129日(水)プロブディフ 雪ときどき曇り

 

 固定相場と聞いていたが、今日は少しレートが下がっている。

 

【バチコヴォ僧院見物に】

 今日はプロブディフから南に30kmほど離れたロドピ山脈の麓にあるバチコヴォ僧院に行こうと思っている。ブルガリアの僧院といえばユネスコの世界遺産にもなったリラの僧院が非常に有名だが、バチコヴォはリラに次いで大きい僧院であり、そしてここも世界遺産に登録されている。起源は1083年という。

 

【どのバスがバチコヴォ行き?】

 プロブディフの中心街から鉄道駅に向かうと駅の前にメインバスターミナルがあるが、バチコヴォ行きのバスは、鉄道駅の脇から線路をくぐり出たところにあるロドピ・バスターミナルから出る。バスは毎時出ているというので、10時発のバスに間に合うように、雪の舞う中、ホテルを出た。5分前に到着。いましも出発しそうなバスがあるので、運転手に「バチコヴォに行くか?」と聞くと、ウンウンとうなずくので乗り込み、中ほどの席に座った。バスの中は暖房が効いているので暖かい。バスが動き出してから車掌のオネエサンが集金に来た。

「バチコヴォまで」と言うと、オネエサンはキョトンとした顔で我々を見た。

「行かないわヨ。これはハスコヴォ行きなのよ」。

ヘンダナーと思って運転手のところへ行き、「我々はバチコヴォへ行くんですよ」と声をかけると、「そうそうバチコヴォ、わかっとるわかっとる。すわっとれ」とばかりにうなずく。

ところが我々の後ろからオネエサンが、「違うったら。ハスコヴォよ。ダメよ」と言い、我々を下ろすためバスを横付けさせた。

乗客には若者が多いが、誰も英語を話すものがいない。1人の青年にドイツ語で話しかけられたが、こういうとき、学生時代の記憶が取り戻せたらいいのになあと思う。あの3年間のドイツ語授業は、こういうときにまるで役に立たない。

「ドイツ語できるか?」「いえ、できません」というドイツ語だけが分かる。

 

 バスを降り、もと来た道を10分ほどかけて歩いてバスターミナルへ戻り、やり直し。10時半である。小さいながらも雑多なターミナル構内にカッサを発見し、“バチコヴォ”とキリルで書いたメモを見せ、時刻を確認する。

11時に出るから、1番乗り場、“スモルヤン”と書いてあるところで待ちなさい」と言われる。

ターミナルは、中も外も寒い。しかし、11時になってもバスは現れない。バス溜まりに数台のバスが停まっているが、乗り場にはやって来ない。だが、1番乗り場にはバス待ちの人だかりができつつある。「今度こそ間違いなく乗れるだろう」と期待して待つ。

1115分、バスが来た。乗ろうとすると「これはスモルヤン行きだから、バチコヴォには行かないよ」と運転手が言う。しかも「11時発のバチコヴォ行きはもう出たぞ」とも言っている。ええー、ホント? がっくりだ・・・。

 

「分からないなあ」。

 

久しぶりの「分からない感覚」におろおろしていると、お助けオバチャンが現れた。英語が通じる。彼女の助けもあって、11時半発のバスに乗ることができた。それにしても、ターミナルではあれこれ人に聞いて回ったりしたのだが、ブルガリア人、ものを尋ねてもイエスなのかノーなのか分からない。

 

【やっとのことでバチコヴォまでやって来た】

 雪は舞うが積もるほどではなく、寒いが路面は乾いている。そういえば、部屋の中も寒いわりには洗濯物の乾きは速い。乾燥しているのだ。

 バチコヴォまでは意外と山道で、40分ほどで到着した。バスを降り、街道をはずれて10分ほど坂道を上がると門前に出る。

立派な僧院である。城壁のような建物が教会を取り囲んでいる。門をくぐり中庭に入ると、その城壁はここで生活する修道士たちの住居になっていることが分かる。堅固な建物だ。教会の入り口上部にある、皇帝イヴァン・アレクサンダーの臨終の絵が印象的である(死の床につき人々が悲しむ中、悪魔が1人ほほえみ、皇帝の枕元に立って、その時を待っている)。

 

中庭を散歩していると、1人の修道士に英語で声をかけられた。彼は僧院の案内役らしい。

「資料館もあるので見ていってください。それに、ダイニングルームの壁画もぜひ」という。

ガイド付きなら14000レヴァ、ガイド無しなら2000レヴァとのことだが、中を見て雰囲気が分かれば充分なのでガイドはつけない。カメラ撮影は別料金で2000レヴァ。料金設定は適当な気もするが、あまり気にしないことにする。

ダイニングには僧院建立当時から使われているという、良く使い込まれた古い長テーブルがあり、これはこれで歴史の重みを感じさせる。壁面にはフレスコ画が素晴らしい。キリストやマリア様、天使、聖人などのほか、古代哲学者も描かれている。

「ガイドは不要」と言ったのだが、案内役の修道士は、「あれは最後の審判、あれはアリストテレス、これはプラトン」と、簡単な説明もしてくれた。資料館には14世紀からのイコンなどが展示されている。小さい部屋だが、良いものを残しているものだと思う。

 

 帰り道、僧院の門を出て坂道を降りたところに1台の中型バスが停まっている。プロブディフまで行くというので乗せてもらったが、どうもこれは地元学生向けのツアーバスだったらしい。値段を聞いても「んー、じゃあ12000でいいや」と、なんだか適当で、払った代金は運転手のオバチャンの小遣いになったようだ。

ところで、この運転手といい、朝、乗り間違えたハスコヴォ行きバスの車掌さんといい、女性労働者が新鮮である。中国以来ではないかと思う。

 

 学生達はホテル・トリモンティウムに泊まっているらしく、ここが終点になった。彼らが荷物室から大きな旅行カバンを取り出すのを横目に我々はホテル・ブルガリアのある街中へ戻る。雪は止んでいた。

 

【防寒対策はとても大切。とくに靴は丈夫なものに限る】

道を間違え遠回りをしてしまったが、そこには青空バザールがあり、寒いながらも賑わっている。防寒グッズはないかと冷やかし、ユウコはとっくりセーターを買った。靴屋もある。丈夫そうなブーツが並んでいる。僕の靴は、今日も靴底から水がしみ上がってきており、これは非常に問題だ。しかし、57000レヴァ(約34ドル)とは、今の我々には高価な買い物だ。

「高いなあ・・・欲しいなあ・・・」。

その場を去り、街中の靴屋も見て回るが、おしゃれな靴屋のブーツは青空市場の2倍も3倍もする。そういえば、人々はみな良い靴、良い服を着ているのだということに気づく。

「欲しいなあ・・・高いなあ・・・」。

 

昨日Verdiで食べたパスタ&ピザがあまりにも美味しくて安かったので、今日も同じ店で食事をする。

お腹を満たし、そこで意を決した。

「靴が丈夫でなければ、旅は続けられない」。

暗くなってきたので、青空市場まで走る。店じまい寸前であった。

バスを降りてから道を間違えなければこの市場には気づかなかった。青空市場を散歩しなかったら、この靴屋には気づかなかった。ここで出会えたのは天佑と言うべきであろう。と、自分を信じることにする。ブーツはPolaris。“Amerikan Style”とある。靴を入れた丈夫なビニル袋もPolaris製。説明書きは全て英語であった。カシュガルでつま先のほつれを直し、ゴルガンでかかとを直し、イスファハンではジャブジャブと洗った僕のNew Balanceは、ここで手放すことにした。旅の友と別れるようで、なんだか感傷的になるが、もはや使わない靴を持って歩くのはあまりにもバカらしい。

 

 靴を買ったのはいいが、おかげでツーリストオフィスが閉まってしまった。明日はヴェリコ=タルノヴォへ行くつもりだが、これではバスの時刻が分からない。バスターミナルの場所は分かっているから、朝早く行くしかない。

 

 街の電光表示板によれば、夕方の気温はマイナス6℃だそうだ。感覚としては昨日も同じぐらいだったのではないかと思うが、2日目ともなると、「ふーん、そんなもんなのか」と寒さにも慣れてくる。もう少し着る物を増やせば、問題は解消するような気もする。冬物装備として、あとほかに欲しいものは、僕は防寒の土方ズボン(あるいは兵隊ズボン)、セーターあるいは腹巻き、厚手の手袋(今持っている手袋は少々ひよわだ)。ユウコは、防寒シャツ(ババシャツ)、厚手のズボン、覆面(顔が痛いと言っている)、厚手の手袋、といったところ。これでマイナス30℃も問題ないか?!

 

 ブルガリア語はロシア語の親戚とも言われるが、単語レベルではともかく、ロシア語とはかなり似ていないように思う。語り口が違う、というか、耳にする感覚がずいぶんと異なるような気がしている。もちろん、ロシア語の知識が役に立つこともあるが、ロシア語は通じない。

「いや、もしかしたら、ロシア語が嫌われているのかもしれない」。かつては親露国であったものだが。