た○○か?」と尋ねてきた。日本人の予約客があるらしいが、名前が聞き取れない。そもそも、我々は予約していない。それを告げると、オヤジは「一部屋4500ソム。朝飯は1575ソムだが良いかね」ということで、そもそもここに泊まるつもりで来たのだから、即座にチェックインした。部屋は2階で、階段が狭いので苦労する。粗末なつくりの室内だが、シャワーからはお湯も出るし、充分である。もう少し整備すれば、相当面白い観光資源になるのになあと思う。そして、こういうサービスを、他の街でもやればいいのになあと思う。

 

【夕飯は軽食、そして・・・】

 荷物を置き、散歩に出かける。

夕食を食べたいが、ホテルのレストランは閉まっており、近所には商店もなく、困った。フロントのオヤジに聞いてみると「簡単な食事で良ければBARで食べられる」というので、1階の奥にある、広いバーに行く。バーというよりはダンスホールである。そして、食べ物を所望すると、ソーセージとタマゴしかない。食事ではなく、酒のつまみである。しかし他に選択の余地もないので、ボイルソーセージと目玉焼き、それにパンを付けてもらい、BGMのうるさい中、ユウコと2人、シャンパンで乾杯をする。だだっぴろいバーには他にも客がちらほらといる。踊る人がいるわけでなく、音楽だけがやかましい。

目玉焼きを食べていると、フロントのオヤジがやって来て、「君たち、仲間か?」と我々に聞く。オヤジのうしろに、日本人旅行客らしい1人の男が立っていた。彼がペコリと頭を下げる。背は高く、黒縁のメガネ、ジーンズと、赤いトレーナーは「ロボットコンテスト」のイベントものらしい。細面の、おとなしそうな人物である。年は我々より上、30半ばから後半、といったところだろうか。新聞雑誌記者が使ってそうなショルダーバッグにはノートや資料がいっぱい詰まっているように見える。聞けば、「半分仕事、半分遊びで」中央アジアに来ているとのことである。チラリと何かが見えたのか、ユウコが「NHKの人じゃないかな」とささやく。そこで僕が「取材ですか?」と聞くと、「いや、まあ」と照れ笑いのような態度を見せるが、否定はしない。

彼の名は、Sさんといった。

 ところで、あとからユウコが言うことには、僕はこのとき、そうとう嬉しそうにしていたらしい。「いつもよりも饒舌になっていた」と言うのである。久しぶりに日本人の話し相手に出会えて、興奮したのだろうか。いずれにせよ、初対面でこういう表現はあれだが、積もる話はお互いに山ほどあった。

Sさんは我々と同様、ウルムチから鉄道でアルマトイへやって来た。そしてそのあとのルートもよく似ているが、我々はずっとバス移動で来たのに対し、彼は鉄道を使い続けてきたという。「鉄道でトルコまで乗り継ぐのが今回の旅の『使命』なんですよ」。鉄道を乗り継いでイスタンブールまで行く計画なのだと言う。

ウルムチからアルマトイ、アルマトイからタシケントと鉄道を乗り継ぎ、タシケントからウルゲンチへは飛行機で飛んできた。これから何日かヒワに滞在した後、再びタシケントへ飛び戻り、そこから鉄道で、サマルカンド、ブハラと巡って、トルクメニスタンに入る。

「だからヒワだけは鉄路から外れるんですけど、タシケントに戻るから、線としてはつながるんです」。

鉄道マニアというわけでもなさそうだが、今回の旅の主目的は「鉄道に乗ること」にあるらしいことに変わりはなく、アルマトイでもタシケントでも滞在期間は短く、観光らしい観光はまるでやっていない。とくにアルマトイでは雨に降られたこともあって、町歩きは全くしなかったという。「それは強行軍ですねえ」と僕が驚くと、「おかげで、アルマトイで風邪をひいたみたいで。そのあとお腹の調子がずっと悪いんですよね。中央アジアって、お腹の調子悪くなりませんか?」と尋ねてくる。ユウコが大きくうなずいた。

この席でも彼は食事をせず、お茶だけを頼んだ。我々が飲んでいたシャンパンを勧めると、「酒は飲めないんですよ」と申し訳なさそうに笑った。

そんなSさんだが、ウルムチからアルマトイの道中、食堂車で食事をしたとき、居合わせたロシア人にウォッカを強要され、たいそう辟易したという。「食堂車の食事って、おいしいですか?」と僕が聞くと、彼はまた照れ笑いを浮かべながら、「いやぁ、他に食べるところもないし・・・」と言いかけて、今度はぎゃくに彼の方から、「あなた達は、食堂車に行かなかったんですか?」と問い返された。「ええ、高いと聞いていたので。カップラーメンとか、駅前でオバアチャンたちが売り歩いている、ふかしたジャガイモとか鳥の薫製とかを食べていました」と答えると、彼は「強いですねぇ」と感心する。感心するほどのものでもないが、そういわれると、悪い気はしない。

Sさんは、イラン・トルコには前にも行ったことがあるというので、我々にとってはその話にも興味が尽きない。だが、それを置いて、トルクメニスタンにも行くという彼の旅程が、僕には気がかりであった。「いつごろ入国の予定なんですか?」と尋ねると、「今月(10月)の22日のはずなんだけど・・・中央アジアの旅程は旅行社に組んでもらったものなので・・・」と、Sさんはショルダーバッグから旅程表を探し出し、確認する。

手配旅行なのである。ますます気になる。在タシケントのトルクメニスタン大使館の話では、その期間は陸路の国境は封鎖されているはずである。そのことを話すと、「それは困りますね・・・。だけど、それでかな、トルクメニスタンでも鉄道を使うつもりだったんですが、手配できないって言われたんですよね。それで、ブハラから車を用意してもらって、国境まで行って、国境でトルクメンからの送迎車が来る手筈になってます」。

つまり、トルクメン内では鉄道は一切使用できず、移動はすべてチャーター車である。しかも運転手の他にもう1人、「お付きの人」が乗り込むらしい。良く言えばガイドだが、悪く言えば監視員だ。「すでに旅行会社を通じた予約済みのお客さんだから、入れるということか・・・」と、僕はひとりごちた。

それで、Sさんはマリを経由してイランに出るという予定になっている。首都アシガバードには立ち寄らない。トルクメンを23日で通り抜けるのである。急ぎ足なのは気の毒だが、我々があきらめた土地に彼は行く。その点、僕は彼がうらやましかった。

 話題は尽きないが、体調は待ってくれない。彼は腹具合がおかしくなってきたらしく、「そろそろ部屋に戻ります」というので、我々も席を立った。

 

【地元の結婚パーティ】

夕方に散歩をしていたとき、ジュマ・モスクの前で、なにやら宴会の準備をしていた。モスク前の野外にテーブルと椅子を並べ、バンド用の音響セッティングなどもしている。かたわらにいたおじさんが我々を見て、「パーティだ。もうすぐ始まる」と言っていた。あれは6時前のことで、今は8時を過ぎている。そこで、夜の散歩ついでにそのパーティを冷やかしに、ユウコと2人で外へ出た。

先ほどの場所は立派な野外宴会場と化し、宴たけなわである。

長テーブルには白いテーブルクロスがかけられ、その上には大皿に山盛りのプロブやサラダなどの料理が並び、ウォッカ、シャンパン、ジュースといった飲物が並び、照明も明るく、バンドマンは音楽を奏で、ある者は踊り、ある者は歌い、そしてモスクの前に一層派手な一席があり、そこにはスーツ姿の若い男と、白いドレスを着た若い娘が座っている。結婚披露宴なのだ。彼らの後ろには高砂の金屏ならぬ、赤を基調とした美しい、新婚夫婦に贈られる絨毯がかかげられている。

我々は、ちょっと様子を見たらすぐに帰るつもりだったのだが、近いテーブル席の男どもは、我々を見つけて大いに歓迎し、まあ座れ、まあ飲め、まあ食え、遠慮するなと、ニコニコ声をかけてくる。僕も笑って、「サラームアレイコム」と握手の右手を差し出すと、「こいつ、挨拶できるぞ!」とばかり、皆は上機嫌。ますます歓迎され、ニコニコ笑って、二言目には「あれを食え、これを飲め」である。そして料理はどれも美味い。

「はじめから、ここのタダ飯をあてにしておけばよかったかな」と、よこしまな思いがよぎるが、実際、ここにいる多くの客は、そのタダ飯のために来ているに違いないと思う。

「結婚パーティが地域の親類縁者にもてなしをすることが目的なのであれば、タダ飯でもいいんだよね」とユウコが言った。

つまり「祝い」とは「ふるまう」ことであり、そしてそれは「金がかかる」イベントだが、それが宴席なのだ。すでに酔っぱらっている周囲の男どもも、我々に対して「今日ここに居合わせたのは何かの縁だ。宴席に参加し、彼らを祝ってやってくれ」と言っている・・・ように思える。

子ども達も関心を示してそばに寄ってくる。ユウコにカメラを託す。フラッシュをたくたび、ワッと歓声が上がる。そして「もう1枚!」

きりがないが、ユウコは頑張った。

しかし、めでたいのは良いのだが、寒い! 40分ほど席に座っていたが、寒さに耐えかね、ちょっとしたスキで席を立った。