【テヘラン観光編】

 

【考古学博物館・ガラス博物館・絨毯博物館】

 メイダネ・イマームホメイニに近い、考古学博物館とガラス博物館を続けて見物する。

考古学博物館は2階(ペルシャのイスラム化以降の展示)が閉館になっていて、1階にある古代のものしか見られなかったが、ダリウス1世謁見の図や、くさび形文字で刻まれたハムラビ法典などが印象的であった。

いっぽうのガラス博物館は、期待していたほどのものではなかった(展示物は多いので、その方面の人には印象深い場所なのだろうが)。ここのおみやげコーナーで絨毯博物館の絵はがきを見つけた。我々にとっては、ガラス細工よりもこちらに惹かれる。絵はがき1枚につき1つの絨毯の写真があり、年代や品質について詳しい説明があり、興味深い。一辺が1m2mもあるというその絨毯の写真を見て、「ぜひこれは本物を見たいね」と思い立ち、タクシーを拾って行くことにした。

タクシーはぼられてしまったが、絨毯博物館の展示物は素晴らしいものだった。わりと新しい博物館のようだが、ヘタな美術館に行くよりよほど面白い。ただ、閉館時刻が迫っていたため、じっくり見られなかったのが残念だ。パンフレットを買っても良かったかなと、あとから思う。

 

【ゴレスタン宮殿】

 メイダネ・イマームホメイニから南に下ったところにゴレスタン宮殿がある。ここは民俗学博物館も兼ねている。

展示の民族衣装も興味深いが、それ以上に印象深いのは展示物の魅せ方だ。衣装を着せた人形といい、祭りの様子を表すミニチュアといい、その細工の細やかさには感心する。陳列品もみな凝ったものであり、刺繍にしろなんにしろ、芸術性の高さが違う。今まで中央アジアのものばかり見てきたので、どうしても比較の対象としてしまうが、こうして見比べてみると、中央アジアの国々の文化レベルは低いと言わざるを得ない。土産物の民芸品を思い浮かべてみても、その差は歴然としている。それがウズベキスタンであり、これがペルシャなのだと言ってしまえばそれまでだが・・・。

僕の認識が正しいかどうかは、もう少し勉強しないと明らかにはならない。

 

【テヘランの大バザールと、ペルシャ絨毯】

 宮殿からさらに南に下ると、テヘランの大バザールに出る。バザールは店がひしめきあい、狭い路地が入り組み、その合間を人が、リヤカーが、車が、無秩序に行き交う雑多な空間だ。路地は迷路のようで、土産物屋、小売/卸問屋、町工場、すべてがごちゃまぜになっている。絨毯屋を通りがかった。間近で見るペルシア絨毯はやはり美しい。「すごいもんだねえ」と見ていたら、英語マンが登場し、頼んでもいないのに説明を始める。「いま見ているのは工場モノだから、大したものではないよ。それよりも手作りの品はこちらに」と案内する。買う気はないが、冷やかすには良い機会なので付いて行く。ペルシャ絨毯のメインはシルクだそうだが、そのデザインのきめ細やかさに、また驚かされる。すごい、すばらしい! ここでもそうなのだ。トルクメンも絨毯が有名らしいが、ウズベキスタンなどで見てきた絨毯とイランのそれとは、輝き(思わず「おおっ」と言わせしめるその輝き)が違うのだ。それはシルクとウールの違いなのかもしれないけれど。それにしてもシルクのペルシャ絨毯は美しく、小ぶりのモノを23つ持って帰りたいぐらいだ。値段を聞くと、50cm×100cmのサイズで257ドルだという。「ウールだったら、もっと大きいサイズでも100ドル以下で買えるよ」と、我々を誘惑する。が、買わない。いま買ったところで、荷物が増えるだけだ・・・。

 

【モスクと英語マン】

 バザールの中にはイマームのモスクがあるとのことで探し回るが、如何せん道が入り組んでいるので、自分がどちらを向いているのかも定かでなくなる。と思っていると、別の英語マンが登場する。モスクまで案内してくれた。威厳のある建物だ。「ここは君たちは入れないが、バザールの中にはもう1つ、もっと古いモスクがあるよ。そこは中にも入れる」と言うので案内してもらう。「僕らはムスリムじゃないから、怒られないかな」と聞くと「僕のトモダチということにしておけば大丈夫さ」と呑気である。で、入り口で靴を脱いで参拝する。モスク内の壁は銀一色。幾何学的な模様が組み合わされ、さながら万華鏡の中にいるようでもある。初めての我々には目が回る思いだ。きわめて真面目にお祈りしている人々ばかりなので、なんとも畏れ多いことである。神聖な気分に浸って外へ出ると、彼が言う。「ところで僕の友人が絨毯屋をやっているんだけど、よかったら見に行かない?」見るとまた買いたくなるので、ここは断ることにした。彼はしつこく誘うことがなく、この辺りのドライさも、旅行者には嬉しいものである。彼と別れたところでユウコがつぶやいた。「最後にアレがあると、なんとなく安心するよね」。確かに言うとおりだ。多くのイラン人と接するにつけ、下心のない親切心は恐いくらいだ。

 

【アイスとザクロ】

 その後バザールを深入りしすぎてたくさん歩いてしまったが、メインどころだけで充分だった。アミールカビール通りを東へ行き、マドラセ・ヴァ・マスジェデ・モタハリを訪ねるが閉まっていた。近所に「アジア横断」おすすめの「大きなシュークリームのある菓子屋」で菓子を買い、部屋に戻って食べる。あまーいシュークリームだった。そのほか、今日は果物市場でみかんを買った。路上に出ているジューススタンドも試してみた。僕はザクロジュース、ユウコはニンジンジュース。値段は少々高いが、ビタミン補給には非常によろしい。

 

【宝石博物館】

 Bank Melli Iranにある宝石博物館にも行った。ここは、毎週日曜と火曜、午後2時から4時の間にしか見られないという、ありがたい博物館である。我々は2時半頃着いたが、入り口前には30人ほどの行列ができていた。日本人中高年のツアーの方々もいる。ここで30分ほど待って、ようやく入場することができた。

 入って長い廊下を行くと、思わず「なんじゃこりゃあ?」と叫びたくなるような空間が現れる。

これでもか、これでもかと宝石が並んでいる。しかもどかどかと並んでいる。ある陳列棚には、トルコ石、ルビー、ラピスラズリなどの石が、それぞれ皿や茶碗の上に山盛りに載せられており、もはや「ありがたい」を通り越して「これ、本物なの?」と疑いたくなる。

言うなれば、茶碗にお米が盛られるかの如く、「これはルビー」「これはトルコ石」といった具合で、石が山盛りになっているのだ。感覚がおかしくなるぐらい、あっちも宝石こっちも宝石だ。圧巻は金の玉座で、肘掛け、背もたれ、足、全ての部位には宝石がびっしりと埋め込まれ、言葉も出ない。口あんぐり。せっかく入ったのだからと同じものを2度も3度も見て回り、そのたびに開いた口がふさがらない。

ブハラの王宮で見た王冠や、金糸銀糸の衣服など、しょせん「田舎の大将」の趣味でしかないのか? と考えてしまった。博物館を出てからその話をすると、ユウコは、博物館で詰めていた息を吐き出すかのように大きなため息をついたあと、「ブハラのことなど、思いもよぎらなかった」と答えた。

 

ペルシャの芸術は圧倒的だ。今日の宝石といい、昨日の絨毯といい、写真ではあの迫力は到底伝わるものではない。本物を見なければ、この圧倒感を知ることはできないだろう。

 

【旧レザーシャーの夏宮へ】

 テヘランの北、郊外にあるサーダーバード(旧レザーシャーの夏宮)に行った。

 メイダネ・イマームホメイニは市バスのターミナルにもなっていて、たいていの場所へはここから乗っていけばいいから、旅行者には都合がよい。ホテルハイヤムからメイダネまでは歩いて10分ほどで、アミールカビール通りをまっすぐ西に歩く。この通りには自動車やバイクの修理工の店が多く建ち並び、油の匂いが通りにしみついている雑多なところだ。メイダネ周辺にはジューススタンドや雑誌売り、それにプリクラならぬポラロイド写真屋があって、背景はあらかじめ用意したもので写すことができる。イラン人は男同士で写真に収まるのが好きだ。

 我々を乗せた145番バスはテヘラン市街の東側を南北に走るハイウェイを軽快に飛ばしていく。とちゅう、森林公園をみる。天気は良く、眺めもいい。30分ほどで終点のメイダネ・ゴッズに着いた。北に来ると山が間近に迫っている。宮殿は山の麓にある。人に聞いて回ってエッチラオッチラ、30分ほど歩いて宮殿の入り口に着いた。宮殿というよりは、緑の公園だ。チケット売りのオジサンは「ここには2つの見所がある」というようなことを言い、よくわからないまま「2つ分」の入場料を払う。さらにカメラ撮影料と称して追加料金を取られる。売場に張り出されている料金表を見ると、イラン人は博物館1つにつき5001500リアル、いっぽう外人はどこも均一でそれぞれ15,000とある。外人料金は地元の10倍とは、すごい話だ。荷物預かりにサブザックを預け、森林の遊歩道のような良く整備されたゆるい坂道を上っていくと、右手にミニチュア(細密画)博物館があるが今日は閉館。さらに進むと入り口脇に砲台を構えた軍事博物館があったので、入る。刀、銃、軍服の歴史よろしく、ササン朝時代からの服装品もあって、展示物は多い。外国の品物もあり、日本刀や鎧などもある。銃の握り部分や、刀の鞘の彫刻はすばらしいもので、これだけのコレクションが展示しているとあれば、関係者としては垂涎モノであろうが、我々としては、こうも展示物が多くては見ているだけでも疲れてくる。

 出たところにベンチがあるので休息。宮殿は、先ほども書いたとおり森に囲まれた緑の公園で、ところどころに昔の建物を利用した博物館が建っている。山の麓にあるため坂道が多く、歩いて回るのは大変だが、無料のシャトルバスがあるらしい。そしてこのベンチは、バス停になっているのだ。ほどなくしてマイクロバスがゆっくりとやって来たので乗り込む。くねくねとした登り坂をぐーっと上がって、グリーンパレスなる宮殿に着いた。この建物は外装も内装も美しく、王侯貴族の華やかな生活ぶりを垣間見ることができる。お客は少ない。誰もいないダイニングルームをつい1枚、写真を撮ったら、横から出てきた掃除のオジサンが僕を見てニヤッと笑い、口に指を当てて「ノオォー、フォトォー(No, Photo)」とささやくように言った。撮影禁止らしい。しかしどこにも表示はない。

 ふたたびシャトルバスに乗ってゲートまで戻り、そこから別方向に向かうとナショナルパレスがある。ところが建物の入り口ではチケットを売っておらず、そして僕らはここのチケットを持っていない。やむなくもと来た道を戻り、はじめのゲートでチケットを買い、改めて入場する。ここもグリーンパレスと同様、立派で美しい。来賓の待合室、食堂、秘書室、王様の執務室、大使/公使の執務室、王様家族の居間に寝室。どの部屋にもペルシャ絨毯が敷き詰められ、家具はフランス製、花瓶は中華風のデザインだがフランス・イタリア製、天井からぶら下がる大きなシャンデリアはチェコ製。部屋毎に英語の説明書きがあり、それを読むと「ルイ13世風」とか「ルイ16世風」とある。イランの王様はフランス好きだったのだろうか。

 

 この緑の公園サーダーバードは夏宮で、ここからそう遠くないところに冬宮がある。せっかくなので行ってみることにした。タクシーちょっとぼられた。冬宮は英語のガイド付きの観光で、自由に見て回ることはできない。説明はあまり聞かず、内装の美しさにはただただ感服するばかりである。こちらの宮殿には絵画が多く展示されている。フランス式油絵の肖像画が多い。ガイドさんの話では、たとえば子どもの部屋に両親の肖像画があるのは、なかなか会えない寂しさを紛らすため「これを見て父上、母上のことを思い出しなさい」という意味があるのだそうだ。これとは別に、ペルシャ美人画も多い。ペルシャ画は女の顔立ちがみな共通で、そういう意味では浮世絵の美人画を連想させる。また、ナポレオンの絵が飾ってあったり、后の寝室は「ジョセフィーヌの寝室を真似」ていたり、イランの王朝(カージャール、パフレヴィともに)フランスと仲が良かったのだろうか。

 

 それにしてもこうして立て続けに宮殿ばかり見ていると頭がクラクラしてくる。そうそう、パフレヴィ時代の、世界とペルシャの友好ぶりを展示した部屋もあった。そこにはニクソンやドゴールの写真の他、人民の英雄マオ氏、そして裕仁と奥方の写真もあった。写真の中ではマオ氏(顔写真)がもっともデカイが、裕仁氏(全身像)の額縁には菊の御紋が金色に輝き、それを見てつい嬉しくなってしまうとき、「やっぱり俺は日本人なんだなあ」と改めて思う。また、おそらく天皇家から贈られたのであろう江戸時代の日本刀もあった。鞘には葵の御紋が、これまた燦然と輝いていた。

 

 今の我々にとってもっとも興味深かったのは、冬宮内にBar Roomがあることだ。つまり、革命前のパフレヴィ時代には、少なくとも王様は酒を飲んでいたことになる。そして、年代物の皿や鉢に描かれた絵をみても、貴族達は宴会が催され、飲めや歌えの大騒ぎ。でんと座る男の周りを女が踊り、あるいは酒を運ぶ。その女性たちは、頭髪はもちろんうなじまで丸見え、なかには男といちゃついていることもある。こともあろうに女体の胸をもむ様子までありありと描かれていることもある!

 我々日本人の抱くイランのイメージは、全て革命後に作られたものだということに気づく。曰く「厳格なイスラム宗教国家」、曰く「規律が非常に厳しく決められている国家」。王制を打倒し、宗教指導者ホメイニによる革命で、酒は厳禁、女性のチャドルは強制された。そしてアメリカ大使館事件、イラン=イラク戦争、強硬な態度で臨む対米関係を通して、日本では「イラン=こわい」「イラン=危ない」というイメージが作られた。イスラム急進派であるシーア派の国ということで余計恐れられた(もっとも、これはシーク教と混同している向きも否定できないが)。とかくアメリカに対して強硬な国は、日本では「危険な国」と見なされる傾向が非常に強い。

しかし、この国にやって来て現実を見ると、15回のお祈りの時間には、たしかにテレビでは「お祈りしましょう」とばかりコーランが流れるが、街は変わらず賑やかで、むしろ拍子抜けである。しかもユウコがバスで知り合った若者達との会話によれば、ほとんどの若い女の子は「チャドルなんてめんどくさい。こんなものイヤ。法律で決められているからやっているだけ」と言う。そして、我々が恐い国とみなすこの国の人々は、恐ろしいぐらいに親日である。ある本には「イランでは、日本語で話しかけてくる人の8割は信用できる」とあるが、なるほどまったく納得できる。「おしん」は今でも再放送されているから、ガキンチョまでその名は知っている。今の体制は穏健派なので、これから政情はどんどん変化していくことだろう。

 

【イランの重みは歴史の重みか】

イランには、もちろんモンゴルをはじめとする侵略者達にやられたこともあるけれど、脈々と続いている何かを感じる。ウズベキスタンやカザフスタンではそれを感じない。ソヴィエトによって、一つ歴史が分断されてしまったのか。あるいはそれ以前、帝政ロシアによって切れたのかもしれないが。「オシュ3000」「ヒワ2500」と言うが、今ひとつ、その連続性が感じられないのだ。なぜだろう。街が造り替えられてしまったからか・・・。