917日(木)ビシュケク 晴れ かなり乾燥している

 

 今日はいくつか「仕事」がある。

・まずはイラン大使館へ行き、ビザの申請をすること。

・そしてインターネットができる場所を探し、金平の実家へメールを出すこと。

・夕方、オシュへ行く乗り合いタクシーを捕まえること。

 

 今夜は、キルギス南部、フェルガナ盆地の端にあるキルギス第二の都市オシュに行くことにしている。途中の町や自然も気になるのだが、ロンプラを読む限りでは少なくとも「快適な旅」は望めそうにない。山がちなので長距離バスでは時間がかかり、夜行バスもないから、オシュに行くまでに2泊せねばならない。しかし人々のニーズがあるのか、ビシュケクからオシュまでは「乗り合いタクシー」がある。これは多少値が張るのだが、高速移動手段として有効である。夕方にビシュケクを出発し、夜通し走ってオシュまで到達するのだそうだ。もちろん、さらに早くて快適な手段として飛行機があるが、これはまったく念頭にない。そんなこんなで、町を歩いて調べた結果は以下の通りである。

 

 

【ビシュケクでの呑気でない一日】

 金平の家にメールを出すのはクレジットカードの利用限度額や、現在の利用状況を確かめるためである。アルマトイ以来、金のことが気にかかっている。「それほど心配することはないよ」とユウコになだめられ、いや、自分でもそう思うのだが、それでもどこかで「もし何か起きたときに『金が無い!』というのは最悪の事態だ」と不安に思っている。

また、いざというときのために、銀行口座の番号も知っておく必要があるだろう。これを書きとめておかなかったのは迂闊という他はない。いまさら知ったからといって、その情報をどこかですぐに使う予定はないのだが、「知っておいた方が良いのではないか」と、いちど思いはじめると、なんだか気がかりになってしまうものだ。

 

【インターネットを利用できる環境はどこにあるのか】

キルギスコンセプトをはじめとして、旅行社でもE-mailサービスをやっているところはある。しかしそれは旅行社のアドレスを借りてメールを発信することが可能なだけで、我々のようにインターネットブラウザからHOTMAILにアクセスしてメールを送受信したいという人にとっては、残念ながら役に立たない。そこで「どこかコンピュータを自由に使ってインターネットを楽しめるところはないか」と尋ねると、「大学のコンピュータルームに行ってみると良い」と言われた。

その大学とは、OVIRの通りをそのまま少し東に行ったところあるSlavic Universityのことを指していた。あまりにも大きくて立派な建物だったので、我々は展示場か会議場か、あるいは博物館かと勘違いしていたところだ。そこへ行くと、入り口のオヤジは「なにしに来た」と冷たく、「コンピュータルームはどこですか」と聞いても「そんなものはない。帰れ帰れ」と相手にしてくれない。となりのオバチャンは「あら、あるわよ。2階でしょ」と言って、オヤジともめる。我々は2階に上がる。非常にわかりにくいが、廊下の奥に、大学時代の計算機室を思わせる部屋があった。コンピュータが20台ばかり並んでいる。

管理人が誰だか分からないので部屋の入り口で突っ立っていると、1人の学生がロシア語で話しかけてきた。そこで「英語を話す人はいるかい?」と尋ねる。ここは学生たちで管理しているらしいが、管理者が英語のわかる人で助かった。「コンピュータを使ってメールを出したいんだけど」と頼むと、「わかった。さっそくアカウントを作って上げよう」と、彼は適当に1台のマシンの前に座る。見るとUNIXである。「Windowsはないの?」と尋ねると、「ブラウザを使いたいの? あぁHOTMAILか。でもインターネットは重いからやめた方が良いよ」と、キーボードをカチャカチャ操作しながら答えてくれる。

テキストベースのメールソフトが出てきて、我々はますます困惑するが、コマンドをひと通り教えてもらい、僕は久しぶりにUNIXのマシンをいじる。けっきょく、HOTMAILのメールを「読む」ことはできず、こちらから一方的にメールを「書く」のみだ。つまり、やっていることは旅行社のサービスと同じである。が、料金はかからない。マシンルームには空席もあるから、順番待ちの利用者を気にする必要もない。

とにかく、金平家宛に書くという我々の希望は達せられた。

 

【在ビシュケクのイラン大使館】

アルマトイの大使館では空路入国のみ申請可能であったが、ビシュケクのイラン大使館で応対してくれた、愛想の良く、小柄で丸いオジサン職員によれば、10日間のトランジットビザならここで取得することができる。今日は木曜日なので、月曜日にはビザが取れるとのことだ。パスポートは預ける必要が無く、大使館の職員が氏名と番号を控えてくれる。ここでサムに出会った。エレーナは居ない。彼は今日、ビザの受け取りに来たのだそうで、料金を聞いてみると「国籍によって違うから参考にはならないよ」と前置きした上で、ニュージーランド人は35ドル、イングランド人は60ドルと教えてくれた。ちなみに丸いオジサン職員によると、日本人は150ドルである。

 

【クレジットカードはどこで使えるのか】

米ドルを引き出すべく、クレジットカードの使用を試みる。引き落とし日の15日を過ぎ、多少の余裕ができたはずなのでその確認も兼ねている。ところがロンプラに書いてある銀行に入って尋ねても、「カードはダメ」と、良い返事が返ってこない。困った顔をしていると、受付のオバサンが通りがかった職員に片っ端から声をかけてくれた。その結果、Eridan BankでならVISAMASTERも使えるらしいことがわかった。住所をメモに書いてもらい、通りの道標と地図を頼りに行くと、小さな、しかし新しい銀行があった。英語も通じた。3%のコミッションを取られるが、米ドル現金を手にすることができた。ロンプラの銀行情報はほとんどアテにならず、とくに地図に関してはまるで役に立たない。金融機関の変遷はそれほどに激しいのだろうか。

 

【オシュに行く乗合タクシーはどこで待っているのか】

 イラン大使館に行ったついでにビシュケクの鉄道駅まで歩く。鉄道駅は街の中心から離れている。これはアルマトイでもそうだし、たしかタシケントでもそうだ。中央アジアの首都の鉄道駅はみな少々不便なところにある。ビシュケク駅舎は立派な建物で、つい写真を撮った。駅前広場にはタクシーが溜まっており、その中から「オシュ行き」を探すのが我々の目的なのだが、そばを通りかかると、たむろしていたオヤジどもからさっそく声がかかった。普段は蠅のようにつきまとい、うっとうしいタクシー運ちゃんだが、こうして声がかかるのを待つというのもなんだか妙なものだ。

 1人、青いダンガリーシャツにジーンズ姿の、いかしたおじさんがいた。年の頃は30から40。ひと昔前の日活映画に出てきそうな、「ダンディ」という言葉が似合う、イイ男である。我々が外国人と知ってか、英語もまじえた交渉をする。「オシュへ行きたいが」と僕が言うと「いいだろう。どの車が良い?」と、背後に並ぶ車を身振りで示す。タクシーにこんなことを言われるのは初めてで戸惑うが、ここは思案のしどころだ。いくつか並ぶ車の中で、白いバンと、軍用ジープが目に止まった。オシュへは山越えである。ポンコツの大型バスでは越えられず立ち往生したという話がロンプラにも出ている。道も悪いという。よって、丈夫な車に限る。それに、他にも客を拾うとなれば、客席が少ない方が客引きの時間がかからない。それは敦煌やカラコルでの経験からも明らかだ。ジープの席は、運転手を入れて5席しかない。我々が乗れば、残る席は2つ。これなら出発もたやすいのではないかと考えた。となればジープで決まりだ。

料金は1400スム。明日の昼にはオシュに着くという。

彼が聞いてきた。「どこに泊まっているんだ? 迎えに行ってやるぞ」。これは意外なサービスであった。僕らは既にビジネスセンターをチェックアウトしているのだが、荷物を預けてある。そこで、夕方6時にビジネスセンターで落ちあうということにした。わざわざ迎えに来てくれるとは、もしかするとこれは貸し切りになるかもしれない。そうすれば後ろの座席に寝っころがることができるぞ。少なくとも足は伸ばせるだろう。珍しく快適な旅が期待された。我々は夕刻を心待ちにしていた。

 

【そして、我々は3000年の歴史を持つオシュを目指す・・・】

 夕方6時前、街の散策から帰り、ビジネスセンターに荷物を取りに行くと、路傍に1台のジープが止まっていた。

「これは昼間見たジープかなあ」とユウコに問いかける。「うーん、運転手がいないから分からないね」。

運転席に人はなく、助手席には丸い中年のおじさんが乗っており、後部席には50過ぎと思われるおじさんと、123の女の子が1人乗っている。我々の席はない。

「我々のは貸し切りのはずだから、違うよ」と行き過ぎ、ビジネスセンターのロビーに行くと、昼間のイカシた男が座っていた。我々を見るなり「待ってたぞ」という表情を見せ、我々の荷物を進んで運んでくれる、なかなか優しい男である。彼はキルギス語、ロシア語のほかドイツ語も話せるらしく、しかし英語はあまり得意ではないらしく、たしかにどこかドイツ語なまりの英語である。いっぽうの我々もロシア語はろくに話せず、キルギス語に到っては言うに及ばず、大学で3年間も学んだドイツ語を生かすことなく記憶から追いやってしまったことが残念でならない。

 ともあれ我々は乗車を楽しみにしていたのだが、運ちゃんに付いていくと、なんとさっきのジープに案内された。「貸し切りではなかったのか・・・」とがっくりするが、いったい、どこに乗れというのだろう。後部席に4人が並び乗ることになったのである。僕がいちばん左、つまり運ちゃんの後ろに座る。その横にユウコ、女の子、おじさんの順であるが、さすがに窮屈だ。これでひと晩は大変だなぁ・・・と思って動き出したが、5分ほど走ったところで車は停まった。沿道に出迎えの家族が出ている。助手席に乗っていたおじさんが降りた。「ああ、このひとは郊外までの移動だったんだな、これで安心」と思ったのもつかの間、かわって出迎え家族の一員だった少年が乗り込んできた。ここで右端に座っていたおじさんが気を利かせたのか、あるいは自分が良い席を取りたかったのか、助手席に移った。少年が後部席に乗り込む。このとき、僕は2人の少年が乗ったのかと思っていたが、ユウコによると、もう1人の少年はその前から我々の更にうしろ、つまり荷物室に居たのだそうだ。山と積まれたビニルシートに覆われて気がつかなかった。とにかく後部はあいかわらず4人だが、僕以外はみな小柄なのでかなり余裕ができた。と思っていると運ちゃんは僕を振り返り、「アインモーメント(ちょっと待って:独語)、これから駅に戻ってもう1人客を拾う」と英語で言う。

 「???」 

どこに乗せるというのだろう。我々の不安をよそに、彼の言う「もう1人の客」は、赤ん坊を抱えて駅前で待っていた。その男は、「俺は娘を抱えているんだから前に座るのが当然だろう」と主張し、その結果、助手席にいたおじさん、つまり女の子の父親(あるいは祖父)が、不承不承ながらも再び後部に乗り込もうとする。こうなると後部は5人になってしまう。座れるはずがない。そこで少年が荷物室に移った。これで荷物室には2人の少年(および荷物の山)が乗り込むことになった。

かくして、赤ん坊を含めて8人のお客を満載したジープは、ようやくにしてビシュケクを出発した。すでに夜7時を過ぎていた。

赤ん坊を抱えた男の名はアタベクといい、年は30前後と思われ、髭がよく似合う、黒髪の細い男である。西部劇にでてくる田舎町のガンマンのようにも見える。いまや、彼の片手には銃ならぬウォッカの瓶があり、片手には娘を抱えており、横の運ちゃんになにくれと話をするが、すでにかなり酩酊しており、舌がなめらかで、というよりも、なめらかを過ぎて、ややもするとロレツが回っていないようでもある。顔は赤らんでおり、目も座っている。僕は横目に、このまま彼がうたた寝でもしたら赤ちゃんを落としてしまうのではないかと心配である。

 夜8時を回ったところで、沿道の食堂で夕食休憩となった。ダンディ運ちゃんによれば、ここは「ドゥンガン(Dungan)の食堂だよ」と意味ありげに言う。僕はここまで、ドゥンガンの意味を今ひとつ理解できないでいたのだが、彼はさらに「ここらはドゥンガンの多い土地なんだ。つまり『中国人の島』ってとこだ」と説明する。

我々はあまり腹が減ってないこともあり、また羊が出てくるのではと不安なので、ひと皿だけ頼む。彼は我々の横に座り、しきりと茶を勧めてくれる良い奴だ。我々の不安に反し、ここのラグメンは牛を使っており、地元の運ちゃんが薦めるだけあって、味は良い。中国人の料理屋というのも大きいのだろう。さすがにこういうときは、中国料理の素晴らしさに感心する。うまいうまいと、ユウコと2人で平らげる。もうひと皿、頼めば良かった。

 

【オシュまで至るか、】

 30分ほど走ったところでエンジン調整のためか側道に車を寄せる。その前から運ちゃんとアタベク氏がなにやら不穏な会話をしていたのだ。どうもアクセルの調子が悪いのか、あるいはアクセル時に不況音が入り、違和感があるのか、そんな様子である。車を止め、懐中電灯をたよりに2人してエンジンルームを覗いている。アタベク氏はいつの間にか酔いも醒め、お客というより以前からのドライブ仲間であるかのように、車を気遣っている。

 だいぶ冷えてきた。僕はこの間に、ズボン下のタイツを穿いた。

 ユウコは今がチャンスと、みなさんに日本の絵はがきを配った。アタベク氏には、いわさきちひろの子ども絵をあげた。彼は喜び、娘にしきりと見せている。1時間ほどあれこれ治したのち、あらためて出発した。

 

 アタベク氏はウイグル人である。抱える娘はイリュファールという。「この名はウイグルでは有名なお姫様の名前なのだ」と、運ちゃんが説明してくれた。12歳ぐらいだろうか。アタベク氏の両親はウルムチに住んでいるらしい。彼はウイグル、キルギス、ウズベク、そしてロシア語と、つまり4カ国語もしゃべれるのである。「でも中国語はダメなんだ」と笑った。いかした運ちゃんはロシア・キルギス・ドイツ・英語と4カ国語だ。この2人の会話をうしろで聞いていると、アタベク氏が酔っぱらっているせいか、ロシア語とキルギス語がまぜこぜになっていた。彼はビシュケクで乗り込んだときのウォッカ瓶をすぐにカラにしたあと、さきほどの夕食休憩時に買ったのか新しいウォッカ瓶を持っていて、しきりに僕に勧めてくる。ここで酒盛りになっては大変なので断る。運ちゃんは無論飲むわけに行かない。彼は僕との「友好のために」乾杯したかったようなのだが、男2人が飲まないというとあっては、残念そうに引き下がった。

 

 山道はダートで良く揺れるが、さすがはジープ、ものともせずに飛ばしていく。飛び跳ねて進んでいく。僕は一番左端なので、ドアからのすきま風が厳しい。左の足が冷えてきた。ザックの中からレインコートを引っぱり出して風よけにするが、大した効果はない。横のユウコに「寒くない?」と聞くと、「寒くはないけど・・・ニオイが・・・」と、げんなりとした様子で言う。僕はなんのことか分からずキョトンとしてしまった。あとで知ったのだが、横の女の子と、うしろの少年2人が車酔いをしてしまい、彼女はその影響を受けたらしい。右に左にと揺れる悪路なので無理からぬことではあるが、エンジン音が騒々しいこともあり、すぐ横から発する車酔いの嘔吐の臭いには、全く気がつかなかった。僕の席はすきま風のおかげで、寒い変わりに常に新鮮な空気が吸えたということになる。

 うとうとしていると、いつの間にか夜も更けている。トイレ休憩のため、沿道に停まる。僕は眠気が最高潮に達していた。トイレから戻ったユウコが「星がすごく綺麗だよ」というが、「あ、そう」と答えるのもおっくうなぐらい、ねむたかった。