31日(月)北京 晴れ

 

【新空調特快臥輔車】

 移動日。7時半起床。渤海飯店はとても静かで立地が良い。フロントにいつもいるスタッフのオジサン、オバサンも、優しい笑顔で愛想がよろしい。まるで中国とは思えない。

ユウコは体調不良につき、ぎりぎり10時の出発まで部屋でゆっくり過ごし、出発駅の北京西站へ行く。

 

 北京西站は空港のように立派な駅だ。人も多いが、我々が乗る61次列車の待合室をはじめ、人々は全般に落ち着いている。中国で初めて列車に乗った上海站のようなシッチャカメッチャカな雰囲気はない。時期もあるのだろうが、この調子では硬座にも余裕があるのだろう。

今回の列車では、我々は2人とも硬臥の下舗で、これは初めてなので嬉しいことだが、チケットにある番号の寝台に行くと、先客がいた。

若い男と、2-3才の幼児が、我々の場所であるはずの下舗に陣取っている。

彼らを見た瞬間、ついムッときて票を出し、

「ここは我々の場所だ」

と、日本語でつぶやきながらアピールするが、若い男は、

「あ、そうすか」

という顔をするだけで、そこから動く気配はなく、相変わらずシーツの敷かれた寝台に座っている。

「ああ、どうもすいません」という、日本的な反応はない。

 

子どもは、そのシーツの上を立ち歩く。まったく悪びれた様子がない。ムカッ腹が立ってきた。

「負けてはならぬ」とばかり、我々もドカドカと自分たちの荷物を寝台ベッドの上に広げる。男は動かない。

「失礼極まりないぞ!」僕は日本語で悪態を付く。男は相変わらず座ったままで動く気配がない。

そこで、僕は彼の横に座った。すると、彼が話しかけてきた。いつのまにか、相方らしい若い女性がそばに立っている。

2人とも20過ぎといったところだろうか。彼らは親子3人連れということになる。

ユウコが相手をする。

彼らは、我々の上にあたる上舗が取れたのだが(ちなみに中舗は別の夫婦である)、

「(上舗と下舗の)差額を払うから、変わってくれないか」と持ちかけてきたのである。

僕はいよいよ腹が立ち「冗談ではない!」と声を荒げた。

彼らは、はじめからそのつもりで待ちかまえていたのだ。なんたる厚顔。

「交渉の余地はないよ」。

僕はユウコに告げると、通路に立った。これで断ったつもりだったが、彼らの表情はあいかわらず飄々としている。動く気配もない。

 

少し拍子抜けがしてきたところで考えた。

ユウコは体調が悪い。通路や、上の寝台の人々の動きが気になる下舗よりも、天井は低いが誰にも邪魔されない上舗のほうが、ゆっくり寝ていられることができるだろう。

「それに」とユウコが言う。

「子ども連れで上舗は、かわいそうだよ。子どもが落っこちてきたら、責任も感じるし、そうでなくても落ち着かないし」。

「その甘さが命取りだが・・・」と思うが、

「僕は変わる気はないけど、君がそうしたいなら、君だけ変われば良いよ」と答え、そしてユウコは場所を変わることにした。もちろん、差額はきっちり頂いた(下補の方が少し高いのだ)。

こうして話し合いは決着した。中国人にしてはおとなしい方だと思うが、それでも、僕は気分を害され、不愉快だ。

 

列車は定刻通り、1149分に出発した。

 

この列車は時刻表で「新空調特快臥輔車」と出ているだけあって、車内はきれいだし、シーツも新しい。エアコンもよく効いている。

そして乗客のマナーも良い。ゴミはきちんとまとめるし、寝台の脇には果皮皿(ゴミ受け)もあるが、そこには捨てずに、自らデッキのゴミ箱に捨てに行く人も少なくない。

中補の2人は飯を食った後、自分でゴミを捨てに行き、「なんと殊勝な」と感心したが、その一方で、寝台で寝っころがっている最中には、上からチリ紙を落としたり、困る。

さらに、下補に移ることになった子どもは、ミカンで遊んだり、ヒマワリの種をばらまいたり、眉をひそめてしまうことばかりで、

「いっそ、俺も上に移れば良かったかな」と、かえって後悔もする。

横で子どもを見ている若い母親は、我々の視線が気になるのか、ときおり子を叱るのだが、にわかしつけでは身に付くはずもない。

 

しかし、そういう我々も、半日も彼らをみるうち、だんだん気にならなくなってきた。奇妙なものである。

 夕飯には車内販売のぶっかけ飯を食べた。これがなかなか辛い。そういえば昨日のメシも辛かった。ケツも辛い。しかし胃の調子は良い。

この度の中国では哈尓浜以来、うがい歯磨きの際にも水道水を使わず、売っている飲料水でまかなっているのが大きいのではないかと思う。それにしても前回の中国の旅はつくづく、@暑かった A歩き回って疲れていた B大陸の水に慣れていなかった Cメシ屋をよく選んでいなかった(汚い店などに、敢えて入ったりもした) D水回りに対して不用心であった など、いかにも腹をこわす要因が多い。これから暑い国に向かうわけだが、とにかく水だけは気をつけたい。

 明日(3/2)は旧正月15日の「元宵」。白玉団子のようなものを食べるらしい。街角のあちこちで、そんなものが屋台で売られていた。

 

***

 

32日(火) 車中2日目

 

【列車は南へ、春の地へ】

 昨日、北京から3時間ほど走って石家荘に着いたが、この辺りから車窓の畑が緑色になった。春だ。

 地図と時刻表を見ると、前回、上海〜西安で乗ったルートとは、鄭州で交わることになる。昨夜19時半頃のことであった。

 

 昨日は良い天気だったが、一夜明けると曇天。雨も降ったのか、朝ぼらけである。武昌も岳陽も長沙も、みんな夜の内に過ぎてしまった。もはや走っているのは湖南省で、今夜のうちに貴州に入る。毎日テレビで見ていた天気予報でも、ここらは毎日雨続きであった。車窓はけぶっている。そして景色は畑から田園に変わっていた。

 

 中国人は朝が早い。7時半には大半の人が起きて活動している。

 

 どうも中国の寝台列車は朝になると水がなくなる。この列車も例外ではない。無駄に使ったり、出しっ放しにしていては、なくなるのは当然だ。中国人は、とにかくものを無駄に使いすぎる。きっと「この世は無限に広がる大世界」とでも思っているに違いない。だからゴミも平気で捨てることができるのだ。他人のすることをあんまり気にしない民族なのだろう。そこが日本人と違う。日本人は、他人のやっていることを気にする。その結果、自分のやっていることも気にする。曰く、「他人の目」である。これは「恥」の文化につながる。そして、気遣い、思いやり、となる。もちろん、一方では「他人の目さえなければ・・・」という、建前/本音文化にもつながる。中国には、その全てがない。孔子の教えが虚しいぞ。「己所不欲、勿施於人」だ。しかし・・・、床を汚したり、ゴミをまき散らしたりすることすら、「己の欲せざる所」ではないとしたら・・・つまり、やっても気にならないことになる。

 ・・・と、思っていたら、水はなくなっていたのではなく、止めているようだ。服務員がタンクの栓を操作している。失礼しました。

 

 対面の子が我々にも少しずつ慣れてきたらしく、横に座る母親の背中の影からチロチロと見るので、「ベロベロバー」と顔を作ると、ニコニコ笑う。

さらに、我々の行動にも興味を示すようになり、お昼にはまだ少し早い時間にユウコと2人でラーメンを食べていると、「僕も食べたい」とばかり親にぐずり、我々がビールを飲んでいると、「僕もなにか飲みたい」と、またぐずる。親としては、自分たちの予定が狂うし、とくに横になってうたた寝をしているときに子どもがそうなので、けっきょく子どもが叱られる。さいごは子どもに合わせることになるのだが。

昨日はちっとも怒られないで、甘やかされ放題だったが、今日は幾度か厳しく怒られ泣く始末。怒られようが、怒られまいが、子はやかましく、我々からすると、時に迷惑である。それに、怒られるタイミングも親の都合(というか機嫌)によるところが大きく、傍目にそれが「躾」には思われず、子どもが少々哀れでもある。が、いずれにせよ、結論としては「甘い」。もっと他人に気を遣っていただきたい。

 もっともこちらもビール1本で酔っぱらってしまい、その勢いで子どもの相手をした部分はある。静かにしていればカワイイが、大声を出しても親が叱らない。俺が代わって叱ってやりたい。「俺ならこうする」「俺ならこうしない」と、いろいろ考えさせられるが、これも我が子を持てば変わるのだろうか。そう思うと、少し寂しい気もする。

昨日も今日も、夜は車内販売の弁当を食べる。うまい。

 

***

 

33日(水) 車中3日目

 

 夜中、目覚めると3時だ。対面の親子はすやすやと寝息を立てている。

 なんとなく目が冴えてきて、しばらくぼんやりと横になっていると、対面の中補がゴソゴソとしていることに気がついた。寝相かと思っていたのだが、動きとしては少々せわしない。

やがて、そこに2人の大人が毛布にくるまっていることに気がついた。姿は見えないが、気配で分かる。

なんだか気になる。

そこはそもそも若い男が乗っていて、そして僕の上に位置する中補にその相方がいたのだが、つまり今は2人で寝ているのだ。

いや、寝ているのではない。

周囲を気にしているようだが、ゴソゴソとした行動は止むことがない。

女のため息が漏れる。やがてそれは、小さなあえぎ声に変わる。男の息も荒くなる。そしてそれらは、やがて動きが止まると同時に、止んだ。

動きが止まった布団の中で、ヒソヒソと話し声が聞こえ、しばらくすると、女は自分の臥輔に移った。

僕が見ていたことなど、もちろん気がつくはずもない。車内は真っ暗である。

 

つまり、彼らは毛布にくるまって一戦交えていたのだが、朝、その話をユウコにすると、

「それでパンツを干していたのか!」とつぶやいた。

見ると、中補の寝台の手すりに女性のパンツがぶら下がっている。ユウコはほかの女が流し場で下着を洗っているのも見たという。その女のそばには男がついていたらしい。

「しかし、あまり清潔な行為ではないよねえ」と僕が感想を述べると、

「だから性病が多いんじゃないかな」とユウコが答えた。

中国の街には薬局の宣伝広告が多いが、とくに性病・皮膚病のたぐいは「恥ずかしがらず、お気軽に相談ください」みたいな広告が多い。

その彼らといえば、朝はなかなか起きず、目覚めてからは、とくに女は上機嫌で、2人でトランプをしているときも鼻歌が止まらない。

 

 車窓に広がる湖南、貴州は、菜の花畑が真っ盛りで美しい。地形も起伏に富んでおり、山あり谷ありと、飽きない。

川(あるいは池、湖)の推移は、今は低い。水は泥水である。

山の斜面、茶色の地肌と森の境界(今は水辺から遠いが、おそらく最高水位の限界のところ)に、家が建つ。

木の葉形の細長い、屋根付きの船をよく見る。集落は水運でつながっているのだ。森は深い。

 

一夜明けると、雨はやんでいた。土地はさらに茶色になり、むしろ赤い。

 雲南省に入る。空はすっかり晴れ渡り、太陽が高い。