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116日(土)【その1】 クラクフ 晴れ(雲多い)

 

【アウシュビッツ強制収容所】

 今日はいよいよアウシュビッツへ行く。85分発の鈍行に乗り、945分の到着。さっそく帰りの列車時刻を確認し、バス停を探すのにちょっともたもたした後、市バスで「アウシュビッツ資料館」へ向かう。案内では英語が通じ、また日本語のパンフレットもある。

「まずはフィルムをご覧ください。その後ツアーが出ます」というので、11時からの記録映画(英語:20分)を見る。そして英語ガイドツアーに参加。参加者は我々の他、英語をしゃべる若者カップル(女性は東洋系)、および30代と思われる白人男性2人。ガイドさんは流暢な英語をしゃべる美しい女性であった。

 アウシュビッツの見学後、ガイドさんに「ビルケナウへのツアーサービスはないのですか?」と尋ねると「車がないのであれば、タクシーを使わなければなりません」と言う。「ぜひにも見てほしい」と熱心な口振りのわりに、サービスがないのが残念である。「タクシーが必要なら手配してあげますよ」と彼女は言うが、ほかの人々は興味がなさそうだし、我々2人だけでは割高だしなぁ・・・と思っていたら、白人オジサン2人が「おぉ、タクシーなんて要らないさ、僕らは車で来ているからね。乗せていってあげよう」と、笑顔で言う。「7人も乗れるかしら?」と、ガイドさんがにこやかに聞くと、「ノープロブレム。なんたってワゴン車だからね」と、案内された車は確かにスペースには問題がない。彼らはスウェーデンから「このポンコツ車で」ドライブをしてきたのだという。「いやぁ、そんなはるばる遠くから」と僕は驚いたが、よく考えてみると、ポーランドとスウェーデンは近い。というわけで、ビルケナウも見に行った。ビルケナウの見物は13時半〜14時半。アウシュビッツに戻り、「駅まで送ってあげようか?」と彼らは親切だが、「時間があるので、もう一回りします」と断った。

列車で帰るのはいやだ

アウシュビッツ博物館の近所に小さなバスターミナルがあり、ちょうど15時半発のクラクフ行きがある。5分ほど待って、良いバスが来た。バスは軽快に街道を走り、クラクフには1658分に到着した。家の近所のカフェテリアで早い夕食をとり、今日はおしまい。

 

 アウシュビッツとビルケナウ。いずれもドイツ統治時代の地名で、ポーランド語ではそれぞれ、オシフィエンチムとブジェジンカとなる。強制収容所はもうひとつ、モノヴィッツにもある。「これは一体、何なのだ・・・」。この印象を語るのに、どんな言葉が必要だろう。ここに送られた人々は「囚人」ではない。ここでの暮らしは「生活」ではない。そして、彼らを監視し続けたドイツ人ども。ガス室では一度に2000人殺すことができたが、その死体を毎日焼き続ける兵隊。トイレ、フロ、部屋、食事、そして死。ギリシアから10日間も貨物車に揺られ、それでも新地での生活を夢みて、いざ降り立つ終着駅は、ビルケナウのど真ん中にある。ここで何が見え、そして何を見たのか。すぐにガス室に送られたことすら、幸せなのではないかと思わせる。アウシュビッツには、「ARBEITET MACHT FREI」とあるが、自由への道は、労働ではなくガス室であった。しかし、この殺人は「計画」だったのだから! 南京をはじめとする、中国での虐殺は、三光作戦というものがあったとはいえ、計画ではない。彼ら(つまり我らが同胞)は中国人をいじめ、犯し、殺し、それを楽しんだ。破壊活動の一環でもあった。しかし、ここはどうだ。人々は殺されるためだけに連れて来られたのだ。「残虐」「非道」「悲劇」どんな言葉も似合わない。

 「ならばしかし、ヒロシマはどうなのだ」。そんな思いがよぎる。はたまた、アメリカがベトナムで撒いた枯れ葉剤はどうなのだ。ロシア人は満州で何をしたか? ビキニ環礁では何が起きたか? 特高の行為も、ある種の「撲滅計画」ではなかったか?

 それでも、アウシュビッツは(とくにビルケナウは)ケタが違うのだ・・・ 

 子ども達のスーツケース。アンネ・フランクの姉、フランツ・カフカの妹の持ち物もあり、それと分かるように展示されている(カバンなどには自筆で名前が書いてあるので分かる)。よく見つけたものだと思うが、展示されたそれらをカメラに収めるとき、「自分も俗物だ」という違和感を覚える。

ガラス越しに、山と積まれたメガネがある。山と積まれた靴がある。山と積まれたカバンがある。山と積まれた髪の毛がある。人の髪の毛で、生地を作ったのだという。

 

 アウシュビッツでは2時間弱、ビルケナウでは30分ほど使ったが、あっという間の出来事だった。美人ガイドの英語は非常に流暢で分かりやすいが、彼女もしゃべりも、こころなしか辛そうであった。窒息室に爪で刻まれた十字架。「そう、彼らは死ぬ間際にこれを刻んだのだと思うの。彼らには、新鮮な空気が必要だったのに」。立ち牢で一晩「眠らされた」あと、いつもとかわらぬ労働に出される話。寝返りのできない寝床。彼らの足先を無情に襲うネズミたち。5分しか許されないトイレ。仕切のない便座。ときには排泄物以外の物体が流れたという、トイレの排泄溝。コーヒーの色をした、得体の知れない朝食。

 

 しかし、そういう話を聞いたり見てりしている間は、自分でも意外なほどにクールであり、ふと「俺は無感動なのか?」と自問したくなる。「あまり考えてはいけないのだ」というか、思考が拒絶しているというか、そんな感じである。いや、そうではない。全てを目に焼き付けようと一生懸命だったような気がする。書き出すとキリがないが、帰りのバスでドッと疲れが出たことは、よほど集中していたことの証明でもある。あのビルケナウには1万人を超える人が存在していた。しかし、誰も生活をしていなかった。

 ルドルフ・ヘス所長 ヒムラー ゲッペルズ