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【後日談】

※帰国後、折に触れ感じたことを「事後の感想」的に記録していました。

 

19991016日】

疲れませんか?

 

 自転車に乗って買い物に行く。

 僕はアルマトイで買った青いズボンをはいていた。

 このズボンを買ったのは去年の94日のことだ。

 アルマトイの高級デパートで購入した。

 バーゲン品だった。半値で買ったが、それでも2000円弱のものだ。

 当時の我々としては、非常に高価であり、「思い切って」買ったのだった。

 ふと、そんなことを思い出した。

 そういえば、去年の今日はテヘランにいた。

 イランに到着して二日目だった。

 

 帰国してしばらくは、あの8ヶ月は、月並みな表現だがまさに「長い夢」を見ていたように思えた。あれはいったいなんだったのか。あれをやった意味は何だったのか。あれを通して、我々は、いや僕は、何か変わったのだろうか。

 帰国してそれほど間をおかず、すぐに会社人として働きだし、そしてなんとなく順応していたからそう思ったのかもしれない。

 しかし、今はそうは思わない。たしかに我々はあの8ヶ月間、それ以前とも、また、その後とも全く異なる生活体系で暮らし、そしてそれを維持してきた。今でこそふつうでない生活を、当時はあたかもそれが普通のように振る舞っていた。日常と非日常の反転が、確かにあったのだ。そこには何かがあった。

 「始終一緒にいて飽きませんか?」と問う人がいる。当事者としては、じつのところ愚問だと思う。しかし、帰国後、仕事についてしばらく経ったとき、そういうことを聞きたくなる気持ちが分かる気がした。いや、僕も日本で結婚生活を5年も続けていたら、同じ質問をしたかもしれない。

 一緒にいて飽きたことはない。いまも飽きることはない。「飽きる」ってなんだろう。

 一緒にいて疲れることはあったかもしれないが・・・

 あのとき、そういう心は持たなかったし、まだ逆に、持つことは許されなかったのかもしれないのだ。二人の関係の破綻は旅の破綻を意味する。旅の破綻は生活の崩壊を意味する。そのとき二人で一緒に帰り、日本でやり直すなんてできるだろうか・・・

 疲れたことはある。嫌気がさしたこともある。機嫌が悪くなって泣かせたこともある。しかし、必ずフォローが入る。それはお互いの性格なのかもしれないが、共同生活者として、運命共同体として、関係をこわしたくなかったのだ。旅を続けたいだけなら話は簡単だ。分かれても旅はできるのだから。しかし、我々は別れなかった。「別行動を取ろう」と思ったことは一度もない。

 二人でやり遂げたことに意義がある。それはもちろん結果論だが。

 現在は、大半の夫婦と同様、昼間は一緒にいることはまずない。つまり、人生の半分は妻と別行動を取っていることになる。そして残りの半分のうち、さらに半分は寝ているのだから、妻と顔を合わせるのは一日のうちせいぜい4分の1、ということになる。そういう生活のほうが、かえって「飽きる」だの「疲れる」だの、よけいな心が入るのではないかという気がする。

 要するに、始終一緒にいるからこそ、かえって楽しいのだ。

 一緒にいる時間が少なくなった現在の方が、もどかしく感じられることもある。妻は僕の職場環境を知らないし、僕の置かれている状況も人間関係も完全には理解できない。同様に、僕は妻のそういった事情を知らない。半年を過ぎた今は、お互い話をするから、仲のいい人の名前だとか、その人が家庭を持っているとか、誰が問題だとか、それなりに分かっているけれども、はじめの二ヶ月ぐらいは、妙な気分になったことがある。おたがいがお互いの環境を知らないことは、非常にもどかしいことだ。それがいさかいになることがある。一緒にいれば、そんなことは起きないのだ。常に同じ環境に生きてきたのだから。

 

***

 

19991026日】

旅とマック

 

 「マックになんて、もう何ヶ月も行ってないなあ」と彼女が言った。

 「最後に行ったのはいつだろうね」と僕が言った。

 最後に行ったのは・・・ サンクトペテルブルグだろうか。僕はそこに一人で行ったのを覚えている。ユウコは体調不良のために宿で寝ていた。よく晴れた青空のきれいな日だったが、寒かった。僕は耐えきれずに暖をとるために入ったのだった。

 しかし、そのあとにも入ったような気がする。サンクトの店には翌日、二人で再度入ったような気もするし、モスクワでも一回入ったような気がする。

 ユウコが言う「半地下の、ちょっと奥まった店」は、たしかにロシアだったような気がする。客は白人が圧倒的だが、髪の黒い人が意外と多かった印象がある。日本人もいたような気がする。日記を探れば、いずれ明らかになるとは思うが。

 

***

 

200199日】

旅と転職

 

 この日、転職が決まった。

 旅の帰国後、1999412日付で入社したM社を、2001930日を以て退職することになった。

 日記を読み返すと、M社長の名前は何度も出てくる。多くの場合、「Mさんへ手紙を出した」という事実のみが書かれている(作者注:ウェブ公開中の日記では削除しています)。しかし、旅の途上で日本を思うとき、両親や仲の良い友人知人に次ぐ重要人物だったと言ってもよい。

 まあ、ややこしい話はここで書いても仕方のないことだが、はっきりしているのは、転職が決まった時点で、僕の日記はモスクワまで来ている。199928日だ。そして、あと1ヶ月余り、正確には40日分の記述(後日談を加えるならさらに数日分)が残されている勘定になる。

 旅から帰って2年半になる。日記への本格着手は999月、奇しくもアラスカ出張中に新しいパソコンが自宅に届き、まずユウコがスタートさせた。僕の着手は10月だったと記憶している。だから、書き始めてから2年が過ぎた。それで、235日分の195日分を2年半で、とりあえず書いた。1年あたり97.5日である。もっとも、旅の前の話でかなり時間をかけたのだが、それはそれとして置いておく。

 残りは40日である。計算すると4.9ヶ月で書き終えることになる。余裕を見て6ヶ月、あと半年、帰国してから3年後には書き上がる計算になる。

 もう少し現実的に計算してみよう。週に2日程度の進捗のペースで進めれば、残り40日を書き終えるのは、20週間後、つまり5ヶ月だ。プラスαでさらに1ヶ月。おおむね妥当といえる。

 ひととおり書き終えたら、今度は推敲をせねばならない。とくに前半部分(810月)に関しては、誤字が多いのでこれをひととおり見直す必要がある。また、出会いや事件が少ない時期だと、日記をサラリと済ませているので、これも少し見直したい。いちど書いた文章を見直すのだから、そんなに手間はかからないし、今も少しずつやっている(以前に書いた文章を再び読んだ際に、ちょこちょこ直している)。半年も見れば足りるだろう。

 いずれにせよ、「帰国後35年ぐらいで完成できれば十分」と思っていたので、今の時点では良いペースだ。このたびの転職によってどの程度時間が割けるのか、不安ではあるが、しかし今までだって、忙しい時期には全く手を付けていないこともあったから、まあ、やる気次第と言うことだ。

 「完成」したものをどうするのかは、まだ考えていない。というか、完成してから考えよう。本にするのも良い(といっても資金源が大きな問題です)。家族だけで楽しむのでも良いし。

 それで翻ってみると、「ルーマニアひとり旅」は、売れなかったし、今読んでもなおしたい部分はいっぱいあるけど、それでもこれはひとつの成果であって、世間にも認められるものなのだから(自主出版だと世間に認められない)、やはり出して良かったと思うよ。出版社の皆様には迷惑をおかけしましたが・・・。

 

***

 

2001911日】

旅とテロ

 199910月、イランのケルマン州でイタリア人観光客が誘拐された。

 いつだったか、ラオスでゲリラ事件が起きた。

 キルギスでは20008月に日本人調査団がゲリラ部隊に拉致された。

 ウズベキスタンでは政情不安で、一時期、国境が全て封鎖された。

 そして2001911日午後10時前(現地時間午前9時前)、ニューヨークの貿易センタービルに、旅客機が2機(アメリカンとユナイテッド)が突っ込んだ。

 亡くなった方の御遺族には、心からお悔やみを申し上げたい。が、我々の旅は如何に幸福であったか、そして、旅先の我々が如何に無知であったか、ということを思い知らされるのである。ロシアの金融危機のときは、事情も分からずノホホンとしていたが・・・。

 

***

 

2002年7月28日】

日記の軌跡

 

 もともと日記の整理は「帰国後3年から5年ぐらいかけてじっくりと」と思っていた。

 はじめの1年では思っていたほど進捗せず、また、日記を進めていくに連れて記憶が薄れていることを自覚し(書いてある出来事が分からないなど)、少々焦ったこともある。

長男が生まれて、物事が自分の思い通りに進まずイライラしたこともあるが、今はもう慣れた。

 「わが人生 その時」(後述)という形で、ひとつの切り口ではあるが全体をまとめたというのはのちのち意味を持つように思う。ただ、僕は自分の日記が最後まで進んでいなかっただけに、旅の最後の思いがうまくまとまらなかったのではないかと、ビエンチャンからバンコクをまとめている中で気づき、少々残念である。

 

 99320日(土) 帰国

 99912日(日) パソコンを買う。本格的に日記スタート

 00714日(金) 長男誕生。

 

 この時点で10月はじめ(ウズベキスタン)辺りまで進んでいた。

 長男の誕生にともなう世話(入院中の1週間は定時退社。のち2週間は休暇)により、この3週間でイラン、トルコを突破した。期間にして2ヶ月である。ここで大きく進んだのが大きい。

 さらに、この年末までにブルガリア、ルーマニアと進めた。

 

 001231日〜0111日 年明けとともに、日記も年が明ける。

 

 2001年中は実質2ヶ月しか進んでいない。が、はじめの2ヶ月も約1年かかったことを思うと、このペースがせいぜいなのかもしれない。

 011231日〜0211日 年明けとともに、3月に突入する。

 024月〜5月 週刊朝日で懸賞募集した随筆「わが人生 その時」の執筆に注力。マサトは一次予選落ち。ユウコは・・・(ユウコ日記参照)。

 02728日(日) 第一次まとめ終了。

 

***

 

2002914日】 ※4年前、アクスー・サナトリウムにいた日

日記を終えて

 

 旅のあと、ことあるごとにユウコが言うので印象的なのだが、我々は当時、

 「この国は(この街は)面白いね。

  また何年か経ったら、もう少ししっかり準備をして、ここだけじっくり見に来たいね」と、よく思っていた。

 キルギスタンのアラアルチャ渓谷、

 カザフスタンのアクス・ジャバグリ自然公園、

 トルコ東部のワン湖、

 モスクワからムルマンスクまでの鉄道旅行、

 四川、貴州、

 はたまた、行くことの叶わなかったトルクメニスタン、グルジア、アルメニア、シリア、ウクライナ、パキスタン・・・。

 

 しかし、今はそう簡単には行けないことを我々は知っている。ルーマニアのシゲットだって、再び行こうと思えば到着するまでに最短でも2日は必要だ。

 日本も、休みをしっかり取って、自分たちの夢のために使うという風土があると良いと思うのだ。そのためには1ヶ月は休める社会的なシステムが必要なのではないかと思う。

 

 「いつかまた夫婦で長い旅行に出てやるぞ」と思いつつ・・・

 

***

 

2004125日】

日記への思い

 

 日記の整理を一次的にも終えたのは、旅を出てから3年経った後であるが、これは当初の思いから見れば、予定通りと言える。

 間もなく、帰国してから丸5年になる。いろいろあったが、日記は変わらない。インターネットによる公開も、着々と進んでいる(ユウコの頑張りである)。

 いまやインターネット全盛であり、いやいや、いまや旅行中に携帯が(国家を越えて)通じる世の中である。ちょっと寂しい。我々も、旅行中に電話をしたり、メールをしたりしたけれど、旅の面白さの一つは「俗世(これまでのつきあいごと)からの隔絶」にあるのだから、携帯電話はちとマズイ気がする。

 旅先で、現地の情報をリアルタイムでインターネットに投げたり(ホームページを書いたり)する人もいるようだが、これもちょっと寂しい。やはり理由は同じで、旅は「オフライン」だから面白いのだし、オフラインをするために行くように思うからだ。

 それは、国内旅行をして、それでも「普段とは違うなあ」という気分を満喫した後に、宿に戻ってテレビを付けたら、いつも同じ番組が流れていたときのむなしさと似ているかもしれない。

 我々の旅行記は、当初はこれからの旅行者に少しでも役に立ったら、という思いもあったが、いまの旅行者には役に立たない情報が多いだろう。だけど、旅行記は永遠である。あの「とき」を写し、あの「とき」を著しているからだ。「世の役に立つ」とは大げさだが、「旅に出て、こんなことを考えた」という部分が、うまく伝われば面白いのではないかと思っている。

 

***

 

2006430日】

5年後には

 

 久しぶりに日記にとりかかり、イラン・トルコの日記を読み返す。

 2004323日、2年前にイランに取り掛かり、同年102日に、思い出したように再び取り掛かっている。この2年、ほとんど日記にタッチしていなかった。もっとも、パソコンの調子が悪かったり(それで買い換えたのは2005年の春だっけ?)、買い換えたのにスキャナが壊れたり、FTPがうまくいかなかったり、ユウコの作業が滞ったこともあるが、まったくもって「このようなこと(=仕事以外で継続的な何か)に取り組むことへの精神的な余裕がなくなっていた」ことに気づかされる。

 日記の着手は999月、0110月の転職時、まだ終わっていなかった。ウェブサイトへの着手は、02年ぐらいだったかなあ。ヒツジ年特集が2003年だったんですね。

 この2年で、やっと、こういうことに時間を使う余裕あるいは意識を持てるようになった、というのは自分としては大きい。それは、これまでの自分の心境を顧みるとき、ひとつの変化であるようにも感じる。それは日記ウェブに限らず、中国語の勉強とか、国際協力関係の(ボランティア的な)取り組み姿勢とか、さまざまな面で感じることでもある。

 あと1-2年で、今の状態で何が得られるか。

 不惑の四十は201112月にやってくる。あと5年だ。

 この5年で目指すもの、その先に目指すもの。

 

***

 

2006129日】 幼稚園「発表会」の夜(長男年長)

 20065月の連休で思い出したかのように日記に取り掛かり、それまで停滞していたイランから、なんとかルーマニアに入ったが、その後はまたしばらく休んでいた。

 同年9月から10月にかけて、ルーマニアから一気にロシアへ入る。

 大きな山場(シゲットのクリスマス、ブダペストの正月)を越えてから順調にすすんだ、という経緯もあるが、転職を決めたことを契機に、一気に進めた感もある。

 

 そして12月に入ってから、ロシアを突破し、中国(2回目)に入った。

 転職後、仕事から帰ってきて、「ああやれやれ、では日記をしようかな」という気になるのである。

 2004年の1月にテヘランの日記の方針を考えている記録があるが、その後日記を進めたのは、実質的に2006年の4月〜5月だ。仕事を通じて得たことは多く何事にも代え難いが、仕事以外の面では「停滞」の多い3年であったのではないか、と思うのもまた事実である。

 

***

 

200742日】

日記と子どもたち

 

 本日2159分、次男が誕生した。うれしい。

 本日時点、「ユーラシアふたり旅」での公開は、日記がハンガリーまで、写真は中央アジアまでとなっている。未公開部分は、僕の日記は昆明の石林ツアー(199934日)まで来ている。あと2週間だ。

 2000714日 長男が誕生した時点で、僕の日記は10月はじめ(ウズベキスタン)辺りまで進んでいた。

 

  今年(2007年)は、結婚して10年になるが、

  来年(2008年)は、旅に出発して10年になる。

 

 終結させるには良いタイミングだと思う。

 しかしそれは、旅の終わりを意味するものでは決してない。

 むしろ旅の始まりなのだ。

 子どもたちが、この日記に少しでも興味を持ってくれたら良いなと思う。

 そのためには、日記だけでなく、写真などの付加情報も充実させたいと思っている。

 

***

 

2008728日】

明日は何の日

 

 日記を進める中で折に触れ書きつづってきた「雑感」などを、このページとしてまとめてみました。

 これでひとまず、文章の編集は終わりです(まだまだ誤字脱字等の不備はありますが)。

 10年前の明日、我々2人は上海に向けて出発しました。

 

(終わり)