8月24日(月)カシュガル        晴れ

ユウコと相談し、明日、タシュクルガンへ行くことにする。

その結果、ホータンへは行かないことにした。

 

これは日程上の都合もあるのだが、もっと大きな理由として「移動に対する疲れ」を挙げておかねばならない。

中国には主要な目的地がいくつかあったが、その中でも「カシュガルまでは、ぜひとも陸路で行きたい」という思いが僕には強かった。カシュガルが一つの目標点だったのである。

もちろん、カシュガルから先、崑崙山脈の北麓路を東南へ509km進み、白玉河と墨玉河に挟まれた大オアシス都市ホータンを訪れ、その後はチャルチャンからチャルクリクと西域南道をぐるりと回ってウルムチまで陸路で行き、これで砂漠路を走破だ! という夢もあった。しかしそれは、改めて考えると「カシュガル以降」の、付随的な願望に過ぎないのではないかという気がしてきた。

だから、もう良いのではないか。わざわざ辛い思いをして陸路にこだわる必要はないのではないだろうか。

 

それともう一つ、「新疆に対する飽き」も挙げる必要がある。もちろんホータンにも、玉の産地であるとか、刺繍がすばらしいとか、バザールが大きいとか、魅力はないわけではない。しかしその一方で「ホータンも、けっきょくはクチャ、カシュガルと同じなのではないか」という、半ば確信めいた思いがある。

トルファン、クチャ、カシュガル。中国西域での主要なところはすでに見てきた。クチャの金曜バザールも見た。「東洋で最大 −そしておそらく世界でもっとも魅力的で圧倒的な− 」(ロンプラ)と評される、カシュガルの日曜バザールも見た。「もう十分ではないか」という気がしてきた。

それに、これはクチャで強く感じたことだが、「砂漠のオアシス」「シルクロードの要衝」「民族の交差点」と言ったところで、どこへ行ってもここは中国なので、漢人の影響が大きい。もちろんここは新疆の地だから、ウイグル人は多い。しかし、漢人主導の社会であることは揺るがない。まだ見ぬホータンではあるが、「(新疆として)ここも同じだ」という結論の出ることが、ある程度分かっているのだったら、わざわざ時間をかけて見に行く必要はないのではないか。時間を短縮するならカシュガルからホータンまで飛行機で行くという手もあるが、そこまでして見に行くほどのものでもない。

 

結局は疲れなのだ。「ここまで来たのだ。良くやった。もう良いだろう」という思いが、今の我々にはあった。

結論として、カシュガルからウルムチまでは、空路で行くことにした。

 

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 中国のビザが切れる。我々の入国は7月29日。Lビザ(観光ビザ)の有効期限は30日間なので、8月27日で切れる計算になる。ウルムチへ飛んだあと、国際列車でカザフスタンの首都アルマトイを目指すことにしているとはいえ、8月31日の列車に乗るためにはビザを延長しなければならない。これはすでに折り込み済みである。かねてからの予定通り、カシュガルの公安でビザ延長の手続きをすることにした。

公安は構内も綺麗で、調度も格式高く、立派なソファや机がある。掲示の地図も多い。手続きの職員も優しい。「いまここで延長すると、24日(今日)から27日の分が無駄になるけど良いですか?」などと聞いてくれるのが嬉しい。8月31日の列車に乗るために125元もかけて30日分も延長するのは効率が悪いが、これはかねてからの計画なので致し方ない。何度も書くが、ここで中国の滞在を延ばしては、次の予定に響くのだ。それは中央アジアにとどまらず、イランやトルコ、さらにその先のヨーロッパまでの行程に影響する・・・。

もちろん、そこまで行けたらの話だが。

 

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 明日タシュクルガンへ行き、明後日カシュガルに戻ってくるとして、ウルムチへは3日後の出発ということにする。人民飯店に中国民航のオフィスがあって、誰もいなかったが呼べば出てきてチケットを買えた。2人のお姉さんが手続きをしてくれたが、パスポートの名前を見て、2人してクスクスと笑っている。「佐藤」が珍しいのか、なんなのか。

インターネットができるところを探しに電信大楼やらCITSやら色満賓館やらをたらい回しにされた挙げ句、結局 John's Cafeでしかできないことが判明した。このJohn's Cafeは・・・「歩き方」での説明と店の看板を察するに、紅茶もコーヒーも飲めるし、ホットケーキなどの「西洋的」ブレックファストが食べられるという、西洋人にとっては「ありがたい」店なのかもしれない。しかし、料金は割高だし、横目で見る限り、料理も大したものではなさそうだ。それでも人気があるのは、ここがおそらく唯一「英語の通じる食堂」であることなのだろう。漢字の理解できない西洋人旅行者にとっては、まさにオアシス・・・なのかどうかは知らないが・・・。割高なのは飲食だけにとどまらず、インターネットも1分1元と法外だ。「メールは見るだけにして、ちゃちゃっとやって15分ぐらいで済めば、まあいいか」と思っていたが、通信速度が遅く、エラーも多く、47元も取られた。なんたる屈辱。

 

 ぶらぶらと歩いていると屋台街の通りに出てきた。これは地図に記述がない。夜の8時だが、まだ明るい。非公式での地元の時間ではまだ6時なのだから無理もない。ここの屋台街も、全体としてはまだ準備中の様子だが、仕込み中ながらも前を通ると「座って行きなよ!」と声がかかる。ごく少数ながら、ビールを飲んだりしている人もいる。

 我々も座って餃子を食べた。屋台街の面白いところは、ある屋台の前のテーブルに座っていながら、違う店の品物を注文できるところにある。「ビールありますか」と聞くと、水餃の女将が、小僧に「おいビールだ」と命じる。すると小僧が、ビールを調達しに別の店に走る。小僧が忙しそうなら、隣の、ビールも扱っている店の人に声をかけて、ビールを持ってきてもらう。あるいは「ビールは如何?」と、ビール専門の売り子に声をかけられることもある。

 

【翌日】

8月25日(火)  カシュガル      曇り時々晴れ    移動日(タシュクルガンへ)

タシュクルガン行きのバスは9時出発とのことで、早起きをして其尼瓦克賓館へ向かう。

戻ってくるのだから、荷物を全部持っていく必要はない。ザックをホテルに預けることにした。我々はサブバック1つずつと、防寒用の服と寝袋を入れたビニール袋を1つずつ持つ格好になった。

其尼瓦克賓館には8時半過ぎに到着。すでにバス待ちと思われる客が2-3人、集まっている。

ユウコが「買い出しに行ってくる」と言うので、僕は荷物番をして待つ。と、日本人が3人ばかりやって来た。若いカップル風の学生2人に、小柄でまるっこいオヤジが1人。若い2人はザックを背負っているが、オヤジは軽装、サンダル履きである。どうやらオヤジはバスに乗らず、ここで2人を見送るらしい。彼ら3人で話に興じているので、僕は話しかけない。

彼らは声が大きいので、横耳を立てなくても自然と話が耳に入ってくる。オヤジは旅の経験が豊富で、知識もある。いっぽうの若者はというと、知人のトランペッターM氏に似た男性は、アジア横断を目指す様子で、最近日本で出版され話題になった「アジア横断」(旅行人)を片手に、オヤジにいろいろと質問をしては、神妙に話に聞き入っている。このオヤジの言うことは、もはや大半は忘れてしまったが、こんなことを言っていた。

「アジア横断ルートで、いちばん観光のズレ度が大きいのはイスタンブールだね。観光ズレ度200%。トルコ全体としては120%ぐらいかな。東部のほうは田舎で良いよ。バンコクのカオサンは150%だねえ」。

僕も、イランやトルコはやがて通る予定の国であるだけに気になるところではある。だが、通る予定だからこそ「あまり耳に入れたくない」という思いもある。いずれにせよ、ベラベラと自分の旅行譚を自慢気に語るそのオヤジに、僕は好感を抱くことができなかった。いっぽう、旅行話に花を咲かせる彼らは彼らで、横にいる日本人らしい男(=私)が1人、荷物片手に立っている様子には少々に気にかかっていたらしい。ユウコから預かる小さなサブバックには、オヤジの興味を強くそそったようである。ユウコが帰ってくると、オヤジは誰に話しかけるでもなくこう言った。

「あれで旅行できるなら相当の強者だ。インドだったら可能なんだけどねえ」。

我々としても無下にそっぽを向く期はないので、これを機会に彼らに話しかけてみた。彼らは皆、ここキニワカ賓館のドミトリーに泊まっているとのことである。我々がパキスタンへ行かず、カザフスタンへ向かうと知ると、これもまたオヤジの興味をそそったらしく、僕に聞いてきた。

「どうやって行くんですか?」

そこで僕は「ウルムチから列車で入るつもりですが」と答える。「伊寧には行かないの?」「ええ」「ここからだったら、キルギスに越えられるよ」「知ってますよ。バスがあるんでしょう。でもいつ出るか分からないんでしょう?」僕がそう言うと、彼はこう語った。

「夏場は週2回、バスが出るんだよ。月曜と木曜。ここ(キニワカ賓館)にもキルギス人がいっぱい泊まっていたよ。だけど先週のバスで、相当出ていったなあ。あれが最後かもしれないね。でもそれで終わりじゃないんだよ。10月までは月2回は出ているはずだよ。バスは5月から出ているんだ。6・7・8月は週2回。だけど、ガイジンは乗れないよね。CITSが許可出してくれないからね」。

キルギスへの山越えにはCITSの許可が必要なことは僕も知っている。話は興味深いが、オヤジの話しぶりが不愉快である。この辺り、どうも自分でも世渡りが上手くない。ちょっとイライラしてきたが、オヤジは構わず「中央アジアではどんなとこに泊まるんですか?」と聞いてきた。

ここで素直に「どこかオススメの宿はありませんかね」とでも聞いて、情報を引き出す能力があれば、僕の旅もずいぶんと変わってくるのだが、こういう人から情報を聞くと、彼(の情報)に操られてしまうような気がするので、どうにも拒否反応を示してしまう。オヤジの人格云々よりも、自分の性格にも損が有るなあと気づきつつ、つい「まあ、でたとこ勝負でいこうかと」と、話を切ってしまった。

 

中央アジアについて、丸オヤジはさらにこう語った。「カザフスタンは物価が『異常に』高いんだよ。あれでよく暴動が起きないかと不思議なくらいだね。中国の、ざっと4〜5倍だからね。キルギスはその半分といったところだね。ウズベクは、まあカザフと変わらないね」「カザフは独立したとはいっても、自国の軍隊がないから、国境では未だにロシア軍が駐留しているんだよね。だからカザフは、いまでもロシアに頭が上がらないんだよ」。僕は黙って聞いていたが、直感的に彼の意見には大いに賛同しかねた。それは、我々がまだ見ぬ国についての不安を和らげる情報であったに違いないが、同時に、まだ見ぬ国への期待をぶちこわす情報でもあった。「知ってしまった」という感覚。「教えられなくても、行けば分かる」という思い。

 

 それとは別に、僕はこの丸オヤジの発言に少なからず反感を抱いていた。だいたい、何を以て「物価が高い」のか。中国よりは高いかもしれない。それは明白だ。しかし、日本よりは安い。それに、その物価体系であっても生活する人々がいるわけで、つまり物価は土地の生活水準に照らし合わせて判断するのがスジなのではなかろうか。彼が言う「物価が高い」というのは、「彼という一旅行者として」物価が高いのであって、それに対して文句を言う筋合いは、彼にはないのではないか。「あれで良く暴動が起きないものだ」と言うが、さらに物価の高い日本でも暴動は起きていない。日本は物価が高いが、いっぽうで労働賃金も高い。カザフスタンは、そのバランスは確かに悪いかもしれない。いやきっと悪いのだろう。しかし、それでも「生活できている」という事実を重く見るべきではないか。たとえば、ロシアのシベリア地域などでは給料の滞納、遅配が頻発しているが、かの地域で、時たま暴動の話は出るものの「餓死者が出た」という話は、あまり聞かない。もっとも、報道されていないだけなのかもしれないけれど。

実際にカザフスタンを訪れてからも、これらの言葉を思い返したが、カザフスタンにはロシア人も多いし、街の雰囲気も非常にロシア的だし、独立国とはいえ、「ロシアと同じ」と考えると、物価が高いことも含めなにもかもが概ね納得できる。

 

 さらに、彼はあたかも「中国より物価が高いなんて、カザフスタンはけしからん」と言いたげであったが、その根拠はどこにあるのだろうか。かつては世界を支配しようとしたソビエト連邦の一員だった大国だ。中国とカザフの国力にどのていど違いがあるのか、不勉強ながら全く想像がつかないが、カザフスタンの物価が中国よりも高いことに対して、ガイジンである貴方が不平を述べる根拠がどこにあるか。そもそもソビエト連邦は昔から物価が高いのだ!!

 

最後に軍隊の話が出た。「外国軍に駐留させるなんて、独立国なのに情けない」と言いたげな意見であった。しかも、「国軍を持つ金がないから」ロシア軍に駐留させている、とも言った。かの国は独立したからといってロシアと断絶したわけではないし、むしろ友好国であろう。だいたい、それを言うなら、米国の軍隊が「安全保障のため」「アジア地域の安定のため」駐留している日本は、いったいなんなのだろう。彼にそれを説明できるだろうか。しかも、彼の話ではカザフスタンはロシア軍駐留に対して金を出していないようだが(ロシアにとって国益に叶うからだろうが)、米国にとって国益に十分叶っている在日米軍に対し、日本は一体どれほどの金を投資しているのか、彼は知っているのだろうか。すなわち、我が日本国は独立国でもあるにかかわらず、「安全保障」のために外国軍を金で雇い、地域住民の反対をよそに土地を提供し、「彼らの国益」のために苦心しているのである。(もっとも、米国が駐留することは日本にとっても「国益に叶う」ことなのかもしれないが。そして、おなじ兵力を米国軍でもなく、『自衛隊』でもなく、自国の軍隊として整備したら、アジア諸国から相当の非難を買うのだろうが・・・。)なんにせよ、彼の言葉はそっくり日本にも当てはまるのだ。

「独立したとはいっても自国の軍隊がないから、国境では結局米軍がいまだに駐留しているんだよね。だから、いまでもアメリカに頭が上がらないんだよ」。

 

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いっぽう、2人のカップルには好感が持てた。青年M氏は体力もガッツもありそうだし、そしてこれからの旅に夢と希望をふくらませている様子がうかがえる。明るく爽やかである。女性のほうは、こちらは中国に留学しているとかでパキスタンには行かないのだそうだが、謙虚な女性だった。あとでバスの中で聞いた会話を考えると、彼らはどうやら行きずりらしい。

 

我らが待つ其尼瓦克賓館の構内に、ピカピカのメルセデスベンツ製大型バスが入ってきた。こんな上等なバスは中国では初めてだ。いままで見てきたポンコツバスとは大違いだ。ほかの客も驚いた様子である。このバスはパキスタン行きの国際バスで、乗客の大半がガイジンであった。そのほとんどがバックパッカーである。自転車を積んでいる2人の旅行者があった。片方は白人だが片方は東洋人、というか、あとでドイツ人に「日本人ですか?」と間違えられるほど日本人的な風貌だが、彼の答えは「スイス人です」であった。その彼らの自転車は積み込み手間賃が500元とか言われたらしく、いたく憤慨している。人間より高いのだから怒るのは当然である。

バックパックは例によってバスの屋根上に積み上げるのだが、白人たちの何人かは自分のザックを包み込む大きな麻袋を持っていた。なるほど、そうやってザックを麻袋に包んでおけば砂まみれになることもないし、少々の雨露もしのげるだろう。用意が良いものだ。

 

良い席を取りたいので早く乗車したいが、扉は閉まっている。自然と列ができる。地元民はそれに割り込んで並ぼうとするが、我々のようなガイジンが多数を占めるこの環境では、それは許されない。

横に並んでいた背の高いメガネの白人に英語で声をかけられた。彼はドイツ人である。中国からパキスタンに行けることが嬉しくて仕方ない様子で「これで中国ともオサラバさ!」とニヤリ。我々がカザフスタンに行くと聞いて、「ふむ、旧ソ連だね・・・治安は大丈夫なのかい?」と、我々が不安になるような質問を投げてくる。僕もだんだんパキスタンに行きたくなってきたが、もはやそれは叶わない。ビザがないのだから。彼に「このバスはメルセデスですね」と言うと、またニヤリ。「ほかの中国製のバスとは違うのさ! これで快適なバスの旅だ!」

扉が開いて乗車。タシュクルガン行きのバスでは「左側の席」がオススメだと本に書いているので席を取ろうとした瞬間、さきほどの青年が「でも、左側って、どっちを向いて左なの?」と言う。一瞬、僕も惑わされた。進行方向の左に決まっている。

しかしバスはなかなか出発しない。バスに乗る前、国境を越える人々に対してはパスポートチェックをやっていたのだが、パスポートが1人分、余っているらしい。所有者がバスに乗り込んでいないのである。日本のパスポートを手に、職員がバスに入ってきて、「君はAか?」と僕に聞いてくる。男性なのだろう。なかなか出発できない状況に乗客は苛立ち始めているが、我々としては、同胞であり、同行者ともなるA氏の動向が気になる。

そのA君、息せき切って戻ってきた。見たところ学生のようである。彼は我々の1つ前の席を取ってあった。座ったところで僕が「だいじょうぶですか?」と聞くと、彼は苦笑いをして「ええ。ホテルでちょっともめて。もう済んだんですけど」と答えるが、イライラしている。窓の外を睨み、「まだ言ってんのかよ、ちきしょう」と再び外へ走る。ホテルの女性職員2人が立っているところへ行き、少しもめたのち、すぐに戻ってきた。

 

バスは予定より1時間遅れの午前10時に出発した。

1時間も走れば、もう周囲は山だ。谷川沿いの峡谷を行く。斜面は大きく切り立っており、その度合いは、日本の峡谷とはわけが違う。谷筋には雪崩のあとか土砂崩れのあとか、とにかく斜面が派手に削られており、土砂や石が路上にもあふれている。道幅は5m程度だから、完全によけられるものではない。斜面の崩れは完全に収まっているわけではないらしく、ときおりコロコロと小石が転がるのが見える。道が完全にふさがれては通行不能だが、幸いそこまでは至っていない。しかし、崩れは幾所にもあり、なかにはアスファルトが完全に削れている区間もある。あるいははじめから舗装を断念しているのかもしれない。こういった悪路が数十m続くところもある。しかしそんな悪路も、ポンコツバスならいざ知らず、このメルセデスはへいちゃらだ。多少揺れるが衝撃はほとんどないし、少々減速する程度で、バスは実に順調に山を登り、高度を稼いでいく。

すこし峡部が広くなった。横の川幅も広くなる。川の底は浅い。岸には湿原も広がり、羊や馬が草を食んでいる。それにしても、切り立つ斜面の急なことよ。斜面にはもはや緑はなく、岩がそそり立つのみだ。

 

16時、カラクリ湖に到着。すでに富士山より高い高度にいる。そしてここはタシュクルガンよりも高く、4000mは間近だ。湖は静かである。対岸に大きな山がそびえている。あれがきっとムスターグ・アタ山(7546m)なのだろうが、山頂は雲に隠れ、見えない。雪を頂いている様子はよく分かった。もう少し雲が切れれば氷河が正面に見えるはずだが、これは叶わず残念だ。日本人カップル2人はここで降りた。湖畔のパオに泊まるのだそうだ。

17時にタシュクルガンに到着。標高は3600m。

国境のフンジュラブ峠までは、ここからまだかなりあるのだが、中国側のイミグレーションの町になるので、バスはここで1泊する。パキスタンへ向かう乗客も全員ここでいったん降りて、今日は思い思いの宿に泊まる。そしてこのバスは明日の10時に出発し、いよいよ4934mの峠を越えてパキスタン側の村スストに入ることになっている。

 

タシュクルガンは小さい町だが、宿がいくつかある。バスの発着所には交通賓館がある。フロントで話を聞くと、シャワー・トイレ付きの標準間が100元。シャワー・トイレ共同の4人部屋が、1階TV付きなら1人20元。TVがないと15元。2Fの4人部屋は25元。寒いし、動き回ることもないのでシャワーは不要だが、宿の出入口が開けっ放しなので1階では治安に不安が残る。よって2階の部屋に決める。

バスを降りた客で、この宿を選んだのは少ない。我々がチェックインしようとすると、隣に韓国のパスポートを持った背の高い青年が、どうしようかと悩んでいる様子で立っている。悩んでいるのはフロントの料金表が壊れているので判読できないせいもあるが、どうやら彼は漢字が読めないらしい。彼は僕に英語で話しかけてきた。僕が今聞いたばかりのフロントの話を伝えると、彼もここに泊まることに決めた。するとフロントの女性は我々が仲間と勘違いしたのか、相部屋になってしまった。頼んで変えてもらってもよかったが、彼の手前、それはためらわれた。

 

タシュクルガンの目抜き通りとなっている街道は並木がきれいだ。この町で見るべきものは、周囲の山と石頭城ぐらいだろう。

石頭城。起源は南北朝にまでさかのぼるという。ずいぶんと昔から、このような辺境に城を置くとは、さすが漢人、たいしたものだ。石の城壁しか残っていないが、高台にあるので景色がよい。切符売りの爺さんは小柄なタジク人で、声をかけて写真を撮ると喜んでいた。

 

「歩き方」によれば、町からはずれると湿地帯があるような書き方で表現が悪いが、これは「湿原」とするべきだろう。町はずれから河へ降りていくと湿原が広がる。緑のきれいなところで、山にかかった雪の白と、空の青とで映える。放牧の馬が多い。羊もいる。近くにいる羊たちを眺めていると、少年どもが5人ばかりやって来て、我々の前に横一列に並んだ。やおら、向かって左の子から「俺の名は○○だ」「俺の名は・・だ」と英語で始まり、5人が終わったところで最初の子が一言、「それで、貴方の名前は?」と、我々に聞いた。

 これには驚いた。僕は中国に限らず、外国を旅行して子どもたちに声をかけたりかけられたりしたことはあったが、まず自ら名乗り出るということは無かった。良い教育を受けている。写真を撮ると喜んで駆けていった。

 

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 そしてこのように自己紹介をする子どもには、この先も会うことはなかった。

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 町に戻って来た頃にはだいぶ暗くなっており、腹も減ってきた。

 いったん部屋に戻る。すぐに食事に出ようとすると、韓国青年が英語で話しかけてきた。「火を使ってもいいかい?」僕は理解しかねた。すると再び、「部屋で火を使ってもかまわないかな」と問う。真意が図りかねるが、「我々にとっては問題ないけど・・・ホテルにとっては問題ないのだろうか?」と答える。彼は「それは問題ないよ」と笑った。

 そのまま夕飯を食べに、彼を置いて部屋を出る。

 ユウコは「カレーが食べたい」と言う。「パキスタンに近いからといって都合よくカレーが現れるほど、世の中は甘くないよ」とちゃかすと、彼女はすでにカレー屋を発見しているのだそうだ。そのカレー屋は交通賓館の向かいにあった。

 愛想の良いおばちゃんがいて、「カレー・ナン・チャイ」のセットで10元という。ユウコが「カレー、カレー」と大いに期待する。我々は街道に面した戸外のテーブルに座った。すると、さきほどバスで出会ったA君ら、数人の日本人がやって来た。「ここの飯、どうすか?」と聞いてくる。「これからです。セットで10元らしいです」と答えると、彼らも我々が座っている円卓を囲んで座った。

 A君以外の人々は昨日からここに来て遊んでいるのだという。西安に留学中の女の子が2人。日本からの男子学生が3人、それと、50近い細身のオジサン。

飯を待つ間、A君が朝の顛末を照れくさそうに語ってくれた。彼はキニワカ賓館に泊まっていたのだが、昨日、部屋に置いてあったカメラがなくなったのだそうだ。服務員が盗ったのは明らかなのだが、証拠がないのでどうしようもない。さらに、宿泊費を払っていないという、根も葉もないクレームを付けられたのだそうだ。「けっきょく押金を50元取られて解決ですよ」と、悔しそうだ。「いま、中国元がほとんどないんですよ。ほんとはもう少し余るはずだったんだけど、結局あたらしいカメラを買ったから。パミール賓館が15元。ここでメシ食って10元。あと4元しか残らねェ」と笑う。

A君はこの先、パキスタン・イラン・トルコとアジア横断の旅だが、男子3人連れの学生さんは夏休みだけの中国旅行である。大学で中国語を勉強しているのだという。これからトルファン、敦煌にも行くのだそうで、我々も少しばかり情報を提供する。

 キニワカ賓館の発券所の話では、タシュクルガン行きは「1日1本」だったが、地元民ばかりを乗せた市バス風のバスを少なくとも3台は追い越した。そのうちの1台には漢字で「カシュガル−タシュクルガン」と書いてあった・・・ように思う。バスターミナルからも出ているのかもしれない。考えてみれば我々が乗ってきたバスはパキスタンへ行く国際バスなのであった。国際バスだからこんなに上等なベンツの綺麗なバスで・・・と思っていたのだが、昨日ここに来たという彼らの話を聞く限り、そうでもないらしい。昨日のバスは中国によくあるポンコツバスで、カシュガルから10時間もかけてここまでやって来たのだそうで、「着いたらもう真っ暗でした。することないんですよ」と、みんなして笑った。我々のバスは、いわば「当たり」である。

 話をしていると、3人の中国人がやってきた。彼らと同宿らしく、顔見知りの様子である。このうちの1人の男性が、僕を見るなり驚いた顔で、なにか尋ね、周囲の笑いを取っていた。「あなたは、もしかして香港の方ですか?」と真顔で尋ねたのだとユウコから説明され、僕も笑った。A君、少し寂しそうに「俺だけか、ここで中国語分からないのは・・・」とつぶやく。「いや、僕もわかりません」と答える。

その驚いた青年は、広東から来たという。名前は聞きそびれた。あとの2人は何夫妻と名乗った。小柄な何夫人は元気印、英語もペラペラで、良くしゃべる人である。屈託のない笑顔が人柄を良く表していた。その彼女が「明日タシュクルガンに帰るのなら、一緒に行かない?」と誘ってきた。夫妻はすでに車をチャーターしているらしい。運転手付き、ワンボックスの車なので、人が多く乗ればそれだけ安く上がるのだという。いま、この席にいる人々のうち、A君を除く6人(女の子2人、3人の学生、そしてオジサン)が同行することが決まっている。そして、「あなたたち2人が乗れば全部で・・・運転手を入れると・・・11人! わあ、ぴったりよ!!」と大喜び。バスで帰れば値段は60元だが、この車なら1人50元と言う。車で行けば早く帰れることは間違いないのだが、ここにおいてスピードはあまり重要ではない。行き先のカシュガルはすでに地理も分かっているし、宿泊場所もほぼ決まっているから、遅くに着いても問題はない。それに、大型バスでのんびり帰っても苦にはなるまい。そのほうがかえって景色も雰囲気も楽しめるというものだ。そう考えこむ我々に対して「だったら、45元でいいや! ね?」と何夫人は明るく、押し切られてしまった。

 

食後、この店のカレーは「値段が高い」と彼らには不評だったので、少々申し訳なかった。あとで調べると、「歩き方」に出ている店だった。僕は、かなり辛いカレーではあったが、そこそこうまいと思っていた。ところがユウコは大いにがっくりしたらしい。その理由を尋ねると、「だって、カレーは結局拌面にかかっているのと同じトマトシチューみたいなやつだし、羊だから臭いし・・・」とげんなりしたように言う。僕が「でも、パキスタン人だって羊を食べるんだよ、イスラムなんだから」と返すと、「そうだけどさ、すごく辛いじゃんか。」「パキスタンのカレーだって辛いのかもしれないよ。」「こんなのカレーじゃないよ。」「パキスタン人だったら『これはカレーだ』と言うかもしれないよ。ボンカレーみたいなカレーは、こんなところじゃ出てこないよ。」「・・・」「だいたい、ここは中国なんだよ。」「・・・」「それに、ナンはパキスタンのナンみたいたっだでしょ?」「そうだけどさぁ・・・。」

期待が大きい分、失望も大きかったのだ。

 

ところで、同席した2人の女子学生はどうもいけすかない。彼女たちの会話が印象的であった。

 「あたし、友達になったパキスタン人に『なんでインドと仲が悪いの?』って聞いたの。そしたらね、こう聞き返されちゃった。『もしあんたが隣に住んでいる住人に、とつぜん、【わし、あんたのこときらいやねん】て、言われたらどうする?』 それで、『その人のこと嫌いになる』って答えたら、『それと同じだ』だって言うの。そんなのうそだろー」。ここで、みんなして大笑い。

 彼女たちのこの無邪気な笑いも気になるが、それよりなにより、「なんで仲が悪いのか」などと、よくも質問ができるものだと、その無神経さに驚いたのだ。

無知。無知ゆえの不遜。しかし、知らないからこそ悪気なくできる、その態度。悪気がないだけに、厄介な行為であろう。世の中にはそういうこともある。

いやいや、疑問に思ったことを素直に質問できるその心は、純朴で良いのかもしれない。が、そうすると、最後の笑いと矛盾するのである。彼らと別れてからその話をユウコにすると、ユウコはこう答えた。「報道の影響が多いのかもしれないよね。アメリカの影響というか。日本だったら、インドが良い者、パキスタンが悪者だものね、やっぱり」。

 

 それはそうと、夕食の席でJonh's Cafe の話が出た。やはり不評であった。話によれば「パンケーキを頼んだらナンがでてきたし、コーヒーはまずいし・・・」と、ろくなものではない。結論として、中国文化に馴れない欧米人旅行者のために、彼らになじみ深いものを出そうとはしているが、けっきょく中国で集められる食材は限られており、完全な「西洋式」とはいかないどころか「西洋風」にもなっていない。「中国式に毛が生えた程度」ということだ。しかし、店には白人客がけっこういたものだ。

 

 部屋に帰ると香の匂いがする。韓国青年が炊いていたのだ。ここでやっと「火を使って良いか」の意味が理解した。「いい匂いだね」と言うと、彼が答えた。「どうもアレの臭いが苦手で」。羊のことを言っている。我々はさっき食べてきたばかりだった。思わず口を押さえる。

 彼はメロンを食べていた。おそらく夕食なのだろう。我々が自分のベッドに腰掛けて日記を付けていると、ブツ切りにしたメロンをブリキの皿に入れて「どうぞ」と差し出した。「僕らは夕食を済ませてきたし、だいいち君にお返しできるものがないから受け取れない」と断るが、「食べ物はみんなでシェアするのが我々の習慣だから」と言う。好意を頂くことにする。甘いメロンであった。ユウコがお返しにと日本の絵はがきを渡す。彼は苦笑いをして受け取る。

 なにか話しかけなくてはと思うのだが、こういうときにパッと思いつく質問がない。ユウコと2人してこそこそとしゃべっていると、彼がおずおずと言った。「あの・・・僕のことは気にしないで、いつものように振る舞ってくれてかまわないよ」。

「中国は好き?」と彼が聞く。「・・・まあまあかな。君は?」と聞き返すと、眉をひそめて「僕は嫌いだ。とくに新疆は、うるさいし、きたないし、ハエは多いし、くさいし。チベットは良かったけど・・・」。彼はザックも大きく、バックパッカーというよりは登山家の風貌であったが、そのとおりチベットでも山を登ってきたのだそうだ。「新疆の、この辺りの山も登るの?」と聞くと、すこしためらいがちに「いや、パキスタンに行ってトレッキングをするつもりなんだけど・・・中国はイヤだ。どこへ行っても金、金、金だ」と、彼は吐き捨てるように言った。

「君たちはパキスタンに行かないの?」と彼が聞くので、我々の旅程を話す。カシュガルへ戻り、空路でウルムチへ行くと言うと彼は「良い選択だ」とうなずいた。彼もバスでは相当苦労したらしい。

 まだ寝るには早いが、彼も我も英語が得意でないので会話に困る。我々は散歩に外へ出た。町は街灯もないのでまっくらけだが、良く晴れており、満天の星空である。どれが何の星座かも分からないぐらいに星が多い。路上でしばらく天体観測を楽しむ。それにしてもほんとにまっくらで、道を外れて転げ落ちるのではないかと冷や冷やするが、地元の人々はそれでも平気で歩いているから不思議だ。夜目がきくのだろうか。それとも、都市で生活する我々にその能力が無くなっただけなのか・・・。