1013日(火)ヒワ 晴れ

 

【早朝の祈り】

 昨日もそうだったが、朝6時になるとどこからかお祈りが聞こえてくる。部屋の中では蚊がうるさい。ちょっと早起きして朝焼けの街を散歩しようともくろんだが、期待はずれであった。今日の早起きが「三文の得」になるとよいが・・・無事イランにたどり着けることを祈る。

 

Sさんはフリーライター】

 今日もSさんと3人で朝食を取っていると、もう1人お客さんが現れた。白人のオバサンである。Sさんとは既に顔見知りらしく、言葉を交わしているが、なにやらどこか崩れた感じのマダムである。マダムがSさんに英語で「あんた、職業なんだっけ?」と聞くと、Sさんは我々を少し気にするように、「I’m a writer.」と答えた。そして我々を向いて「フリーなんですけどね」と苦笑いをする。

彼の話によると、マダムと出会ったのは昨日のことで、なんでも彼女はフリーの写真家、というより写真芸術家(?)らしく、「あなたが旅行記を書いたら私が写真を付けてあげる、って言うんですよ」と、なんだか困ったように言った。

 

【別れのヒワ】

 出発の荷造りをしていると、久しぶりに「前進する」という意識になってくる。どういうわけか、何か嬉しい。顔の表情がゆるむのを禁じ得ない。「何が俺をそうさせるのか?」と自問したくなる。イランで何が起きるかは、まだわからない。が、なぜだか妙に楽しみだ。カザフスタンに入るときは非常に不安で「このまま中国にとどまっていた方がよいのではないか」と思っていたのは実に対照的だ。物価が安いことを期待しているのか、はたまた、日本語のガイドブックを持っている安心感からか。

 

 そろそろ出発しようかと部屋を出て、いないだろうと思いながらSさんの滞在する隣の部屋をノックすると、彼は我々の出発を待っていてくれたらしい。

Sさんはメモ紙を用意しており、そこには彼の氏名と住所、そしてこれまでの著書を書いていてくれた。「共著なんですけど、よかったらぜひ」と言われたその本は、僕も良く知っているシリーズ物の、読み物的ガイドブックであった。返礼にと、我々も自分たちの日本での連絡先を書き付け、渡す。僕はウルムチでオヤジから受けたFAXの中に、「週刊金曜日」に載った「ルーマニアひとり旅」の書評があることを思いだし、彼にそれを見せた。「プロのライターには恐縮ですが、じつは僕も本を出しているんです」。

彼はその事実に大いに驚き、そして「帰国したらきっと読ませていただきますから」と答えてくれた。

 

 我々が西門前でタクシーを拾うと言うと、彼は「そこまで見送りますよ」と付いてきた。優しい人だ。まだ午前中だが、タクシーのオヤジは、今日は客がないものと観念しているのか、暇そうにしている。我々が「空港まで1000ソムでどうだ」と言うと、すぐに首を縦に振った。Sさんが「やりますね。僕は空港からここまで、1300だったんですよ」と笑った。

タクシーが西門を去る。後ろを振り返ると、Sさん、旅仲間を失ったかのように、さみしそうに立っていた。切ない。

 Sさんに初めて会った日、ユウコは「彼はSケンさんというんだね。NHKの人みたいだね」と僕にこっそり語っていたものだが、ぜんぜん違っていた。Sは良いとして、「ケン」は本名と全くはずれている。「どうしてSケンさんだと思ったの?」と僕が聞くと、「いやぁ、フロントのオヤジがそう言ったような気がしたんだよね」。そして、「それに、NHKの人じゃなかったね」の問いには、「でも、ロボットコンテストのトレーナーを着ていたし、NHKの取材ノート持っていたし」と、観察がはずれていたわけでもない。もっとも、僕もユウコから「NHKの人だね」と言われて、全然疑わなかったのだが。

 

【ヒワの別れの懸念は、フライトがあるかどうか】

タクシーの中で話が弾むが、しかし不安がないわけでもない。飛行機の出発時間は14時過ぎだが、チケットはまだない。まさか満席になるとも思えないが、できるだけ早く行こうと思い、こうして10時過ぎにタクシーに乗り込んだのだ。まあ、なんとかなるだろうとは思っている。

 ウルゲンチの空港には11時前に到着した。客もいないし、バーにもカッサにも人がいない。しばらく待っていると、おばさんが現れた。「チケットを買いたい」というと「街のカッサで買いなさい」と素っ気ない。それは困るという顔をすると、「だけど、ちょっと待ってなさいね」と言う。ほどなく、少し偉そうなオヤジが現れた。声をかけるのがためらわれたが、思い切って「空きがあればチケットを買いたいのですが」と言うと、オヤジはおばさんとやりとりし、「よろしい」と頷いた。顔はいかついが、優しい。この直後に45人の中国系とも韓国系とも思える人々がやって来たが、これで満席になったらしい。一歩間違えば乗れなかったかもしれない。

料金は100ドル相当。チケットは公定レートで算出するので、ソムでは10936となる。闇両替ならば半額になり、我々は大いに得なのだが、こういうときに限って手持ちのソムが足りない。それで、ドルで支払いをしようとすると、カッサのおばさんは、「ドル払いはだめです。ソムに両替してらっしゃい」と、これまたつれない。空港の両替所は閉まっている。そこでユウコを荷物番に残し、僕はバスで街に戻ることにした。

 

【両替所を探す】

両替のできる場所ということで、まずひらめいたのはホテルだ。レートが悪いが仕方がない。ウルゲンチ一番のホテル・ホレズムに行き、両替する。ウズベキスタンで初めて、両替証明書(レシート)をもらった。ここのレートは、1ドル118.8ソムであった。空港のレートは1ドル109.3ソムである。ホテルのレートのほうが1割ばかり良い。それを知って知らずか、両替所のオジサンは「これで飛行機のチケットを替えば、少しソムが余るだろう?」と言い、ニヤリと笑う。僕は無言の笑顔で返しつつ「バザールで闇両替をすれば良かったかな」と考える。いや、いっそヒワまで戻り、みやげ屋と交渉したほうが正解だったかもしれない。非合法ではあるが。

 

【フライト、自由空間、酩酊】

 飛行機は定刻通り1420分に離陸した。

到着は1550分の予定だから、わずか1時間半のフライトである。飛行機は満席かと思ったが、けっこう空いていた。

その機内で、2人してビールを飲んだ。ユウコは350mlの缶ビールをあっという間に飲みきり、それでかなり酩酊してしまったらしく、ケラケラと笑っている。

「酔った?」と僕がちゃかすと、「えー、酔っぱらってないよぉー」と反論するが、すでにろれつが回っていない。彼女にしては珍しいことだ。山で酒を飲むと気圧が低いので酔いが回るという話は聞いたことがあるが、こんなに酒に弱かったかなあ・・・と思って眺めていると、ユウコが弁明した。

 

「高いところ飛んでるからかなあ。

でもさあ、缶ビールって、3.5ぱーせんとぐらいでしょ。

全部で350みりりっとるだから・・・アルコールは全部で・・・いくらだっけ・・・?

あれ、わかんなくなっちゃった。まあ、いっか。あはは」。

 

ケロリとしている。こんな無邪気な姿は久しぶりに見るが、それは今まで、いかにストレスの多い生活を送ってきたかを如実に語ることを僕に気づかせた。

1時間半のフライトながら、ここには「中央アジア」という俗世から隔絶した世界がある。すなわち、異文化からのつかの間の解放である。機内では治安が確立されている。短時間ながらも近代文明、安心世界への回帰ともいえる。ユウコの酔っぱらいぶりは、開放感あるいは安心感による結果にほかならない。中国西域、新疆ウイグル自治区から数えて2ヶ月の中央アジア文化生活である。ユウコが如何にストレスを感じてきたかを思うと、僕は素直に笑うことができなかった。

そういう僕も、中央アジア文化には、すっかり辟易していた。すでに書いたとおり、はじめのうちこそ、そのエキゾチックな雰囲気に感動し、あちこち歩き回っては写真を撮り、地元の料理を興味深く食し、人々の顔の表情や服装、振る舞い、談笑の様子など、全てに関心を向けていたが、1ヶ月もすると飽きが出てきた。感動が薄れてくるのだ。また、疲れる原因はほかにもあった。治安の心配、警察の職務質問、相変わらず悪い体調、高い物価、等々。我々は、もはや中央アジアの風土に飽き飽きしていたのだろう。どこへ行っても同じようなトルコ系文化の国。はじめは独特の味付けに興味深く食べたが、もはや辟易している地元の料理。もはやうっとうしいだけの、無邪気で田舎くさい好奇の視線・・・。

 

「もうけっこう!」

 

タシケントのトルクメニスタン大使館を2回訪れ、国家行事があるとの事由で、けっきょくビザが降りないことを知り、時間の無駄な浪費をしたことへの怒りと疲れの中、僕は、誰に言うともなくつぶやいていた。「だいたい、ウズベキスタンは何だ。警察は多くて無用な緊張ばかりさせられるし。ホテル代が高くて、ふところ具合は気になるし。ユウコは体調が悪いと言うし。おまけにこの暑さ! もう10月だぜ、どうなってんだよ、まったく。トルクメニスタンなんて、面白くもなんともないさ。どうせ同じなんだよ。けっきょく、お腹の具合と財布の中身ばかり気にしなければならないんだよ。それに比べれば、イランはきっと痛快だよ、イランに行けば何とかなるよ。物価は安いし、旅行者は多いし」。

 

「イランに行けば何とかなる」。その思いを抱いて、我々はヒワからタシケント、タシケントからテヘランに飛んだ。