118日(日){817日}ラシュト 曇り

 

 部屋に吊したままの洗濯物は、2日かけてやっと乾いた。湿度が高いので通気を良くしないと、たちまち室内が湿った空気になってしまう。

 

【西へ西へ】

 8時半にチェックアウトする。今日はカスピ海沿岸の街道を西北進し、アゼルバイジャンとの国境の街アスタラまで向かい、そこから西へ転じてサファヴィ朝発祥の地アルデビルまで行く予定だ。

「アジア横断」によると、ラシュトからアスタラへ行くミニバスは市の西にある「メイダネ・ヴァリエ・アスル」から出るということになっているが、ホテルのフロントで聞いても、市バスのバス停で人に聞いても、「バスはテルミナルから出る」と言うので、言われるままタクシーを拾ってテルミナルに向かった。

タクシーは東〜東南方向へずいぶんと走り「まさか人気の無いところまで走って、なにか悪いことでもたくらんでいるのでは無かろうか」と心配しかけたところで、テルミナルが見えた。周囲に建物はなく、さして大きくない建物がぽつんと建っている。

初めに聞いたバス会社にはアスタラ行きは無く、イランペイマの窓口で聞くと「ある」という。ほっとして「バスはいつ出ますか?」と聞くと「アレだ」と、建物の目の前の乗り場につけているバスを指さした。珍しくチケットがない。そして、他に乗客もなさそうだ。

 

「この調子ではまだまだ出発は先だろうな」と思い、ユウコはトイレに行き、僕は待合いのベンチで呑気にしていると、さきほど窓口にいたオニイチャンがやって来て「行くぞ、1人か?」と僕をせかす。お客がいないのに出発するらしい。3分ほどでユウコが戻ってきて慌ててザックを抱え、3人でバスに乗る。このオニイチャンが運転手である。

我々は最前列に座る。他に客はいない。まさしく貸し切りだ。それともこのバスは回送で、我々を乗せてくれたのは「サービス」なのだろうか・・・と考えると、チケットがないのも納得がいく。アスタラに着いたら、御礼のチップを払ってあげよう。と思っていたらそうではなくて、通りのあちこちでお客を12人と拾って行くのだ。「アジア横断」にも出ている「メイダネ・ヴァリエ・アスル」も通った。そして、乗り込むお客の数はここがもっとも多かった。ここで我々も料金を支払った。

 

【港を見ながらイランを走る】

 右手にカスピ海を見ながらバスは走る。バンダレ・アンザリでは久しぶりに港を見た。すっと行きすぎたので、写真を取り損ねたのは残念だが、ロシア船籍の船も泊まっていた。その後も、右手には海が見え、左手には水田が広がり、遠くには山を見ながら街道を走る。車窓の景色は楽しいものだが、「あぁ、綺麗だなあ」とぼんやり眺めているだけで、シャッターチャンスをいくつも逃していることにふと気がついた。気がついてカメラを構えると、もう「良い景色」は見えない。ユウコを見ると「私も『撮ればいいのになー』と思うことがあるんだけど、言ったら悪いかなと思って」何も言わないでいるらしい。僕は「だったらひと声かけてくれたらいいのに」とつぶやいた。しかし、車窓は刻々として変わり、シャッターチャンスは一瞬だから難しいものだ。

 沿道の家屋のレンガが赤く、印象的である。

 

 アスタラの町に着く手前にミニバスの溜まりがあり、そこでバスは停まった。お客さんもかなり降りる。運転手や周りの人々が「君たちは何処へ行くんだ。ここで乗り換えするか?」と聞いてくれる。アスタラは国境の町だが、国境線となっているアラス川の向こう、アゼルバイジャン側にも同じアスタラという名の町がある。もともとは1つの町だったのが分断されてしまったのだ。

僕らはビザが無いためアゼルバイジャンに行くことはできないが、国境の街の雰囲気を、というより、これまでのイランにはないアゼルバイジャン的雰囲気を少しでも感じることができるのではないかと思い、このルートを取ったわけだが、「町へ行って国境のゲートを見たところで何があるというわけでもないよな」と思い、バスを降りた。

けっきょく、今日走ってきたカスピ海沿岸もアゼルバイジャン地方ということになるのだが、たしかに民族的には違うのかもしれないが、同じ政治体制、同じ国家の下にあっては、その違いを認識することは我々には出来ない。アゼルバイジャン地方とはいえ、ここも同じくイランなのであり、雰囲気の違いは分からない。といって、川を挟んだ向こうはガラリと雰囲気が変わるのかというと、どうもそうとも思えず、もしも変わるので有れば「ソ連的に」変わるのではないかという気もして、「要するに、いま見ているこれがアゼルバイジャン的なのだろう」と思うと、すこし熱が冷めてきた。

 

 もっとも、もう少し詳しく観察すれば違いは明白になったであろうが・・・

 

 アスタラは海辺の町だが、アルデビル行きのバスはすぐに山を登り始め、延々1時間、つづら折りの坂道を上り続けた。1000mは上がったであろう。眼下に雲が見える。カスピ海の湿った空気が、この山々で遮られていることがよく分かる。そしてバスは峠の短いトンネルをくぐり、あとは下り道。そして平坦な、乾燥した農耕地が広がってきた。

 

【サファヴィ発祥の地アルデビル】

アルデビルに到着。テルミナルからのサヴァリに乗って街の中心へと向かうが、とちゅうでタクシーに変身されることを恐れ、少し早く降りてしまった。ホテル街まで10分ほど歩く。

モサフェルハネ(安宿)・シャムシリにはシャワーが無く、トイレは共同だが、歩き回っても他に良いホテルもなさそうだし、明日はサレイン温泉に行くつもりだからと、部屋も見ずにここに決める。すると宿帳を書く段になってユウコが「やっぱり部屋を見ておきたいな」と、僕に向かって言った。

「だったら自分で目の前にいるホテルフロントに言いなさいよ」と、僕は内心腹を立てた。

ペルシャ語の会話帳は僕が持っているが、無ければ無いで、今までもなんとかやってきたんだから!

・・とは思いながらも、腹が減って気が立っている自分に反省もする。

 

部屋は粗末だが泊まるには問題がない。

腹が減っているとイライラしてくるものだ。荷物を置いたところで気を取り直し、歩いてくる途中に見たおいしそうなタバカ屋に行くことにした。トリが1匹丸ごと出てきて、2人して猛然と食べる。

 

時間があるので散歩がてらシェイク・サフィ・ウッディン廟を訪れる。ここはサファヴィ教団の始祖の墓だが、あまり有名ではない。我々もさして期待もせずに見に行ったのだが、ことのほか美しく、内装も外装も良く整備され、内部には資料館もあるのだが、説明書きも充実している。とくにイランでは珍しく英語の案内がしっかりしていた。荘厳、華麗、優雅、すばらしい。期待が無かった分、感動も大きかったのだとは思うが、雰囲気にはすっかり圧倒されてしまった。これはイラン観光のオススメとして、もっと大きく取り上げられても良いのではないかと思う。

 

バザールを散策する。あいかわらず女子共がうるさい。そして、小さい町のはずだが日本語使いや英語使いがけっこう多い。靴下を物色していたら「ヤスーイヨ」と言い、「2000リアルもするんじゃ、高いや」と突っぱねると、「タカクナーイ、タッタ50円。日本なら2000エン」と、妙にスレているのがカンに障る。

それはそうと、貴金属品店がかなり充実しているのも印象的であった。また、婦人洋服店にも派手で洒落た衣装が多いのだが、ふとした疑問がユウコから沸いた。

「イランの女性は、いつアレを着ているのかな?」

「チャドルの下はけっこうハデハデなのかもよ」と僕が言うと、

「じゃあ、いつそれを見せるの? そして、誰に?」これには答えが見つからない。

バザールには闇両替屋もいて、そこかしこで声をかけられた。ケーキを買って部屋に戻る。今日はサッカーのSpecial Dayなのか、ホテルのフロントでも食堂でもTV放映をしており、男達は試合に見入っていた。

 

ラシュトに2泊滞在した効果か、バムで買ったナツメヤシがすっかり湿気てしまった。悪くなるといけないので、残った23つを今日のうちに食べきった。

 通りに面した部屋に入ったのだが、窓がこわれていて隙間風が入る。部屋を代えてもらった。

 夜は手紙を書いてすごす。