8月22日(土)  クチャ  晴れ    カシュガルへの移動日

 移動日。チェックアウトが正午なので、ぎりぎりまで部屋でノンビリする。

 

 カシュガル行きのバスに乗るべく12時に汽車站に行くと、バスはない。チケットはすでに購入してあるが臥輔の番号はなく、これでは予約とは言えない。「テキトーに発券しているのかね」。と心配していると、1台の寝台バスが入ってきた。これに乗るらしい。つまり我々は途中乗車ということになる。だから臥輔が決められていなかったのだ。どこでも好きなところに寝て良いらしい。今回の臥輔車は3列式で、寝台の間には通路があるから隣り合って寝る必要がない。僕は乗車口から少しうしろ、真ん中の列の上段をとった。ユウコはその後ろの上段を取る。

 

 乗車口のすぐ脇の臥輔で、少し太ったオジサンが横になっていた。彼は我々がバスに乗り込むと、興味津々といった様子で我々のことをしばらく凝視していたが、やがておもむろに英語で話しかけてきた。カリムと名乗る彼は、パキスタン人である。僕は英語が得意というわけではないが、久しぶりに旅の話し相手ができ、うれしかった。

 カリムさんはパキスタン・フンザの出身。いまはカシュガルで働いているとのこと。14歳のころからホテルの厨房をやったりマネージメントをやったり、経験も豊富である。イスラマバードだかカラチだかで、日本の系列ホテルのマネージャーもやっていたことがあるらしく、日本に対してもそれなりに理解がある。話の雰囲気では親日家といえた。

 何のきっかけからか政治の話になった。日本には二院制の議会があること。片方の任期は4年だが、首相が解散をすることもできる。もう片方は6年で、3年ごとに半分が選挙で入れ替わる。選挙は国民が全員参加する。

 彼が政治の話をしたのは、パキスタンがつい最近、核実験を行ったことについての意見を僕に求めてきたからなのかもしれない。僕が切り出したわけではないが、彼が自ら話題を振ってきたのだ。

「先にやったのはインドだ。だから我々はやり返した。本気で戦争をする気はない。しかし、態度を示さないと、彼らが攻めてくる。」。

「核ミサイル発射実験をして以来、アメリカの態度が変わった。そもそも、我々の議会はアメリカべったりで腐敗していた。しかし、今回の一件でアメリカはそっぽを向いてしまった。これは我が国にとって、近い目で見れば打撃である。政治は混乱するだろう。経済も、落ちるかも知れない。しかし、長い目で見ればこれは良いことだ。我が国の議会は腐っていたが、これで良くなる。」。

「君たち日本人もご存じと思うが、今のパキスタンの経済状態は良くない。しかし、たとえばこのバスを見ろ。我々にはいま、このバスを作る技術はない。しかし、来年までには、ハンドルを作れるようになるだろう。次の年はタイヤを、その次はシートを、エンジンを。そうやって、やがて、そう、5年か10年たてば、いつか我々の力でバスを作れるようになるに違いない。」。

「隣人が突然、刀を振り上げてきたらどうする? 我々だって争いは望まない。だから、彼を説得するだろう。しかし、丸腰ではできない。丸腰で彼の前に立って話しかけても、奴は有無を言わさず刀を振り下ろすかもしれないから。ただ説得に行って、それで殺されたって、なんの意味がある? だから、我々も刀を振り上げて話しかける。『刀を下げなさい。そうしたら私も下げるから』と。こちらから先に刀をおろすことは、決してしない。彼が飛びかかってくれば、それに対抗する。きっと殺し合いになるだろう。相手もそれを分かっている。奴も死にたくないから、すぐに刀を使おうとは考えないだろう。彼は刀を降ろすだろう。そこではじめて我々も刀を降ろす。対話はそこから始まる。」。

 

ひととおり話を聞いた後で、彼が僕に尋ねてきた。

「もしも君が、なんでも自分でやれる力があるときに、わざわざ他人の言うことを、いちいち気にして意見を伺ったりする必要が、あると思うかい?」。

 

 そうなのだ。日本は、いちいちアメリカの顔色をうかがって自分で何もできない状態でいる。わざわざアメリカの力に頼る必要のないことでも、自ら判断することをしない。彼が言うとおり、それは「能力がない」のではないのだ。

 

 彼は日本を非難することはしなかった。むしろ「自分の国には問題がある」ことを強調していた。しかしそれは、僕にとっては大いに考えさせる問題だった。「今はできないが、今にできるようにしてみせる。」。と、自分の国の将来を熱く語る彼の姿は、とても印象的であった。

 

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 ところで、バスの中ではもう1人、我々に興味を注ぐ若者がいた。ウイグル人のダリ君である。我々がバスに乗り込む直前か直後に、とつぜん彼は話しかけてきたのである。というより、意味不明の奇声を投げてきた、という雰囲気であった。浅黒く、引き締まった体格から発せられる彼の言葉は、はじめは単に、我々の日本語を面白がってオウム返しをしているだけなのかと思ったが、「カオリ」だの「オキナワ」だの、我々が使っていない単語、つまり彼が知っている単語を羅列しているのだった。また、ダリ君は地元ウイグル人であり、漢語もあまり話せない様子だが、臥輔が近いユウコに、漢語でちょこちょこと話しかけている。

 

 昼食は、例によって街道の食堂で摂る。大きな鍋にラグメンの具を煮ている。実にうまそうだ。横には羊の肉がぶら下がっている。カリムさんが、我々が頼むより先に、僕らの分もまとめて注文してくれた。「辛くするな」。だの「新鮮な肉を使ってよ!」。だの言っている、らしい。「ほっておくと作り置きの古いのを出してくるから、うまくないんだよ」。ここのラグメン(拌面)はとても美味しかったが、カリムさんは苦笑した。

「こりゃビーフだね。あそこに羊がかかっているのに。詐欺だなあ。」。

 

 パキスタン人のカリムさんは清潔家だ。トイレに行くとき、必ず水差しを近所の食堂から借り、それに水をもらって持っていく。たぶん彼はトイレで紙を使わないから、洗い水が不可欠になるのだろうが、彼は最初のトイレ休憩で僕と入れ違いになったとき、わざわざ「ここには水がないよ」。と教えてくれたのである。彼にとっては当然の習慣なのだ。中国に来て以来、トイレに関しては、やりきれない思いをしてきた我々であったが、清潔維持のための習慣を徹底する彼の姿は、正直言って驚きでもあり、また、文明を感じてホッとさせられた。

 

 ところで、ウイグル人は漢人以上によく食べる、ような気がする。さっき食事をしたと思ったら、バスの中でまた何か食べている。次の休憩地でも、さらに別のものを食べている。ユウコと2人で「まったく、よく食べるよなあ」。という話をしていたら、それを察してかカリムさんが大まじめにコメントした。

「ウイグル人の頭の中には、踊ることと食べることしかないのさ。」。

腹が出ておりヒゲもあるので、けっこうなオジサンかと思っていたが、カリムさんは僕と同じ今年27歳になるのだった。ダリ君のほうはまだ若く、21歳ぐらいだっただろうか。

 

 新疆での生活が長いカリムさんはウイグル語がペラペラである。そのカリムさんが、車中でウイグル語を教えてくれた。ヤクシミシズ(こんにちは)、ラヒマット(ありがとう)、ビル・シケ・ウチ・ドユト・ベシ・アルテ・イェテ・セケス・トクス・オン(1〜10)。

 それを見ていたダリ君が、「日本語の数字をおしえてくれ」。と言う。そこで教えてあげるのだが、全然覚えられない。「イチ・ニ・ゴ。シチ・ハチ・ジュージュー」。 以来、ことあるたびに「シチハチジュージュー」。と話しかけてくる。実のところ、彼の頭は弱い。カリムさんも、ダリ君の切望により、英語でワンツースリーや「Where are you from ?」。を教えていたが、さっぱり覚えられないのだ。しまいにはカリムさんも匙を投げた。

 

 カリムさんはフンザの出身であるが、ふと蘭州で会ったメガネ君・ヒゲさんコンビを思いだした。そこで、「そういえば、フンザは良いところだという話を、別の日本人旅行者から聞きましたよ」。と話すと、カリムさんはしたり顔でこう語った。「そうとも。フンザはとても自然も豊富で景色も良いし、多くの旅行者が訪れる。とくにトレッキングに来る人が多い。日本人も多いよ。フンザの近くには世界で3番目に高い山がある。世界一はエベレスト、2番目はK2。その次に高い山だ」。

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 この話は疑わしいのであとで調べてみると、エベレスト、K2の次はカンチェンジュンガで、これはネパール東部、エベレストの東にある山である。フンザに近いところでの有名なものは、たとえばナンガ・パルバットが8125mである。ちなみにカシュガルからフンザへ向かう街道筋、中国サイドにはコングール(7719m)、ムスターグ・アタ(7546m)といった山がそびえている。

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 「日本人客が多い」。という話が挙がったところで、ふとトルファンでの経験や、ネパールにトレッキングに行った知り合いの話を思い出した。要するに、日本人に人気のある土地には観光客をターゲットにした日本語の使い手が多いという話を、である。すると、彼の返事はこうであった。

「フンザでも、多くのポーターは日本語がうまいよ。それは自然なことさ。たとえば君がトレッキングに行ったとしよう。ポーターを1人つける。トレッキングが1週間という短い期間であっても、山中での君の話し相手はポーターしかいないわけだ。だから、ポーターが言葉を覚えるのは道理だよ。それに、言葉を覚えたポーターのほうが仕事もたくさんもらえるし」。

さらに続く。「フンザは、水もうまいんだ。そして、有名なワインの産地でもある。」。これには僕も驚いて、「あなた方はムスリムでしょう。ムスリムは、酒を飲むことは禁じられているのではないですか?」。すると彼はニヤリと笑って、「たしかに。だけどね、フンザのワインはうまいんだ。だからそのワインのことを『フンザウォーター』と呼んでいるのさ!!」。と答え、大笑い。僕が「パキスタンも行ってみたいですね」。と言うと、「フンザは本当に良いところだ。ぜひ行くといい。ほかの都市は、たとえばカラチやイスラムバードなんかは、女性旅行者には居心地が悪いかもしれないが、フンザの人々は違う。我々はイスマイリ派だからね。イスマイリ派はとくに、女性に対して冷たくしないんだよ。異教徒に対しても寛容だ。差別をしてはいけないのだ。これが、教祖イスマイリからの教えなのだ。ほかのイスラムとは、この辺りが違うんだよ」。

彼は続けて、「君たちはパキスタンには行かないのかい? せっかくカシュガルまで行くのに」と、やや残念そうに聞く。「ビザがないので、行きたくても今からでは無理です」と僕が応える。「ならば、ぜひともタシュクルガンまでは行くべきだ。ほんとはその先のフンジュラブを越えてフンザまで行ってほしいけどね!」。

僕は彼の話を聞き、フンザに行きたい気持ちがますます強くなってしまったが、ビザがないため叶わない。「次回の宿題として取って置くぞ」と固く誓うのであった。そして、今後の旅程を次のように決めた。「フンザは無理だが、今まで迷っていたタシュクルガンには行くことにしよう。ホータンはあきらめよう」。それは同時に、ウルムチまでの「タクラマカン一周陸路走破」をあきらめることを意味する。カシュガルからウルムチまでは空路を使わなければ、先々の旅程が狂ってしまうからだ。だが、我々は「どこまで我慢できるか」を競って旅行しているわけではない。実のところ、バス旅は、いまの我々には苦痛であった。カシュガルからウルムチまで行くバスルートには、大きく2つある。ひとつは、今まで走ってきたトルファンからの道筋を戻る方法。もうひとつは、カシュガルからホータン、チャルチャン、チャルクリクと西域南道を使ってコルラに帰り、ウルムチに至る方法である。

同じ道を帰るのはイヤだ。行くなら違う道が良い。だが、その道は、今来た道よりも長く、辛く、厳しい。「逃げ」を打つようだが、我々は空を飛ぶことに決めた。

 

 23時30分。暗いながらも大きなバスターミナルで停車。ここはどこかと尋ねると、アクスである。地図から察するに、クチャからアクスまで12時間以上もかかるとは驚いたものが、それもこれも道が悪いのと、バスの調子が悪いのが原因である。

汽車站は明かりが乏しく、周囲は真っ暗闇で、バスを降りてトイレに行くのも懐中電灯が欠かせない。しかし、おかげで満天の星空を楽しむことができた。

 

8月23日(日)  車中    晴れ

 払暁、僕はウトウトしたり眠ったり、目を開けて時計を見ると朝9時を過ぎていた。すでに30分近く路上に停まっているような期がする。

身体を起こして周囲を見ると、パンクの修理をしているらしい。すでに目覚めていたユウコが言うには、「夜中にも1回修理したんだけどね」。そういえば長いこと停まっていたような気がする。あれは単なる休憩ではなかったんだ・・・。

 

バスはいっこうに動く気配がない。タイヤのみならず、エンジンの点検もしている。エンジンは前日から調子が悪い。道はまっすぐ。辺りは砂漠。岩山も見える。草木は少ない。ときおり、別のバスが猛スピードで行き過ぎる。我々はそれを恨めしそうに眺める。昨日、バスに乗った時点でのカリムさんの話では、「午前中にはカシュガルに着くから、日曜バザールには十分間に合うよ」とのことだったが、この調子ではあきらめなければならないようだ。

 

 10時を回って、バスが動き出した。

 

 ほどなくして小さな街道町に着き、朝食休憩。露店ではスイカを山積みにして売っている。思わずカメラのシャッターを切ると、売り子のあんちゃんが「俺も撮ってくれよ」と言うので、ふたたび撮る。するとそれを見ていたダリ君も「俺も」と1枚。こういうのは旅先では楽しいひとときであるが、売り子が「写真を送ってくれないか」とせがんできた。

困ったことになった。「それはできない」と断ると「なぜ? 住所も教える。必要だったらお金も払う。10元? 50元? なんで送ってくれないんだよ」と、なかば懇願ぎみに訴えてくる。いささか哀れである。ダリ君も同情して「なんとかならないの? もっとお金が必要?」と尋ねてくる。ユウコはメモ帳に「お金の問題ではないのです」と書くのが精一杯であった。

「我々は長い旅の途上にあります。写真をいつ送れるのか、また、本当に送ることができるのか、それを約束することができないのです」。

 

 それはそうと、ここのトイレはすばらしいトイレであった。いままでのトイレは、まずたいていは不潔で陰気でじめじめして、においがきつくて、眼下の肥溜めにはウジ虫がわんさかとわいて、とても「できた」ものではなかったが、ここのトイレは野ざらしも良いところだ。そのトイレは、眼下に砂漠を見下ろせる斜面の高台にあった。床面には木の板が張られており、ターゲットの穴が開いている。穴をまたいでしゃがむと、目の前には仕切りもなにもなく、ただ眼下には大荒野が広がる。真下は崖斜面なので、モノどもはそこへ落ちる。10mはあるだろう。距離があるので臭いがとどかない。これが良い。

隣人との境界は地表から高さ30cmぐらいの『壁』があるのみで、男女のトイレは30mほど離れてはいるものの、しゃがんでいない限り「丸見え」である。腰を下ろせば目の前には広大な砂漠。はるか彼方には北に連なる天山山脈を眺めることができる。大地に向かうこのスタイル。トイレの写真を取り忘れたのが残念であった。ただし、簡素で粗末で不潔なトイレであることに変わりはなかった。

 

 その後、バスは順調に飛ばし、お昼前にカシュガル汽車站に到着した。市街に入ると街道がだんだんとにぎやかになり、人やロバ車の往来が盛んになってきた。野菜を載せた荷車。羊を載せた荷車。人の喧噪。往来で舞い上がる砂埃。カリムさんも嬉しそうに「バザールに間に合ったね」と教えてくれた。

我々は圧倒される。これは、クチャで見たバザールとはまるで規模が違っている。バザールの影響か、汽車站も客が多い。