3月11日(木)モンラー 朝のうち霧、のち晴れ
【Hiro君との出会い】
いよいよラオスへ入境する。
朝6時半起床。南站まで歩き、8時発の磨憨(モーハン)行きのバスに乗り込む。
我々は一番客であった。
ほどなくして、日本人の男性が1人、乗り込んできた。
どちらからともなく話が始まる。神戸から来たのだという。まだ学生である。我々がロシアから陸路で雲南まで来たことに対して大いに驚き、また、去年の9月から10月にかけて中央アジアに行った話をすると「じつは僕も夏に行くつもりなんですよ」と笑い、「あとで情報をください」とメールアドレスを交換した。
Hiro君は中肉中背(若い学生に対して適切な表現ではないかもしれないが・・・)の、関西弁に全くイヤミがない好青年である。
彼が語るところによれば、今回は「夏から始める長期旅行の事前練習として」、3月から4月にかけての旅行なのだという。スタートは上海で、雲南で丸1ヶ月過ごした。
「それなら雲南でも隈無く回れたでしょう」と感心すると、
「そうですね。もう、段々畑は飽きました」と笑った。
これからラオス、タイと巡るのだという。夏の旅行に向けての準備は気合い充分で、休学の手続きもばっちり、卒業単位も問題がない。
旅費については、「4月から6月にかけてバイトして稼ぐんです」。
旅費についての実際を尋ねられ、我々は正直に、
「2人で1ヶ月20万というところですね。これでも無理しない旅行ができます。もっと切り詰めることも可能だと思いますよ」
と答えると、彼は、
「いやぁ、安心しました。僕も今のところは9ヶ月の旅程で100万を見ているんですよ。たまには少しくらい良い宿に泊まらないと、気が狂います」
と笑う。この辺りのバランス感覚が近いことは、同じ旅行仲間として嬉しい限りだ。
感覚の共感は金銭だけではない。この後、ラオスの国境を越えてバス待ちをしているときでも、
「いやー、ここ(ラオス側事務所)のトイレ、清潔でしたねー。中国のトイレ、怖いっすよね。中国でハラを壊すのは、トイレのせいやないかと思うんですよ」
と言って、我々を笑わせると同時に、大いに納得させてくれた。僕は、山となった廃物にウジがこれまた山のようにたかっていた新疆の屋根無しトイレを思い出した。野グソの方がよほど気分が良い。
僕が「夜行バスに乗るたび、便秘になりましたよ」と言うと、今度は彼が大きくうなずいた。
【ヒツジかサルか、コメかイモか】
「中央アジアでは何を食べるんですか?」と、彼が聞く。
我々は彼の国の食事を思い出し、少しげんなりしたように、
「ラグメン、プロブ、シャシリクの繰り返しで。はじめのうちはそれでも楽しいんですけどね。基本的に羊ですからねえ」
と答えると、彼はうなずいて、
「アフリカもそうらしいんですよ、聞いた話ですけど。サル、イモ、マメ、サル、サル、マメ・・・やっぱり3種類しかない。うまくローテーションしたいんだけど、街によってはサルしか無くて、サル×4とか。気が狂うって言ってましたよ」。
我々は笑った。思えばイランもそうだった。バーテン君は、
「昼飯といえば、サンドイッチしかないですよね。僕、この街に2日いて、10個食べました」
と言っていたことがあるし、食堂に入ってもモルグ、ケパブ、サンドイッチの繰り返しであったのだ。
【中老国境】
ともあれ、バスは10時にモーハンに着いた。
沿道、停まった先に遮断機があり、右手にイミグレがある。ここで出境卡を書き、あっさり出国スタンプをもらう。
さて、ここからラオス側のボーテンに行かねばならないのだが・・・
客引きを期待していた乗合トゥクトゥク(小型トラックを乗合タクシーにしたようなもの)もトゥクトゥク(こちらは三輪バイクの荷台を客席にしたバイクタクシー)もいない。
少し待とうかどうしようかと思っていると、荷物の少ないHiro君が、
「僕、歩きます。そのうちトラックが来るでしょう。あとから追いかけてくださいね、競争しましょう」
と、歩き出した。
道は緩い登りの一本道で、緑は深く、100mも歩けば先が見えなくなる。
しかし、彼が見えなくなるより先に、軽トラックが降りてきた。我々は荷台に乗り込む。
6人ほどのお客が乗ってすぐに出発。まもなくHiro君を抜いた。僕らが荷台から手を振る。彼は笑って歩きながら手を振り返す。
中老国境点に石碑が立ち、藁葺きの簡素な門が架かっている。
5分も走らず、ボーテンに着いた。
【ラオス入国】
モーハンにも国境の緊迫感はまるでなかったが、ここボーテンは、それに増してのんびりしている。
牛が呑気に寝ている。
イミグレのオフィスで入国カードを書いているところで、Hiro君が到着した。「写真を撮りましたよ、歩いて正解でした」と嬉しそうだ。
ところで、ラオスでは県ごとに「入県証明」のスタンプをもらうのが原則になっているのだが、Hiro君によれば、今年はラオスの観光年で、2月1日からそのスタンプが不要になったのだという。旅行がしやすくなるので、観光客にはうれしい話だ。そう思うと、いま書いている入国カードも、観光年の特別仕様のような文字装飾がある。
イミグレーションオフィスを出ると、横にDutyFreeのみやげ屋が一軒見える、両替所もある。
両替がてら、スタッフのあんちゃんにバスの時刻を尋ねてみると、我々が向かうウドンサイ(彼らは皆「ウドンチャイ」と言う)、そしてHiro君の向かうルアン・ナムター(彼らは単に「ナムター」と言う)はどちらも11時発とのことだ。時計を見る。国境を越えたので時計を1時間遅らせ、いま10時前だ。まだ1時間あるので、のどかに寝そべるウシでも眺めながら、のんびり待つことにしよう。
【バスは来る。パジェロも来る・・・】
ほどなくして、バスが1台やって来た。客がワラワラと降りる。ナムター行きだと言う。Hiro君、さっそく乗り込むが、他に客はなく、出発する気配も全くない。
彼は運転手からチマキのような餅米料理をいただいている。ふと、「衛生は大丈夫なのかな」と心配になる。
売店で買った、フニャフニャのペットボトルに入った飲料水も、商売品とは分かっているが、気にはなる。しかし、飲めばうまい。あんまり気にするのは、ラオスに対して失礼だし、そして実際、衛生は大丈夫なのだろう。それはトイレが物語っている。イミグレーションオフィスのトイレの便座は真っ白だった。水は汲み置きを手桶で流す簡単水洗だが、清潔である。これだけで嬉しくなる。
パジェロが数台、一団でやって来た。中国からの出境游であろう。
バスを待つ人も着々と増えてきたが、誰も両替所で両替をしていないようだ。ラオスの闇両替はこれまで聞いたことがないが、まさか・・・。
12時、ウドンサイ行きのバスがやって来た。中国製の中巴バスだ。トラックではなかったことに半ばホッとしつつ、半ば残念でもある。
バスはここが始発ではないらしく、満員であった。一番後ろの席に、なんとか押し込まれる。
見回すと、乗客は半分以上が漢語を話す中国人だ。運転手はラオス人のようだが、やはり漢語を喋る。どこから来たのだろう。
12時半、バスが出発する。
道は一本しかなく、中国側からラオス側に向かって緩い下りになっている。
・・・と、バスはすぐさま道を外れ、イミグレや両替所の裏手の路地に入った。小さな商店がある。
「よもや、まさか」と思った瞬間、運転手がバスを停め、振り返って、
「ファンチェーン!」と叫んだ。
「換銭」である。ありゃー、これは失敗した。だから誰も両替しなかったのだ。
見ていると、先ほどの国境の両替所では、
1元=640キップ
1ドル=4450キップ
1バーツ=118キップ
だが、ここでは10%ほどレートが良くて、15元=10,000K、1ドル=5000Kという丼勘定のようだ。
【ウドンサイ/ウドンチャイへ】
5分ほど停車してバスは出発した。
道はいちおう、ほぼ舗装されており、適度に良く、そして適度に悪い。
辺りは山がちだが、ときおり田んぼが開けたり、集落があったり、車窓の変化があって楽しい。
ユウコは周りの中国人オジサン連中と交流中。こちらも楽しそうだ。
沿道では通りすがりのラオ人たちが、大人も子どももバスに手を振ったり声をかけたり、かわいい。山林の様相は、熱帯的ではなく、むしろ日本の雑木林に近い。
思い出したが、今朝モンラーからモーハンへの途上にも2つ村があった(曼庄、尚夏?)。また、国境のモーハンも、小さいながら町である。そして国境は全くピリピリしたところが無く、非常に連続性を感じる。おまけに今乗っているバスでは車内に中国演歌がかかっているし、会話は漢語だし、バスは中国製だし、バスに揺られているだけでは「国が変わった」という実感がわいてこない。
「でも、ラオスなんだよなあ」。
バスの車窓から外を眺めながら、僕はつぶやいた。
ウドンサイには16時半に着いた。
途上で見てきた集落に比べると「町」という雰囲気はあるが、逆にそれが味気なく感じさせる。建物に中国語の看板などがあるから、そう思うのかもしれない。
それでものんびりとした空気は、バスの途上で見てきた町や村と変わりがない。
ウドンサイの地図を持っていないが、街道に伸びる町のようなので問題はなさそうだ。
5分ほど歩いてSing Thong Hotelを見つけた。静かで落ち着いた雰囲気のこの宿は2人部屋で15ドルと、ややゼータクだが、部屋もきれいだしエアコンも心地よいので、ここに決めた。
さっそく食事に出る。
通りで見つけた食堂には英語メニューがあるので助かった。うまい! ビアラオもうまい! ただし料理の値段はやや高め。
横で食事をする白人旅行者のロンプラをチラリと見たところによれば(あるいは話を横耳で聞いていたのか)、この食堂は「Best Cook in Tour」とのことであった。
【無理をしない旅】
ところで、ラオスに入ってから妙に白人ツーリストに出会う。道すがら、8人タクシーに乗る一団を見たし、この食堂では4人連れと、あとから女2人旅も入ってきた。ボーテンでは、バスを降り中国側へ向かうらしい一人旅の女性旅行者も見た。
さいきん、宿も食事も、「守りの姿勢」というか、無茶をしなくなったように思う。帰国が近いせいもあるが、それでも散財しているわけではないし、何かを我慢して守っているわけでもない。要するに「無理をしていない」ということだろう。振り返ると、中国では2人で1日6000円強の生活だったが、これが「我々の旅行スタイル」なのだろう。無理をしないのが一番である。そして、初期の中国や中央アジアでは、無理をしていた。だから身体をこわしたのだ。もっとも、身体をこわさなくなったのは「無理をしない」のと同時に、我々がタフになったことを意味しているのだろう。
ラオスの実感が今ひとつわいてこないのは、@町に漢字がある(看板など) A西双版納(シーサンパンナ)そのものがラオスと似ている B今日のホテルでも(景洪やモンラーで見たような)野外カラオケパーティをしている Cバスなどでは中国元が通用する、などの理由がある。
でも、当たり前だが、町ではみなラオ語だ。ボーテンのトイレは素晴らしく清潔だった。西双版納タイ族自治州の人々は、漢族に毒されている。だから衛生観念が甘いのだ。タイ族はもともと清潔なのに違いない。民族自立のため、西双版納は独立して、漢族を追い出すべきであろう。(過激?)
売店で買うビアラオは1本6000キップ。よく冷えている。
ペンのインクが無くなり、ユウコの手持ちを1本もらった。