10月3日(土) タシケント 晴れのち曇り
【ズボンと日本人とシベリア】
昨日の朝、出がけにズボンを修理に出していた。夕方5時に取りに来るよう言われていたが、大使館に行っていたので叶わなかった。それで今朝のチェックアウト時に取りに行く。昨日と同じオバチャンがミシンの前で修繕作業をしており、僕を見ると、こちらから尋ねる前に、僕のズボンを出してきた。
「あなた、どこの人?」とロシア語で聞いてくるので、日本人だと答える。すると、
「私の父も日本人なのよ」と、彼女はにこやかに言った。
僕はエッと驚き、次の句が出ない。しばし彼女を見る。40代と思われた。その父とすれば70前後になるか。そうすると、あるいは抑留された日本人の子どもということになるか・・・。あるいはもっと違った物語があるのか・・・。
話を聞いてみたいのだが、言葉が出てこない。「それは、どういうことでしょう?」「お父さんのお名前は?」「お父さんは今も生きていますか?」「なぜ、お父さんはこの土地に来たのですか?」 ロシア語でなんと言えばよいのかわからず、ただ口をあんぐりと開け、そのままズボンを受け取るばかり。
それで「ありがとう、さよなら」と部屋を出ようとすると「そうじゃないでしょ」とたしなめられた。
代金を払っていなかった。
【疲れはしたが、同時に休息も取れたタシケント。そしてサマルカンドへの移動】
ユウコも僕も、かなり復調した。たいしたことの出来ないままタシケントを無為に過ごしたが、快適な宿であったこともあり、よく休めたという点ではよかったのではないかとも思う。
今日はサマルカンドへの移動日である。地下鉄に乗ってバスターミナル前まで行く。階上に出たところで「サマルカンド!」と客引きの声が小気味良くかかる。見ると大型バスだが、これは白タクならぬ白バスとでもいうのか、私営バスと考えて良いだろう。フロントガラスに石か何かがぶつかった跡があり、蜘蛛の巣のような亀裂が広がっている。ターミナルからはもちろん公営のバスが頻繁に出ているのだが、構内で警官に会えば要らぬ「歓待」をも受けかねないので、料金を確認した上で乗り込むことにした。
「10時に出る。すぐ出る」と言いながら、10時過ぎても出ない。そわそわするお客、運転手や客引きに「どうなってんのよ」と問いかけるお客もいるが、我々は動じない。きっと中国やキルギスのように、席が埋まるまで出発しないに違いない。
【サマルカンドへ】
はたしてバスは満員となり、10時45分に出発した。
バスターミナル前で客を拾って乗り合いバスを出すという、いわば私営のバスは、いままでにも何度か乗っている。だが、だいたいは10人乗り程度のマイクロバスで、大型バスというのは珍しい。サマルカンドに着いても、街の中心から離れたバスターミナルには行かず、ビビハニムモスクの北にある中央バザールの脇が終点であった。16時を過ぎていただろうか。バザールには人出が多く、目の前の通りには大型バス、マイクロバス、タクシーがひしめき合う。バスを降り、南へ目をやると、通りは下りの坂道になっていて、バザールを見下ろす格好になる。そしてバザールの向こうには、中央アジア最大のモスク、大きな青いドームが美しい、荘厳なビビハニムモスクが控えていた。
僕には見覚えのある、しかしユウコには初めて光景である。
「ついにここまでやって来た・・・」。僕はしばし感慨にふけりながらビビハニムモスクを眺めていると、何も知らないユウコは「どうしたの? 早く行こうよ」とせっついた。
タクシーを拾ってホテルザラフシャンへ向かう。ロンプラによると、ここは「うるさくて、気まぐれで、セキュリティは疑わしく、虫も見かけられる、しかし立地は良くて値段も安いホテル」として紹介されている。朝夕には湯の出るシャワーと、トイレ付きの2人部屋が10ドルとある。ヨルダムチでの話だと、料金は3倍になっているが、サマルカンドではおすすめのホテルである。どんなものかと思ったが、なんとまあ小さなかわいらしい宮殿のような建物で、外見もきれいだが、内装もまた美しい。階段の手すり、廊下に敷き詰められた絨毯や、飾りカーテン。部屋に入ればベッドカバーにもカーテンにも花柄をあしらった、なんとも少女趣味的だが清潔感にあふれている。Renovationという言葉がよく似合う。これで1泊30ドルとは、むしろ割安ではなかろうか。チェックイン時にフロントの料金表をちらりと見たところ、やはり1人15ドル相当であった。予約なしで来るとソム払いが原則のようだが、我々は予約をしていたので、ドルによる4泊分前払いである。
【サマルカンドといえば】
まだ陽は高い。僕はこの街で観光名所を見て回ったことがある。早くそれを見せたくて、引っ張るようにユウコを連れだし、「とにかく、まず初めにこれを見よう」とばかり、やって来たのはレギスタン広場であった。
3つの大きなメドレセが一堂に会したかの如く、三方に囲まれたその広場はウズベキスタンでも指折りの見所であり、ウズベキスタンの、というより、ティムール帝国のかつての栄光を物語る光景の一つでもある。僕はユウコにそれを見せたくて、なにはともあれ歩いて連れてきたのだが、このレギスタン広場を眺めながら、「俺はついにここまでやって来た」と思うと感慨深く、夕日に映えるメドレセを前に、涙が出そうになった。
【この旅にかけるもの、の一つ】
今から4年前、ツアー旅行でウズベキスタンを観光した。まだ学生時代の、僕にとって初めての海外旅行であった。同行者も気持ちの良い人たちばかりで、見るもの聞くもの食べるもの、全てが初めての旅は面白く、楽しいものだった。が、それと同時に、ツアーの窮屈さも感じていた。僕はそのとき、「いつか自力でここまで来てやるぞ」と固く誓ったのであった。
そして結婚してからは、「いつかはユウコにこの美しい光景を見せたい」と思い続けていた。その建物が、いま、我々2人の目の前にある。
しかし、そのレギスタンは、いつもと同じように、そこにあった。
中国から長らく陸路を旅してきたが、サマルカンドは僕にとって重要な通過点の1つであったことを、このレジスタンを見るに至って改めて感じさせたのである。ここまで来たからこそ、「次はイランだ、トルコだ」という前向きの姿勢が強くなってくる。タシケントでは、もちろん疲れの影響が大きいとは思うが、気が抜けていた部分があったことは否めない。「もういいや」という、投げやりな気分にもなっていたものだ。
【そして今後にかけるものは】
トルクメニスタンのビザに関しては、お国事情もあるとはいえ、思案が足りなかった。
できることならイランまで陸路で行きたいものだが、スケジュールを鑑みるにつけ、それはもう出来ないという結論が出ている。仮にビザを延長し、ウズベキスタンに長く留まるとして、トルクメンに入るのは10月末になる。とすると、イランへの入国は11月上旬だ。11月いっぱいはイランに留まり、下旬か12月はじめにトルコに入る。12月半ばまでにイスタンブールまで行く。そしてブルガリアからルーマニアへと北上する・・・と、これではルーマニアのクリスマスに間に合わない。
クリスマスをルーマニアで過ごすためには、ルーマニアに至るまでの道を急がねばならない。
イラン・トルコを急ぎ足で通り抜けるのはあまりにも惜しい。そして、ウズベキスタンで無為に日を重ねるのはあまりにも虚しい。
ならば10月10日より前にトルクメンに入れば良かったかというと、それをするには、今度はウズベクでの滞在機関を切り詰めることになる。それもイヤだ。なにかを切るとすれば、それはトルクメニスタンであった。我々は、もはや中央アジアの風土に飽き飽きしていたのだろう。トルクメニスタンは、これまでの3カ国+新疆とはまた違う風土もあるのかもしれないが、しかし今の我々には「もう充分」であった。
ふたたびトルコ系の国、ふたたびプロブ、ふたたびラグメン、ふたたびシャシリク、ふたたび羊の肉、ふたたび、田舎臭い好奇の視線・・・。
「もうけっこう!」
すでにこの時点で、トルクメニスタンではアシガバード以外に立ち寄らない心づもりでいた。途中の都市はすべて通過する。アシガバードでは日曜バザールと競馬が見られればそれでヨシとする。トルクメニスタンの見所メルブの遺跡すら切り捨てるつもりであった。その大きな理由は「ろくな宿がない」ことにあった。人によってはそういうのを好んで行くのだろうが、我々にはそういう気力が萎えたと言っても良かった。トルクメニスタン大使館で会ったビジネスマンは飛行機で日帰りすることを勧めてくれたが、そこまでして見に行くほど、我々は遺跡好きではない。「そういう旅行は別の機会にでも出来る」とも思っている。
今後の予定は、以下のようになるだろう。
10/3 サマルカンド@
10/4 サマルカンドA
10/5 サマルカンドB
10/6 サマルカンドC
10/7 サマルカンド→ブハラ ブハラ@ 電話する
10/8 ブハラA Sashaに聞く
10/9 ブハラB
10/10 ブハラC
10/11 ブハラ→ウルゲンチ→ヒワ ヒワ@
あるいはウルゲンチに泊まり、14日のブッキングをする
10/12 ヒワA
10/13 ヒワB
10/14 ヒワ→ウルゲンチ→タシケント タシケント@
10/15 タシケント滞在 出発準備 郵便 買い物 タシケントA
10/16 タシケント→テヘラン
※テヘラン行きの事前調査が必要
タシケントの宿について再考(ヨルダムチに電話するか?)
10/4〜16の生活費について。宿代は1泊40ドルと考えて520ドル、ただしサマルカンドの3日分(90ドル)は支払い済み。その他の生活費は1日3000ソムとして、39000ソム。