2月4日(木)サンクト・ペテルブルグ 曇り
昨日に続き朝食を共にしたOさんは、国際交流関係を担当しているとのことで、名刺を頂いた。
彼は「幸運にもマリインスキー劇場のチケットが手に入った」らしく、今夜はそれを見て、夜中0時ちょうど発の列車でモスクワに行くそうだ。
我々の飛行機のチケットも無事手配され、レセプションに荷物を預け、ユウコは美容院で髪を切り、そして二人でコンパニオンに向かう。
ところがコンパニオンのオネエチャンは、
「ムルマンスクのアコモデーションなんて無いわヨ」とあっさり。
「行けば部屋は有るわヨ!」と簡単に言う。べつだん気にする必要もないらしい。すこし気楽になった。
【ペトロパブロフスク要塞】
エルミタージュ前のデカブリスト広場からペトロパブロフスクの要塞まで歩く。
ここでは、ペトロ教会(ピョートル大帝、女帝エカテリーナ、及びロマノフ家の墓がある)、博物館(サンクト・ペテルブルグの歴史的変遷)などを見る。
この辺りではエストニア同様、スウェーデンとの攻防があり、ペトログラードとして確立したのは北方戦争後(1703)というから、今まで無知であったとは言え歴史は面白い。
その以前、1240-1242のアレクサンドル・ネフスキー時代も忘れてはいけないのだが(ネフスキー寺院は行きそびれた)。
ピョートル大帝の座像がある。背は大きく、そして頭が小さい。その博物館の展示によれば、ロシアが西洋化しはじめたのはペテルブルグに遷都をしてから、つまり18世紀後半のことで、そう思ってみると、その時代の偉い人々の肖像画などを見ると、なんとも明治維新後の西洋化日本と通じているような気もする。そしてそう考えていくと、ロシアはブハラの王様同様、田舎王国だったのか? という思いがよぎる。やたらデカイ物、やたらゴージャスな物を作りたがるのは、イランやトルコの西洋化とも通じるものがある。それを思うと、キエフ公国のほうが、大学もあったし、よほど進んでいたのだろうか。
【ムルマンスク行き】
YHで荷物を取り、バスで空港へ向かう。
空港は外人用(及びモスクワ行き用?)カウンターがあり、我々はそこでチェックインをする。
ムルマンスクに行くのは我々2人と、マダムが1人。そのマダム、我々のことを気遣ってくれているらしく、チェックインした後の待合室で僕がトイレに行こうとウロウロしていたら、
「ここで座っていればいいのヨ」と英語で声をかけてくれた。
しかし乗客はもちろん我々だけではない。機体はツポレフ134。ほぼ満席。
どういうわけか、我々は前から3列目、右の窓側、ビジネスクラスのシートに座らせられた。
エコノミーで取っているはずだが、確かに後ろの座席よりも若干広い(もっとも、ほとんど自由席のようだが)。
我々の前、1列目と2列目はいわばファーストクラスで、我々の目の前はカーテンで仕切られているが、隙間からのぞき見ると、立派な食事とウォッカが出ている。
しかもシャンパンをチェイサーにしている!
料理は、イクラ、サーモンの前座にトリ&ライスのメイン。おいしそう。
「我々は、もしかしたらビジネスクラス待遇なのでは」。
「ファーストほどでなくても、ちょっとは良いものが出てくるのでは」。
などと淡い期待を抱くが、しかし出てきたのはその他大勢の乗客と同じく、茶とケーキ。しょせん、我々庶民はこの程度の待遇なのだ!
【オーロラか?】
飛行機は定刻通り19時30分発で21時30分に到着したが、21時を過ぎた辺りから、前方右手に白い影が現れているのに気がついた。
「あれは、もしやオーロラ?」と思うが、
「それにしては高度が低すぎないかなあ」と思う。
あるいは雲ではないかと思うのだが、しかし、形も変わるし、おぼろげながら濃淡もあるし、白いと言うより少し緑がかっているし、そして・・・
「カーテンの形をしているよ!」 我々は、ムルマンスクに着く前に、もうオーロラを見てしまったのか?
【街へ行けるか】
空港では荷物も無事に出てきた。気を遣ってくれたマダムに一言あいさつしようとおもったが、もう姿がない。
彼女は着陸してすぐ、機を降りる直前に、「空港では誰か待っているの?」と声をかけてくれ、我々は、
「いえ、誰も待っていません。我々はバスで市の中心まで行きます」と答えていた。
そのとき彼女は「Welcome to Murmansk」と嬉しそうだった。
御礼も言えず、ちょっと残念に思って建物の外に出ると、なんとマダムがそこにいた。我々を待っていてくれたらしい。
「あなた達を助けてあげるワ」と言う。
「タクシー、拾うの大変でしょ。私が安いのを教えてあげる。
私は息子を待っているのだけど、彼は車を持っていないの。友人の車で来るから、乗せてあげられなくてごめんネ。
こっちこっち。タクシーは1人12ルーブルだけど、O.K.?」
と、案内されたのはミニバスであった。ミニバスの前にはバスが停まっているが、
「バスは遅いし、寒いわヨ!」と笑う。
良い人だ! 握手して別れる。
ムルマンスクは「軍港ぐらいしかない北の辺境都市」と軽く見ていたのだが、空港からの車道はえらく立派で、車通りも多い。
沿道には、遅い時間にも関わらず、バスを待つ人も多い。そしてバスも頻繁に走っている。
我々が乗ったミニバスも、お客の出入りがある。暗いのでよく分からないけど、しかし沿道にはずっと住宅地が続いている。
「だてに45万都市ではないなあ」と、妙なところで感心した。
【駅前の、立派でもないが大きなホテルへ】
空港から40分ほど走って、鉄道のムルマンスク駅前まで着き、ここが終点。
市の中心には大きなホテルが2つある。ロンプラの情報を頼りに、その1つのHotel Meridianを目指す。駅から3分。ホテルのフロントに入り、時計を見ると22時40分であった。
建物は一部修復中(РЕМОНТ)だが、部屋はある。
1泊2人で356ルーブル、というが、それは15ドルほどにしかならない。しかも「2泊したい」と言ったら少しまけてくれた。
選択肢もないので部屋も見ないままここに決めると、部屋は8階だという。
最上階である。
エレベータに乗って上がると、小柄なジェジュールナヤ(フロアレディ)が待ちかまえていた。
部屋の扉を開ける。
なんと、部屋が2つある。
ベッドルームと居間だ。
暖房も効いている。
もちろん、シャワー・トイレ付き。しかもオバチャン、我々が尋ねる前に、心中を察するかのように言った。
「暖かいお湯も、出ますよ」。
ここはスイートなのだ!
ということは、もっと安い部屋もあったのか・・・?
「他の部屋でも良かったかなあ」と思うが、しかし我々はすっかり良い気分である。
それはそうとお腹が空いているので、6階にあるというカフェに行くと、そこにはトリのモモ焼きとマカロニぐらいしかない。とりあえず食べるが、これでは足りない。
で、僕は駅前の売店を目指して買い物に行く。もはや0時を回っているが、車も人も動いている。
ムルマンスク駅には0時45分にサンクト・ペテルブルグからの列車が到着するのだ。そのせいか、駅の待合いには人が多い。
駅前の売店はカワイイ娘が売り子をしていた。周囲には花屋の並びがある。しかも、この時間でもやっている。誰が買うのだろう。
【ドルニェットで我々は却って得をする】
ところで、ロシアでは昨年9月に経済危機に陥り(各種ニュース)、外貨取引が止まった(ブダペストで会ったケン&ノリの話)と言うが、9月と言えば我々はカザフスタンのアルマトイにいた。
バーバリャーナがある日「バンク、ドル、ニェット」と言い、ロシアのルーブルが地に落ちたという事を身振りで説明したことを思い出した。
この時の経済危機は世界的にも波及したが、相対的に日本円が強くなって、一時期は110円台にまで戻したのだ(ユウコの友人から送られたEメール情報)。
実はこれらを思い返したのはOさんからの話がきっかけである。
Oさんによれば、98年9月の時点で1ドル=6ルーブルだったのだが、経済危機によって24ルーブルと4倍になった。
ルーブルとしての価値は国内では変わらないので、結果的に旅行者にとって割安になった。
「そのかわり、ロシア人は大変ですよ」と彼は言う。さらに、
「国内便の飛行機は値崩れを起こしているので、ムルマンスクなんかは、列車よりもよほど安く飛べますよ」と続ける。
たしかに、我々が購入したサンクト-ムルマンスク便は7000ルーブルで、これは32ドル相当になるのだが、チケットにはなぜか1ドル=7.3ルーブルという記述があり、しかもUSD90$(+10$TAX)とまで書かれている。カードなどで買い物をすると、かえって損をすることになるのだろうか。この宿にしても、そのレート(1ドル=7.3ルーブル)で計算をすると1泊48ドルほどになって、これはロンプラに掲載されている値段(42ドル)とほぼ同じになる。
そう考えていくと、あるいはサンクトではYHよりも中級ホテルの方が、よほど快適でしかも安く泊まれるのかも知れない。と、それをOさんに言ったら、
「サンクトやモスクワはもうダメですよ。分かってますからね」という答えが返ってきたのであった。
彼ら(わかっている人たち)はドルから換算するので、旅行者が得になる計算にはならない、というわけである。
いずれにせよ、レートが下がるというのは旅行者にとっては嬉しいが、しかし、ロシアなどで暮らす人々を思うと素直に喜べる話ではない。
2時まで待つがオーロラは出ず、雲が出てしまったようなので就寝。
テレビの天気予報によれば、明日はムルマンスク−23℃、モスクワ−4℃、イルクーツク−1℃、ペテルブルグ−3℃。
ロシアで初めてTVを見たが、ここでもニュースに手話が入る。