1月6日(水)ブダペスト 曇り(霧)
【ブダペストからの日帰り旅行】
今日は6時半に起床し、久々におでかけだ。
ブダペストから日帰り観光ということで、エステルゴム、ヴィシュグラド、センテンドレと回る予定にしている。
トラムの1番に乗って、近郊バスターミナルであるArpad Hidのバスターミナルへ行く。ここから8:30発のバスに乗り込む。
今日はどんよりと曇っているが、道中では晴れ間がのぞき、好転を期待する。
エステルゴムには9:45に着いた。
【エステルゴム】
小さなバスステーションのある通りでは青空市がひらかれており、これを冷やかしながら、ロンプラの地図を頼りに街の中心へと歩く。エステルゴムは小さな町だが、中心地にあるインフォメーションでは英語も通じ、街の詳しい地図もあった。これを頼りに大聖堂へと歩く。大聖堂は小高い丘、というか街の真ん中にある崖の上にある。
天気は良くなってきたのだが、大聖堂の周囲だけ、雲が、というか、霧が晴れない。我々が登る坂道の向こうに、その立派な姿があるのだろうが、どんよりと覆う濃い霧は、100m前の建築物すら見せてくれない。街からは青空が見えるのとは対照的だ。写真を撮ろうにも全貌すら見えず、なにやら怪しげな雰囲気である。大聖堂のある丘の上からは、街の西側をゆったりと流れるドナウが望めるはずなのだが、それも叶わず、少々残念であった。
エステルゴムの目的は大聖堂とドナウの眺めに尽きる。あとは街をぶらぶらし、コーヒーを飲み、11:50のバスでヴィシュグラドへと向かった。
【ヴィシュグラド】
バスが走るヴィシュグラドへの街道はドナウ川に沿っているはずなのだが、沿道はやはり濃い霧に包まれ、何も見えない。
ヴィシュグラドの目的は王宮跡の見物だが、沿道に位置するこの町はさらに小さく、今までのようなバスターミナルもない。バスのお客がちらほら降りるのを気にしながら、ここぞと思われるバス停で降りる。
霧はますます濃くなり、気温も下がってきた。歩く右手には山が、左手には川があるはずだが、何も見えない。
ユウコ、何か思うところがあるのか「実家に電話をしたい」という。公衆電話が見あたらないので、電話局まで赴き、テレホンカードで電話をした。両親はごきげんであったそうな。
王宮跡やらシャラモンの塔やらを適当に見て、13:34のバスをつかまえ、センテンドレに向かう。
【センテンドレ】
相変わらず霧は濃い。センテンドレの町も可愛らしいが、今日の中でもっとも大きく、そしてもっとも観光化が進んでいる。ブダペストからも簡単に日帰りできるからか、観光客向けのレストランや土産物店が多い。
今日はここまで、けっこう寂しい思いをしているので、多少賑やかなくらいのほうが、かえってホッとする。
教会を見物し、みやげ物を冷やかして、レストランに入る。今日こそはハンガリー料理を満喫すべく、ユウコはハラースレーを注文。僕はパプリカ肉詰めといきたいが、あいにくメニューにないので、豚肉ステーキを頼んだ。ソースが味噌風味で、うまい。付け合わせはライスとポテトである。
そして、どこかで一度食べたいと待ち望んでいたゲステネ・ピュレをデザートに注文した。
これはモンブランの上の部分を全部としたようなケーキで、そのモンブランは上下の生クリームに挟まれている。つまりマロンのケーキ、モンブランの原型とでも言うべきだろうか、そんなケーキである。生地にはバナナやサツマイモもブレンドされている感じだが、まずこの量には驚いた。
日本でよくあるケーキ屋のモンブランが4つか5つまとめて出てきたようなものだ。
モンブラン好きの僕としてはたまらない味覚である。一緒に出てきたカプチーノの香りも良く、お店の雰囲気も洒落ており、久々のゼータク気分であった。聞けば、これはユウコがガイドを読んで、かねてから気になっていたケーキであり、そしてこのレストランの名物が、このゲステネ・ピュレであったのだという。つまりお目当てだったわけだが、おかげさまで楽しく過ごせた。
さて、食事の前にワイン博物館を見たのだが、ここのお土産コーナーで売られているワインは、同じ銘柄なのに、街中のスーパーの2倍も3倍もする。トカイの最高級6プットは、スーパーで買えば2000フォリント程度だが、ここでは5000という値札が付いていた。
【ブダペストへ戻る】
日が落ちた。センテンドレからはHEV(郊外列車)でブダペストへ、のんびり揺られること40分。
トラムの1番へと乗り継ぎ、5時半に帰宅。天気が悪いのが残念ではあったが、今日は楽しい一日だった。
Arpad Hidのバスターミナルは、ハンガリー国内行きのバスターミナルでもある。朝チェックしたところ、コマロムへは朝8:26発のバスがある。コマロムで降り、少し歩いて川を渡れば、スロバキア側のコマルノへ入れる。これはマサさんから聞いた話である。我々の次の目的地はスロバキアの首都ブラチスラヴァで、ブダペストからは近いし、列車でも国際バスでも簡単に行けるが、ちょっとアクセントをつけようと思ったのだ。いずれにせよ、出立の目途がついた。
【プアーか大国か。旅の雑感】
さて・・・
昨日のオジサンは「ルーマニアはプアー(poor)な国だ」と言う。しかし、poorつまり『貧しい』とは、何を以て指すのだろうか。たとえば我々がさんざん御世話になったダナ一家を例に取ると、彼ら一家の月収は100ドルに満たない。しかし僕は、彼らが貧乏であるとは思わない。立派に生活は成り立っているし、あんなに立派な家に住んでいるし、調度も立派だし・・・と、これでは物理的(俗物的)な面でしか見ていない書き方だが、それよりも、精神的に豊かではないかと思う。家の雰囲気が、そうだ。それは、ミルチェスティのヨゼフ一家にしても同じだ。
我々が住んでいた幕張のアパートと比較してみよう。月収は、30倍以上はある。しかし、我々は“Rich”だっただろうか? 外食もする、贅沢品も買う、遊びにも行く、しかし、我々は“Rich”といえるだろうか?
子どもを持つようになったら、どうなるだろう。まあ、共働きしてあくせくやれば、なんとかなるだろう。しかし、それは「豊かさ」を意味するだろうか。日本とルーマニアは、もちろん国際的地位や影響力は大きく異なるが、だからといって「こっちがpoorであっちがRich」という話は、決められまい。月収96ドル(ルーマニアのある一家。96年)と、3500ドル(日本のある一家。96年)という比較は、どうも不毛に思われる。
まぁ、しかし、この話は何とも言えない。だって我々には、旅行をできる資金と時間が、まかりなりにもあるのだから・・・。
貧富は相対的なものでしかないのだろう、と思う。我々は、日本では金持ちの部類には入らない。しかし、ルーマニア人が「夢のまた夢」という海外旅行をできるぐらいの貯金はすることができた。そして、その海外旅行というものは、日本ではもはや、かなり当たり前のように行われているし、多くの一般的な日本人旅行者は、我々よりも観光に金を使っている。我々の月収は、たとえばダナ一家よりもはるかに多い。が、我々が東京通勤圏で、つまり自分の生活の場としてダナ一家の如く大きな家を持つ(あるいは借りる)ことはできない。早い話、日本で“苦学生”をしていても、ルーマニアの標準的労働者よりも所得が多いのだ(正確な統計を見ているわけではないけれど)。
日本は大国だろうか? 『日本の常識は世界の常識』と思っている人、多くないか?
『この国は遅れてますよ、×××もないし』という話をときおり耳にするが、本当に遅れているのか?
さらに、『アメリカの常識は世界の常識』と思っている人、多くないか?
例えば英語だ。『英語ができれば世界に行ける』と思っていないか?
『この国は遅れてますよ、英語も通じない』。
たしかあれはイチさんだったと思うが、
「ヨーロッパの人々は、アメリカ英語をけむたがる傾向がありますね。いや、たいていの学生は英語を話せるので、それはそれでひとつの驚きですが、アメリカ英語は嫌がられますよ。ブリティッシュなら良いんですよ。やはり、歴史の差でしょうかね」。