3月19日(金)深夜 ※つづき
【バンコク・ドンムアン国際空港】
けっきょく空港には22時30分に着いた。
フライトは0時40分だから、搭乗2時間前のギリギリである。
ところがAir Indiaのチェックインカウンターはすごい人だかりである。そのほとんどが日本人だ。カウンターには職員がいない。走ってきて損した。
やっと職員が現れたかと思えば、仕事はひどく遅い。
「これだから遅れるんだよ」
少し前にいる、いかにも旅行ズレした細身で年輩の男性が、仲間らしい男性と、ここで知り合ったと思われる若い3人組に話している。
若者3人は旅行慣れしていないらしく、ヒゲオヤジの旅行自慢を有り難く聞いている。
彼らの声が大きいせいもあるが、その風貌がなんとなく気になって、話を横耳で聞いていたが、彼らの話は、
「バングラディシュ、エジプト、インディアは、値段は安いがサービスは最低」という内容に尽きた。
ユウコ、トイレに走る。食べ過ぎか、このところ調子が悪いらしい。
【バーツ、円、バーツ】
最後にきて失敗した。慌てていたせいもあるが、「もうバーツは使わないだろう」と、空港についてすぐに、残ったバーツを全部日本円にしてしまったのだ。しかし実際には空港使用料500バーツを払わねばならない。ドルではダメだという。二度手間になったことをユウコにたしなめられながら、チェックインを待っている間に再び両替所に走り、バーツを得る。一割ほど損をした計算になる。ごめんなさい。
さいごまで慌ただしかったが、かえって今日は充実していたのではないかと思う。
ユウコはどうでしょうか。
バンコクは、いやタイ全体も、もう少し予習しておけば、もともと見どころ一杯の観光国なのだから、23日のエジプトエアーまで滞在しても良かったかも知れないが、それはどうも間延びしてしまい、逆に、長居をすれば帰ることばかり考えるようになってしまうのではないか。それは良くないと思う。
ときに、バンコクでは「街頭ではたんを吐くな、手鼻かむな。見つけたら罰金」の看板が目立つ。これが、英語と中国語で書かれており、タイ語の表記はない。そんなことをするのは人民に違いない。そういえば、ノンカイからバンコクへの夜行列車では、タイ人の母親が自分の子を厳しく叱りつけていた。さすが、人民とは違う。
空港についてチェックインやら出国手続きやらするにつれ、少しホッとする。「おぉー、帰るのかー」という実感が徐々にわいてくる。
以前、シベリア鉄道を乗っているとき、中国の国境を前にして、「陸路の国境があって、鉄道で日本に帰れたら素晴らしいね」と話したことがあるが、空路でもこれだけ感慨深いのだから、陸路の帰郷はさぞかしであろう。加えて、たとえば中露国境のときのように、日本入国の国境審査がものすごく面倒くさかったら、帰国の感動はひとしおではないかと思う。こうした点でも、日本人には「陸路の国境」への格別な思い入れがあるのかもしれない。
チェックインカウンターでは日本人だらけである。3月の卒業旅行シーズンという時節柄、学生が多いように思う。
我々の前に並んでいた3人の白人はアメリカ人で、成田からNorth Westに乗り継ぎ、本国に帰るのだという。年輩の夫婦と20歳前後の若い男性の親子であった。ゆっくりしゃべってくれたせいか、非常にきれいな発音の方々であった。
フライト予定は0時40分発の明朝8時30分到着だが、飛行機が動き出したのは1時15分であった。時差があるので実質フライトは5時間15分。4840kmの帰り道である。
フライト後、3時間ほどウトウトしたところで映画と朝食。
“Rush More”が上映された。
ジャッキー・チェンとクリス・タッカーが活躍する刑事活劇である。香港から来た中国人とアメリカ黒人とのコミュニケーションギャップが笑わせるこの映画を、我々は既に知っていた。
というか、映画が上映されたときに、知っていたことに気づいたのだ。
それはモスクワで見た街の広告であった。ジャッキー・チェンと「クリス・タケル」なる黒人が出てくるアクション映画だったのだ。
「クリス・タケルって誰だろう、ハリウッドの新人かな」と話していたのが懐かしい。
***
3月20日(土) 成田着 くもり
【おかえりなさい】
成田空港には日本時間の8時35分に着いた。予定より早い。
機内放送では、外は7℃とのこと。空港出口の電光板では10.5℃と出ている。
さすがにTシャツ1枚では寒く、ユウコはカーディガンを、僕は久しぶりに赤チェックの長袖シャツを羽織る。
冬の雲が陰鬱だ。風が強く、外も寒い。
21日から22日にかけては冬型の天気で大荒れなのだという。
「おかえりなさい」の平仮名看板が、奇妙でおかしい。取って付けたようだ。
当たり前だが、空港内は日本語表記が氾濫している。気恥ずかしいぐらいである。
出発したときにもバスを使ったせいか、なんとなく少し待って10時発のONライナーに乗る。
日本はまだ緑が少なく、冬模様である。成田の周辺は「枯れ木も山の賑わい」だ。桜はまだ遅い。昆明の桜が思い出された。後ろ髪を引かれるような思いがよぎる。
大宮駅には12時35分に到着。意外と時間がかかった。妹が車で迎えに来てくれた。
午後1時、僕の両親の家に到着し、両親に歓迎された。今日はここに泊まって、ユウコの実家には明日挨拶に行くことにしている。
【後日談その1】
そして、あっという間に時が過ぎた。
20日の昼には両親が寿司を取り、ほかに大根の煮物、フキの煮物などを母が作ってくれていた。夕食にはご飯を炊いたが、日本の米はうまい。みそ汁も久しぶりである。
21日はユウコの実家へ赴き、またまた寿司を取っていただき、筑前煮、菜っぱのゴマ和えなどをいただく。日本酒がうまい。
長年食べ慣れているせいなのか、日本の食物は消化が良いのか、夜におなか一杯になっても、何も出していないのに朝にはスッキリしている。
そして、この2日間で2,3kg太った。全部吸収しているのだ。
どちらの両親も我々の無事を喜ぶとともに、彼らがどれだけ心配したかを、酒を飲みつつ我々に語った。
それはたとえば、健康面のことであり、治安のことであり、食事のことであり、衛生のことであり、日々の洗濯のことであり、道中のトイレのことであり、2人の仲のことであった。
4月からお世話になる会社の社長さんへは20日に自宅に電話をしたが不在のため、FAXで報告した。
22日夜には電話がかかってきて緊張した。仕事の面については後日連絡があるとのことである。
ユウコの実家にあるパソコンを借り、これまでに旅先にメールを送ってくれた友人を中心に、帰国の連絡&メールの御礼をまとめて出した。
バス、鉄道、自動車の運転。はじめはどれもおぼつかない。すべてが理解可能なのに、なにか所在が無く、落ち着かない。
電車に乗っていても、心持ちが悪い。
日本の電車は静かだ。中国人と違い、日本人はみな表情がフラットで、つまり表情が無く、駅も静かだ。
一言で表現すれば、「日本人はおとなしい」ということになるだろう。その静けさが、気持ち悪い。あの喧噪のバンコクへ「帰りたい」という気すら起きる。もっと長居して「もういいや」というぐらいまで頑張った方が良かったのではないか? とも思うが、むろんそれではキリがないことは分かっている。
***
3月22日(月・祝日)
今日はユウコがお祖父さんの見舞いに義母と出かけ、僕の両親や妹も外出しており、僕は自分の両親の家で1人きりである。
これまでに両親宛に送った手紙、写真、荷物などの整理を始め、ここでやっと「日本に帰ってきた」という実感がわいてきた。
出発前に自宅で使っていたパソコン(Mac)を立ち上げて、出発前のメールを読んでみる(プロバイダとの契約が切れているので、インターネットには繋がらない)。
旅への思いや不安、期待などが見え隠れして、感無量であった。
「長かったというべきか、短かったというべきか・・・」。
独りつぶやき、そして気づいた。
こうして1人でいること自体、旅行中にはほとんどなかったことだ。いつもはそばに必ずユウコがいた。今日はいない。
久しぶりの孤独に、わけもなく涙が出そうになった。
昨日、ユウコの実家から車を借りて僕の両親の家まで乗ってきた。この家の駐車場は妹が使っているため、門前に路上駐車なのだが、襲われないかどうかと心配である。
そもそも、セキュリティが全くないと言っても良い平屋の一戸建てに寝泊まりすること自体、久しぶりの感覚であり、なにやら不安になる。
ホテルではフロントというガードがあった。各部屋に鍵がかけられていた。
連休中に帰ってきたのは良かったのかも知れない。これが平日だったら、我々よりも働く両親が慌ただしくて大変だ。
北京から送ったセーターがまだ届いていない。また、ラオスから出した絵はがきは今日(3/22)届いたらしい。
パッポンで買った座布団カバーと巾着は、さすがに日本では見られない良いものである。
イスファハンの更紗も「すごいものだねえ」と、あらためて感じ入る。
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【後日談その2】
3/23 不動産へ物件探しに行く
3/25 不動産と契約。夕方、4月からお世話になる会社の社長さんに挨拶に行く。
3/27 引っ越し@(僕の両親の家から荷出し)
3/28 引っ越しA(ユウコの実家から荷出し)
4/3(土) 前職でお世話になっていた先輩が新居に遊びに来る。
4/5(月) ユウコ、仕事再開
4/12(月) マサト、仕事開始
北京からの荷物は4/11に届いた。
【以上、旅の終わり】