220日(土)哈尓浜 晴れ

 

【長春へ】

6時半起床。外は既にうっすらと明るい。ここはもう北緯46°なのだ。

今日は移動日で、長春まで行く。チケットは一昨日買ってある。415/418直快は855分に哈尓浜を出て、長春に着くのは1214分の予定である。これまでの中国旅行を思うとかなりの短距離移動だが、我々は哈尓浜、長春、瀋陽と、旧満州を少しずつ南下し、ついに北京へ至る計画である。

我らが直快は、北京の南、山東半島の根元、黄河に面した済南行きである。相変わらずごった返す火車站の待合い、そして割り込む人々を見ると、たとえ券の上では座席指定がされているとはいえ、「早い者勝ちで、取られてしまうのではなかろうか」と、我々も焦る。

早いうちに列車に乗り込み、「やれやれ」と腰を下ろす。

人が増えてきて、座席が埋まっていく。

とつぜん、通りがかった女性に声をかけられた。席が違うと言う。

「いやぁ、そんなことは」と思って彼女の券と見比べると、なるほど、同じ座席番号だ。

「ダブルブッキングなのか?困るなあ」と顔をしかめたが、彼女はちっとも困っていない。

「車両が違うわよ、ほら」と、車内の一角を指さす。

「あれ、5号車?!」我々は4号車だったのだ。

呑気にしていた僕は、血の引く思いがした。そろそろ席は埋まりつつある。もう座れまい。

慌てて荷物を抱え、隣の車両へ走る。と、我々の席は空いていた。座席割り当てはキチンと守られているのだ。

「座席指定の硬座と、そうでない硬座があるのかもね。立ち席乗車券とか」。ユウコが言った。

列車は満席だが、立ちの人は少ない。車内の雰囲気ものんびりしており、今まで持っていたイメージと違う。

「硬座も、意外と大したことないよなー」と僕がつぶやくと、ユウコが「甘いよ」と言った。「ぜったい、大変だよ」。

 

我々は横並びに座っている。時刻表を眺めていると、対面のオジサンが「ちょっと見せてくれ」と声をかけてきた。また、ガイドブックを見ていると、さっきから何度も通路を行き来している車掌(列車員)がやって来て、僕の手からスッとガイドを取り、興味深げに見入る。ユウコが中国語でフォローする。

我々が日本人とわかり、車掌も、周りの人々も、ホッとした表情を見せた。

妙な言語を2人でしゃべり、他の乗客との交流をしない我々は、車内でも異質な存在だったのだろう。硬座の他の客は、初めて同士でもおしゃべりをしている。

それでもさっきのオジサンは、我々が慌てて座席についたとき、荷物を網棚に上げるために、自分の荷物を脇に寄せて場所を作ってくれた。皆、やさしい。

駅を追うごとに乗客は増える。いっぽう、ひと駅で降りる人もいる。立ち客も増えて来たが、それでも車内販売はひっきりなしにやって来る。昼飯時には弁当屋も来た。

定刻通りに長春に到着。かなりの人がここで降りた。

 

さて、宿探しだが、駅の構内に華正賓館の看板を発見した。料金も書いてある。駅から近いらしい。試しに行ってみることにした。

駅から5分ほど歩いたところにある華正賓館は、2人部屋は一杯だが、3人部屋なら空いているという。料金はと見ると、160元、2人部屋は普通間120、標準間160180200元だ。

3人部屋は標準間なので、ここのベッドを2つ取ったほうが安く快適である。「これは良いぞ」と2人で喜んだ。

長春から瀋陽へは火車站の前にあるバスターミナルから高速バスが30分おきに出ていることを確認した。チケットは当日、その場で買うらしい。これなら出発時刻を気にしなくても良い。3時間半で着くというから、速い。

 

【偽の国、偽の宮】

長春は満州国の首都「新京」である。その当時の行政建築物は今もいくつか残っており、それぞれ利用されている。ちなみに満州国は、中国では「偽満国」と表現されるが、我々としてはそれらを眺めて、雰囲気が分かればそれで良いので、ここには一泊しかしない。

その前に昼食だ。火車站から延びる中央大街は車ばかりが走る大通りで人気がなく、手頃な店がなかなか見つからない。が、団結路との角に、良さげな食堂を発見! 昼飯時をはずれて客はなく、店の家族だけがのんびりとしていて、なんとなく心配だったが、出てきた料理はいずれもうまかった。

 

そして偽皇宮陳列館に行く。ここは満州国皇帝 溥儀の住まいだが、皇帝の宮にしては質素極まりなく、一国の皇帝と言うより、地方の一名士の館という感じだ。日本としてはもっと立派なものを建てる計画だったそうだが、戦争による資金不足で頓挫したらしい。

まあ、それはそれとして、「なんちゅうか、カイライ」という印象である。

溥儀の心境や如何。

皇宮の中にはインテリアの展示もあるが、資料館としての意味合いが濃く、九・一八事件(柳条湖事件)以来の日本支配に関する歴史展示が多い。

写真も多く、見応えがあるが、さすがは中国で、侵略悪賊日本の非道ぶりが目立つ。

それはたとえば、日本語の強制教育であり、姓名改変であり、神社参拝の強制であり、日の丸の下での婚礼であり、そして虐殺である。

「これを見たら、反日になるよなあ」という感じで、見物客が多い中、なんとなく居心地が悪い。

 

エグイ写真が多いのだ。虐殺された子どもたち、斬殺された抗日義軍のさらし首、手足を縛ったはりつけ拷問、体を地中に埋め、顔だけ出して犬に噛ませる、などなど。

「戦争だから仕方ない」と言ってはいけないのだが、これが戦争の結果だ。

ここでは、日本は加害者であり、中国は被害者である。日本ではこれを「軍が悪い」という教え方をする。ところが中国でははっきり反日思想へとつながる形になっている。かつて西安に行く列車の中で出会った医局院のオバチャンも「日本と言えば山口百恵と南京大虐殺」であった。

それはそれで良いが(教育システムとして理解はするが)、日本では、空襲、沖縄、原爆と、アメリカにさんざんやられたにも関わらず、反米思想にならないどころか、

「アメリカはかつて日本にひどいことを・・・」という教育すらない。むしろ「日本が悪かったんだから(仕掛けたのが日本だから)仕方ない」という形になる。

さらにまた「軍が悪かったのだ。軍部のせいで、こんな戦争になった」となる。ところが、満州へのソ連軍侵攻だけは「条約違反だ」と責める。

そんな中で、今年も遺族会の後押しによる厚生省の派遣団が骨を拾いにシベリアへ行く。

南京大虐殺も悲惨だが、ならば東京大空襲はどうなのだ。広島はどうなのだ。あれもひとつの虐殺行為ではないのか。

 

その後、新民大街に点在する「偽満国 八大部」を見に行く。193243年にかけて建てられた、満州国の統治機関である。国務院(これは八大部に含まれない)、軍事部、経済部、交通部、総合法衙(これも八大部ではない)と、ここまでは良かったが、文教部、興農部は碑しかなく、民生部は場所が分からなかった。ガイドの地図が悪いのではないかと思う。

宿へ戻る。

夕食は部屋でカップラーメンを食べた。スーパーには日清焼きそばUFOや、出前一丁、カップヌードルなどがある。

 

中国人は薄着だ。満州里の国境警備でも、軍や警察はコートを着用しないし、街中でも帽子をかぶる男はまれだ。手袋だってしない人は少なくない。寒いのに!(じっさい、−10℃はある)

革ジャン、ジーンズ姿で背中を丸めて寒風に目を細め、ジャンパーのポケットに手を突っ込み・・・と、ロシア人に比べると相当に寒々しい。

それでも、みんな元気である。

お店の中も寒い。なのに店員は薄着で、寒そうに凍えており、ストーブの脇に座って丸まっている。

翻ってロシアだが、店内はむしろ暑い。ロシア人はみんなすごい分厚いコートを着ているが、その下は薄着で、男は半袖、女はミニスカート、胸元ばっちりなこともある。要は、屋内をそれだけ暖めるのが、かの国ではフツーのことなのだ。中国も寒いが、集中暖房はないのか?

中国の爆竹はウルサイ。今日は初5日で、めでたいのは分かるが、なれない我々の耳には、ただただヤカマシイだけのような気がする。

 

フロアの服務員がやって来た。お湯が出ないと言う。春節は初7日まで出ないのだそうだ。わけが分からない。そういえばエレベータも止まっている。

ポットの開水(熱湯)だったら、いくらでも支給してくれるらしい。それで、頭を洗った。

「実は2人部屋も、いっぱいなんじゃなくて、やってないだけなんじゃないか?」

「たしかに、満室という雰囲気はないよね。人が居ないよ」。

湯に関しては油断をしていたが、「でも、これが中国だよ」と思うと、妙に納得できる。哈尓浜での生活は、中国にしては快適すぎたか?

コートのチャックが、とうとう壊れてしまった。

「そろそろ寿命だということだね。コート君も分かっているんじゃないの?」と、ユウコが笑う。