8月17日(月)  トルファン      晴れ

 今日はトルファン近郊の一日ツアーに出かける。ツアーといえば、銀川でインチキめいたガイドとタクシーに連れられたが、今回は、ホテルで予約したから、まともなツアーのはずだ。

 ツアーは8時出発とのことで、7時に起床し朝飯を済ませ、昨日予約した吐魯番飯店へ行く。我々が一番客であったらしい。「6人乗りで行きます」と言われ、ロビーで案内を待つ。8時半を過ぎたところでようやく声がかかる。

 軽バンタクシーで行く。運転手は若い青年である。ツアー客は全部で5人。18歳ぐらいの女の子2人と、我々、そして少し遅れてやって来た小柄な青年。彼はカメラの三脚を肩に掛け、赤黒チェックのネルシャツを着ていた。痩せ身だが、体格は比較的がっちりしており、精悍な表情。少々鋭い目つき。小綺麗な格好をしているので日本人かとも思うが、彼は我々に対して無言であるので判別しかねる。

 ツアー出発。助手席に青年。2列目に我々。3列目に女の子2人。出発したてで会話もなく、なんとなく緊張した空間が広がる。

 軽バンはまず、おととい我々が鄯善からやって来た道を戻る。ほどなく道が水浸しになっているところに出る。吐魯番賓館では「洪水のため、ツアーは無い」と聞かされていたが、このことだったのだろうか。大型バスだと走りきれないと言うことなのだろうか。この軽バンは余裕で通過だ・・・。

 と思って油断していたのか、車はおもむろにヌカルミにはまった。

 運転手の青年は、車が動かなくなってからもしばらく運転席から離れず、どうしたものかと少し考えていたようだが、「とにかく一度全員降りてみよう」ということになった。見ると、左の後輪が泥に埋まっている。運ちゃん、運転席に戻りアクセルを踏むが、タイヤは空回りをするばかりで前に進まない。「押してみたらどうだろう」とユウコが言う。良い考えだ、と僕は思ったが、同時に、ユウコの積極的な姿勢に少し驚いた。

 しかし、みんなで押したところで車は動かない。板でもかませたらどうか、と考えて周囲を見回すが、ペットボトルぐらいしか落ちていない。砂漠の公路に板きれはない。

 運ちゃんは、通りがかりの車を止めて声をかけるが、彼らとしても如何ともしがたい。ロープでもあればフックにかけて引っ張れるのだが・・・と思うが、装備がない。なんとなく沈滞した空気が漂い始めたところで、大きなクレーン車が通りがかった。運ちゃんの表情が明るくなり、彼はクレーン車に向かって手を振り、止まったところで走り寄る。「女の子走りだね」とユウコが言った。

 大型車のパワーで、難なく軽バンはヌカルミから脱出した。

みなホッとして乗り込み、改めて出発。左手に火焔山を見る。

 

 ツアーの最初のポイントはベゼクリク千仏洞のはずなのだが、火焔山中腹の中途半端なところで軽バンが止まり、運ちゃんが後部席に座る我々に向き直り、「ここで見学だぞ」という顔をする。みな神妙に降りる。ここは千仏洞ではないが、「千仏洞はあちら」という看板があった・・・ような気がする。ところがその順路を行くと、とつぜん子供だましの鬼のような、あうん像のようなものが立ち、なんだか事情のわからないままに1人10元払うと、そこは「火焔山土芸園」なるテーマパークなのであった。これはどうやら日本人のなんとかという人(けっこう著名な方らしいが名前は失念した)が資金を投じて建てたテーマパークで、火焔山と言えば孫悟空、孫悟空と言えば西遊記、というわけで、西遊記をモチーフにした「土像」(一体3m程度の人形)やら、パオ風の建物仕立ての資料館(お勉強用)があるのだが、まさしく子供だましで、そのナントカさんには失礼だが、なんのためにこれを造る気になったのか、出資する気になったのか、神経を疑う出来であることに代わりはない。

 ネルシャツの青年は周囲の山の写真を撮っていた。ふと、彼のそばに白人が1人同行している。その男は、敦煌へ行くバスの中で見た、あの「ジャッキー」の連れなのであった。今日は1人のようだが? それとも、ほかの連れも来ているのかな?

 この「火焔山土芸苑」は火焔山を経由してベセクリク千仏洞へ行く途上にあるので、いわば「強制観光」なのであった。道の先に、目的の観光地のゲートが見える。500mほど先なので歩いていこうとすると、我らが軽バンがやって来て、「乗れ」と言われたわけではないが乗り込む。

ベセクリク千仏洞は、敦煌の莫高窟と同じく石窟が並んでいるところなのだが、残念なことにイスラム勢力による破壊が激しい。もちろんそのほかに、時間の経過による損傷も免れないのだろう。ガラス張りの壁画が目立つ。「本体はホニャララ博物館に保存されています」の看板も目立つ。景色はよい。

あの白人はイタリア人なのではないかと勝手に想像するが、その連れである白人女性もここに来ていた。彼らは4人連れではなかったということなのだろうか。それはともかく、その白人女性は何とも妙な格好をしており・・・サリーを身にまとっていると言うべきか・・・どこか病的にも思えるのだ。少なくとも、ここには場違いの格好であった。

千仏洞の入り口で、ネルシャツの青年は代金を払う代わりに、なにか身分証明書のようなものを見せていた。それを見て、「障害者なのかもね」とユウコが言う。もしかしたら、耳が聞こえないのかもしれない。彼は軽バンのなかで一言も口をきいていない。そして、身分証明書を見せるときも身振りであった。そういえば、さっき白人と一緒にいたときも(遠目であったが)身振りで会話をしていたようだった。

彼は写真に凝っており、たしかキャノンの一眼レフを手にいろいろ写していたが、三脚は、彼自身を撮るために持ってきたのだということがこの千仏洞で判明した。彼はまずアングルを決め、三脚を固定し、ほかの観光客にちょっと遠慮してもらってから自分の立ち位置を決め、タイマーショットを決め、我が身を写す。そのときのポーズが、なかなかキマッテいる。「『ベセクリクと俺』ってとこだね」とユウコが言う。僕は思わず大笑いしてしまった。「『俺』シリーズ」とは、なかなか傑作である。

 

アスターナ古墳へ行く。農地然とした平地に、その観光地はある。たまたま日本人ツアーと鉢合ったのでガイドの話を聞くことができた。平民(農民)のミイラであること、商人のミイラもあること、壁画も当時の生活風景を表していること・・・。ミイラがあること自体は珍しいのだろうが、それだけのところであった。ミイラの説明文には「ヨーロッパ人」とあるが、これは多分アーリア系ということなのだろう。

 

次は高昌故城だ。これは来る前から、ちょっと楽しみにしていた。漢代からの歴史を誇り、三蔵法師も立ち寄った文化の中心。ウイグル王国の都でもあったところである。入り口からメインの城郭までは3kmあるとかで、入場料を払って中に入ると、ロバ車の客引きが待ちかまえている。我々2人をターゲットにしたのか、彼らは日本語で声をかけてくるのであった。僕は彼らの存在自体に気分を害し、ユウコは「高い」と怒り、同行していた女の子2人はさすが中国人らしくさっそく料金交渉に入り、そして青年は・・・すでに歩き出していた。このとき、客引きがなぜ日本語で話しかけてきたのか、僕にとっては謎だが、まあ僕とユウコの会話が日本語であることから、「この5人組は日本人の集まりだ」と判断したのだろう。

僕はハナからロバ車に乗る気がなかったので、ユウコを誘って青年の後を追うように歩き始めたが、客引きが「オーイ、トモダチ」と呼びかける。中国女子との交渉が妥結したらしい。ロバ車に乗る。先をゆく青年も誘って乗せる。

これを機会に自己紹介となり、我々が日本人であることが皆に認知される。

青年は曾華印さん。女の子2人は、彰さんと列さん。

女子2人はウルムチからさらに西に行ったマナス(石河子)の出身。曾君はアモイの出身だが、今は学生で長春の大学に在籍しているのだそうだ。

 故城は全般としてクチャの土壁(亀茲故城:後出)を広大にしたような感じだが、これぐらいあればスケールの大きさを感じさせ、立派な「遺跡」と言える。

 メインの城郭には客引き用のラクダがおり、飼い主の爺さんと共に着飾っている。こころなしか、ラクダもジイサンも、ふてぶてしい面構えであった。

 

 バスの中でも交流が続く。もともと中国語は筆談のほうが都合がよい我々としては、口の利けない曾君とは会話がやりやすかった。

朝の道をふたたび西へ戻ると右手に火焔山が見えるが、今日は曇りで、火焔山も霧にけぶっている。一昨日の燃えるような火焔山を再び見ることができず残念で、僕は「なんだかこないだゴーゴーと燃えて、燃え尽きて灰になったみたいだね」と言うとユウコが笑った。すると、どうしてもこのことを曾君に伝えたくなり、僕はユウコに頼んで書いてもらった。

「前天、火焔山的色彩赤(燃)、但是今天的灰色(燃 )」

すると彼も

「可惜! 現在天気不好」と、残念がった。

 

 そろそろお昼だが・・・と思っていると「葡萄溝」へ到着し、ここで「吃飯」となった。運ちゃんは別行動だが、我々5人はそろって食事へ行く。僕は抓飯、ユウコは拌面。どちらも美味しい。曾君は僕の抓飯に添えられている骨付き羊肉を指して「飯はうまいんだけど、これ(羊)はどうも苦手なんだよね」と身振りで説明してくれた。

 さすがに「葡萄溝」の名の通り、あっちもこっちもブドウ棚ばかりである。食事でも葡萄がサービスで振舞われた。かねてから腹の調子のよくない我々としては、このサービス(生水で洗った生の果物)に抵抗を感じたが、ふと「そうやって拒否しているから腹がおかしくなるのだ」と思い、また曾君らが「おいしいよ!」と勧めることもあって、いくつかつまんでみる。ひとつ食べるとクセになるほどに、ほどよい甘さでうまい。

 しかし、試飲したワインはいまいちであった。「干酒 Dry」とあるのは、ユウコによれば「砂糖無し」のワイン、つまり純米ならぬ純葡萄酒ということらしいが、試飲させてくれるのはどれも「砂糖入り」のものだ。たしか銀川で買った安ワインも妙な甘さがあったが、あれも「砂糖入り」ということになるか。高い「干酒」ワインは輸入仕様なのか英語の表記もある。それによれば、トルファンは中国でもっとも良い葡萄の取れる土地だとか、最良の葡萄で最良のワインだとか、そんなことが書いてある。せっかく葡萄溝に来たのだからと、葡萄100%の干酒を30元までまけて買った。今の我々にとってはこの500円の出費はかなりのゼータクなのである。

 曾君は立ち並ぶ土産物屋を逐一冷やかし、土産ナイフなぞを買っていた。

 

いったんトルファン市街まで戻り、蘇公塔を訪れる。1777年にトルファン郡王スレイマンによって造られた塔は、土レンガのモザイク模様が美しく、この地が中央アジアと一体なのだということを知らされる。非常に大きな塔で、高さ44mあるという。ただ、モザイクに色が無いのが残念である。塔に登って周りを見ると、あっちもこっちも葡萄畑が広がっている。はるか先は砂漠の海だが、この辺りは水が豊かなのだろう。

 

 そして交河故城へ行く。ここは高昌故城とも比較され、どちらも並んでトルファンが誇る2大遺跡といえる。いずれも歴史ファンにはたまらない土地であるが、今となってはくずれた土壁が立ち並ぶのみである。しかしそれでも中国人たちは観光に熱心で、我々のほかにも客は多い。しかも高昌故城と異なり、石畳の遊歩道や、道標が整備されている。

ここでも曾君の『俺シリーズ』には余念がない。我々も体力があればあちこち歩きたいところだが、いいかげん疲れてきた。それはおそらく、体調が万全でないことも一因だろう。暑いせいもある。しかし、どちらかといえば「飽き」もあったのかもしれない。入り口に入って、メインどころをチラリと見て「はいはい、もう沢山」という感じである。地元の一日ツアーに参加するのはこれが初めてだが、少々忙しい気がする。それはガイドがいないからなのかもしれない。ある程度の時間制限はあるだろうが、運ちゃんは我々をせかすことはないし、全員が車に戻ってくればすぐ次の目的地へと走る。途中でお茶を飲んだりすることはない。効率は良いが、せわしない。しかし、それでも同行した若者達は元気に観光して回っている。

僕らは早々と車に戻ろうとするが、その車が見あたらない。所在がないので土産物屋に入る。ここは冷房が効いており、良い休憩場所だ。ソファに座ってひと休み。

 

 というわけで我々はもう沢山なのだが、次はカレーズ。カレーズは「坎児井」と書く。地下水脈のことだが、ここはいわば「カレーズ資料館」とでも言うべきか、その水脈を見ることができる。なんとなればその水を手ですくって飲むこともできる。水脈の見学通路が無ければ、雰囲気は葡萄溝と変わらず、葡萄棚と土産物屋が並ぶ、綺麗なところではある。資料館の地図が興味深かった。新疆の都市は -オアシス都市なのだから考えれば当然だが- みな、地下水脈上に造られており、そしてそれぞれの都市には新旧の水脈が縦横に走っている。ちょっと見たところ、普通の都市における上水道整備図と変わらない。

 僕らはこの地図を見て、なんとなくながらもひとつの納得を得た。僕らは、オアシス都市は砂漠の海に浮かぶ小さな島で、水は非常に貴重なものなのだと思っていた。実際、かつては貴重だったのかもしれない。しかし、街の郊外では道路に並行して用水路 -つまり露出した水脈- があるし、そこには水がふんだんに流れている。畑も森もある。街の中心に行けば噴水がしぶきを飛ばし、公園の芝生にはスプリンクラーが水を撒く。ホテルでは「水は貴重ですから大事に・・・」などという貼り紙はない。水は当たり前のように存在し、そして人は当たり前のように水を使う。むしろ、無駄に使いすぎている。「砂漠のキビシイ生活」という、自ら勝手に抱いた幻想への失望感を感じながらも、なんだか一つ達観してしまった。「ここは漢人の国なのだ」。

 

 18時に吐魯番飯店に帰着。約10時間に及ぶツアーであった。けっきょく運ちゃんの青年は道中、ほとんど口をきくことなく過ごした。彼は車中でつねに、多分お気に入りであろうカセットテープをかけていた。全般にダンスビートだが、これは中国オリジナルなのであろう。漢人の流行なのだろうか。耳に付いてしまった。それはともかく、出発直後に車がヌカルミにはまったときも彼の対応はテキパキしていたし、葡萄溝で曾君がなかなか車に戻ってこないときも「俺が探してくるから君たちは座っていたまえ」みたいなことを言って走って探しに行ったり(このときも「やっぱり女の子走りだ!」とユウコが笑った)、きっちり仕事をする優しい青年であった。彼は飯店の入り口で我々を落とすと早々に去ってしまったが、帰り際、「では、再見」とばかり、ニッコリ微笑んでいった。

我々5人はすっかり仲良くなり、住所交換や記念撮影などをおこなう。曾君はここ吐魯番飯店に泊まっているとのことで、女の子2人は「あとで遊びに来ていい?」と楽しそうだ。我々は高昌賓館へ戻る。

 

パスポートの記述についてフロントの女の子ともめた。僕のビザには「8月11日まで有効。入国後は30日有効」という記述がある。原理として、僕は7月29日に入国したのだから、ビザは8月27日まで有効である。しかし、ビザの条文の前半だけを見ると「8月11日まで有効」ということになり、これではまるで「11日以降は無効」ということになる。これが彼女を混乱させたようで、「あなたのビザは切れているのではないでしょうか」と英語で尋ねてきた。僕は紙に図示して説明するが、彼女は英語がしゃべれるといってもそう得意というわけでもないらしい。そして、僕もつい熱くなって早口でまくしたてたせいか、「分かりません」と困った顔をしている。それでも僕の主張ぶりは理解できたらしく、「あとで公安に確認しますので、問題があったら改めて呼びます」ということで話は済んだ。最終的にはなんの問題もなかった。

 ところで高昌賓館のフロント職員は高校生ぐらいの女の子ばかりで、何か起きたときに対処できるのか気になるところではあったが、昨日、中国人客と料金のことでもめているのを見た。おじさん相手に一歩も引かない。客も顔を赤くして声を荒げても、彼女たちは恐れるどころか、それに負けないぐらいの大声でまくし立てるのだ。たいしたものだ。