8月14日(金) 敦煌 晴れ

中国西域、敦煌からトルファンへ向かう途上に哈密(ハミ)という街がある。哈密にはとくに見所もなく、旅行者にとっては素っ気ないが、静かな街である。ところで、敦煌からトルファンへは、夜行バスで24時間以上かかる。中国では、「夜行バス」と言いながら、ときには街道宿に宿泊させられることもあるという。この場合、乗客に選択肢は無い。まともな宿に泊まればそれでも良いが、沿道の粗末な田舎宿に泊めさせられることが多く、衛生面でも治安の面でも、良い話を聞かない。安心した宿を確保するためには、自分で旅程を決めるに限る。敦煌から哈密、哈密からトルファンへは日中のバスがあるようなので、確実な宿を取るべく、ハミに1泊することにした。

 

夏といえども、敦煌の朝は冷える。レインコートを羽織る。腹を冷やさないことが重要だ。

哈密行きのバスは敦煌を8:00に出発。途中、柳園10:40着11:40発。13:50、星星峡なる、街道の田舎町で休憩。ここは哈密市への関所となるらしい。

バスは良く舗装された道路を快調に進む。この道は「西域公路」といって、ウルムチと蘭州を結ぶ道路である、沿道にキロポストがある。それを元に計算すると、哈密までの距離を推定することができる。午後3時半を過ぎたところで残り100kmほどになった。この調子で行けば夕方5時頃には着くかな。とすれば、宿探しも焦らずに出来るし、のんびり散歩もできる。たいした見どころはないようだが、町をぶらぶらするのも息抜きになるだろう・・・と淡い期待を抱いていたところで、道路に「工事中、脇道へ」の看板が現れた。

脇道など、無い。砂漠を進むのみである。またまたオフロードだ。「工事区間は限られているのだから、すぐに本線に戻るだろう」とタカとくくっていたのだが、悪路はこのあと1時間半続いた。砂利道、砂道、凸凹道。対抗車が来れば砂煙が舞う。エアコンのないバスは車窓を全開にしているため、砂煙がもうもうと入ってくる。シートのクッションは硬く、悪路ではケツが痛くなる。対向車は多い。赤子は泣く。子どもははしゃぐ。窓は落ちる。荷は崩れる。Long and Winding Roadとはこのことだ。

 再びアスファルト道に戻ったところで「哈密54km」の看板が出た。

 そこから20kmほど走ると、道路の向こう、砂と石と土の海の彼方から、城壁ならぬ、ポプラの壁が現れる。今の我々のように街に向かう者にとっては、これがいわば「街への入り口」となる。街の側からすると、これは人間世界と砂漠世界の境と言っても良いだろう。柳園から哈密まで、その間には人間世界の産物はほとんどない。星星峡には検問と食堂と宿とがあるけれど、道中にあるものといえば、草の木一本生えていないうねうねとしたハゲた小高い丘陵、ごつごつとした岩山、砂漠、ステップ・・・人の気がまったく感じられないのである。ふと、やりきれない思いに駆られるぐらいだ。

 ポプラの壁は道路を中央に左右1kmぐらいに広がっているように見える。これを過ぎると沿道には砂漠が無くなり、ポプラの並木道となる。道に沿って水路もあり、辺りには住居、馬車、ロバ車、子どもなどなど、緑と人間の世界が広がる。どこかホッとした気分になる。いくつか集落を出入りして、客を拾ったり降ろしたり、あるいは別の郊外バスを抜いたりしながら、18:30に哈密汽車站に到着した。

 

汽車站の近くにあった中銀賓館は「歩き方」より少し値が上がって1泊120元だが、非常にきれいなホテルである。ユウコがフロントで「外国人でも大丈夫ですか」と尋ねると、問題ないという返事が返ってきた。ところが、これまで宿泊の際には必ず氏名やパスポート番号などを宿帳に記入させられていたのだが、ここでは何もしなくて良いらしい。「手続きが速くていいや」と思って眺めていると、宿泊者名が「李平」になっている。本来は外人不可の宿なのかもしれない。だから安いのだろうか。ユウコは少し心配そうだが、僕はすんなり宿が確保できたこと、清潔な部屋に泊まれることが嬉しかった。

 

しかし、部屋に入って荷をほどいても、ユウコの心配は募るばかりだった。

「ねえ、大丈夫かな。あなたの名前、李平にされちゃったよ? きっとこのホテルは外人不可なんだよ。とつぜん公安が来て連行されたりしないかな」。僕は「そんなことないよ」と簡単に答えたが、彼女はなおも続ける。「だってほら、これ見てよ。この領収書、変だよ」。見ると、領収書の押金(デポジット)の欄に、払った100元のほかに何やら乱雑なメモ書きがある。「旅行社に関する何かが20元」と書いてある、ように見える。いや、見ようによっては押金が20元であるかのようにも思える。が、ホテルの従業員が書式に従って記述をしない(つまり書きたいこと、書くべきことを、書式欄に構わず書いておく)のは今日に始まった話ではないし、我々は宿泊費120元のほかに、押金として120元を払っている。押金(デポジット)制度は中国のホテルの慣例であるが、デポジットした金はチェックアウトの際に帰ってくる。これまで、押金でトラブルになったことはない。ユウコも当然そのことは分かっているはずなのだが、今回ばかりはどういうわけか、心配が消えないらしい。彼女はさらに続けて言う。「押金のレシートは服務員に2枚とも渡しちゃったから、私たちにお金を払った証拠はないよ。明日、『あんたがたからは120元なんてもらってません!』なんて言われたら、どうするの?」

 「どうするったって・・・」なんだか無用な心配をするなあと思いながら、「そしたら宿の領収書を見せればいいじゃないか」と答える。と、ユウコはさらに「でも、この領収は『李平』さんのなんだよ。『中国人と偽っただろう』なんて公安に言われたらどうするの?」

 

僕はなにも心配していなかったが、ユウコはしつこい。はじめは笑って話をしていたので、半ば冗談のつもりなのかと思ったのだが、度が過ぎる。お互い、朝からのバス移動で疲れているのだから、いい加減にしてほしかった。僕は話を打ち切って荷ほどきにかかったが、その後も彼女は1人で「大丈夫かなあ」「李平だよ」とぶつぶつ言っている。僕はイライラしてきた。

「そんなに気になるんだったら、泊まらなければいいじゃないか!!」

軽く言ったつもりだった。それが、ひどく強い調子になってしまった。彼女はピタリと話をやめ、ふくれっつらをしてプイと背中を向け、自分の荷物の整理をはじめた。気まずい空気が流れたが、僕は心配していなかった。とりあえず、彼女が静かになったことで、僕の気は晴れた。

しかし、彼女の気は晴れなかった。しばらく押し黙っていた彼女が、突然声を荒げた。

「いつも都合が悪くなると私のせいにばっかり!!」

ハッと顔を上げると、ユウコは僕の横で直立になって泣いていた。顔がくしゃくしゃになっていた。

 

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僕は言葉ができないことを言い訳にして、面倒な交渉ごとは全てユウコに丸投げしていたのだ。「任せる」という名の「押しつけ」である。交渉というのは疲れるものだ。ことに中国人を相手にした交渉は、言語の問題を越えた困難が伴う。彼らは、こちらが遠慮してくると傘にかかって攻めてくるし、黙っていれば何もしてくれない。暗黙の期待は、まず全てが裏切られる。あとから不平を言えば、「事前に言わないあなたが悪い」ということで、こちらの責任になる。金を払ったからといって、日本人が暗黙のうちに求めがちな、「あうんの呼吸を読みとるような」サービスは期待できない。そのような状況で、僕は彼女にそういった面倒事を押しつけていた。そして、うまくいかない。それは彼女のせいであることもあるし、そうでないこともある。いずれにせよ、僕のイライラは募る。結果として、僕は彼女にあたる。彼女は彼女で、何もしてくれない僕に対してストレスがたまっていたのだ。

 

僕は、この哈密での一件で、あらためてそのことに気づき、以来、「自分の勝手な都合をユウコに押しつけてはいけない。自分ももっと中国語を使えるようにならなければ」という意識を持つようにもなった。旅の相方が楽しくなければ、自分も楽しいはずがない。そして、こうように問題が発生しても、「1人が良いなあ」とは思わなくなった。なぜなら、旅の喜びや感動は、1人でいるよりも2人でいる方が、断然大きいのだ。それは、ひとり旅とふたり旅を経験しているからこそ分かる。

 

それに、苛立ちを覚え、不機嫌になるのは、たいてい疲れているときか空腹のときであった。疲労と空腹は多くの場合、同時に起こる。例えば、朝からバスで長い時間移動して、ザックを背負ったまま宿を探し歩いて1時間、気がつけば夕飯時でお腹が空いてくる。辺りはだんだん暗くなり、焦りと寂しさがわき出てくる。これでイライラしないはずがない。こういう場合、ユウコに対してイライラしていたのではなかった。むしろ、自分のふがいなさに苛立っていたのだ。たしかにユウコは交渉が下手で、ときにモタモタして、腹を立てたことは多い。だが、だったら自分でやれば良いではないか。自分でできないから、かえって自分に苛立つのである。こういうときに限って、今までたまったイヤなことが思い出され、それでイライラが増長される。ところが、苛立っているのはそのときだけで、ようやく宿が決まり、気に入った食堂が見つかれば、全てを忘れ、ユウコとビールで笑顔の乾杯だ。単純なものだが、この単純に最初に気づいたのはユウコであった。僕の機嫌が悪いのをいち早く察知するようになり、その場では口を開かないようになった。もっとも、そういう局面では、たいていユウコの機嫌も悪かった。そのことに気づいたとき、2人であることの良さをひとつ知ったのだと思う。ユウコという客観的な視点から自分の機嫌を知る。おかしなことだが、僕はそれでずいぶんと助けられ、結果的に旅が順調に進むようになった。

 

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 気を取り直し、2人で散歩がてら夕食に行く。19時を過ぎたが、まだ明るい。

 たまにはちゃんとした店で食べようと言う話になり、通り沿いの漢餐庁に入る。客は少ない。辛くないものを選んだので、無理なく食べられた。どれもうまい。

 日本人の若い男が2人入ってきた。学生風で、体格は細い。彼らは僕らと同じ宿に泊まっていた。我々がチェックインしているところへ、ちょうど彼らも入ってきたのである。同じバスに乗っていなかったようだが・・・と思っていたらと、あとで「トルファンから来ました。あしたは敦煌です」と、我々の逆ルートを行っていることを教えてくれた。そうそう、彼らはとなりの部屋なのだ。我々のいざこざが一段落したところで、片方の男が、なぜか歯を磨きながら我々の部屋を訪ねて来たのである。彼は歯ブラシで口をモゴモゴさせながら、こう聞いた。「宿泊費が120元なのに、あとから取られたあのお金は、いったいなんなのですか?」 押金のことを言っている。いままでもずっとそうだが、中国の宿ではデポジットマネーを取る。フロントで取られることもあるし、各階の服務員に取られることもある。引き替えとして、宿泊証とでも言うべきプラスチックのカードをくれることが多い。それを説明すると彼は納得して戻った。歯を磨いていたのは、そのとき思い立ってどうにもならなくなったのだろうか。そういえば上半身裸だったような気がする。話しぶりは非常に謙虚で、好感が持てる感じではあった。

 その彼らが我々の入ったレストランにも入ってきた。なんたる偶然。しかし、彼らは我々から離れた席に座る。遠慮しているのか、気がつかなかったのか。

 

 ニンニクとキュウリのサラダがうまい。これを前菜にビールを頼むと、ウェイトレスがグラスに注いでくれる。ビールは上海の食堂でも注いでもらったことがあるが、漢人はビールを泡立てずに注ぐのが美学のようである。コップは持たずにテーブルに置き、瓶の口をコップの端にぴったりと付け、注ぐビールはコップの端を流れるように、静かに。コップを持つと怒られる。そして、ビールは升酒の如く、なみなみに注がれる。

 

 食事を終えて外へ出るとまだ明るい。やっと夕暮れの気配を感じさせると言ったところだ。それでも時計を見ると21時前である。

 文化宮公園をひと回りする。沿道の外柵には、哈密にまつわる英雄の話が、紙芝居調で描かれていて面白い。時代も、唐やら清やらある。知っている名前も出ていたが、ちょっと忘れてしまった。

 

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