7月31日(金) 上海 曇り

 

漕宝路から東へ少し行った右手(南側)に佳華大酒店がある。ここにはドミトリーがある。このほか、浦江飯店という宿にもドミトリーがあるということは、出発前に集めた情報に入っていた。ドミトリーに泊まれば安くあがるのは事実だが、しかしそこまでする必要もないだろう。ちなみに佳華大酒店の2人部屋は(シャワー・トイレ付きの、今と同じ条件だと)同じ値段だった。

 

漕宝路の東、竜華寺見物に行く。以外と距離があり、延々30分ばかり歩く。着く前に疲れてしまった。ここは孫権が建立したとかいう歴史深い寺だ。立派な造りである。

寺の本堂には大きな大仏というか布袋様のような像がある。その正面には「拝み場」のような場所が用意されていて、地元の人々ははじめ立って拝むが、ぶつぶつ唱えると拝んだ手を頭上に上げ、下ろすと同時にひざまずく。「拝み場」は、そのひざまずく辺りに座布団のようなものが敷いてある。よって参拝者が膝を床に打つことはない。

寺の中に食堂がある。お坊さん向けかと思っていたら参拝者もそこで食べたり飲んだりしている。うどんのような料理が人気のようだが、肉が入っている。精進しないでいいのだろうか。

 

漕宝路を地鉄駅に向かうとその左手(南側)には気象局があったりして興味をそそるが、通りに沿った店の並びに1軒、小ぎれいな粥屋があった。ユウコが言うには、「中国人の朝は粥」とのことだ。気になる。しかし、朝飯と言うにはもはや遅い。かといって昼飯という時間でもない。お店の前を通ってみると、朝飯のピーク時はとうに過ぎており、閑散としている。店員も暇そうだ。あるいは朝の営業は終わってしまったのかもしれない。ユウコがおそるおそる店に入って様子をうかがうと、店員の女の子が怪訝な顔をして近づいてきた。ユウコが何か言う。店員が、つっけんどんな調子で答える。ユウコは意気消沈して出てきた。「なんて言われたの?」「分からない」。意志の疎通ができないのだ。残念だが、しかし僕にはどうすることもできない。

ほかに店を探そうと通りを歩くが、適当な店はない。腹が減る。だんだんイライラしてきた。そして、やはりあの店が気になる。朝に通りがかったときは盛況だったはずだ。もう一度行く。店員の娘は「また来た」と、半ばあきれ顔をしている・・・ように見えた。しかしユウコが、今度はメモを見せて話をする。と、表情が変わり、笑顔で「さあどうぞ」と手招きしてくれた。やはり、意志の疎通が不十分だったのだ。

そして、ここの鳥粥は最高においしかった。

 

今日の出発に備え、いったん火車站におもむき、荷物を預けてから、インターネットのため昨日の店に行く。この店はインターネットアクセスとパソコンゲームが売り物らしく、とくにサッカーゲームは少年たちに人気があった。ワールドカップの影響だろう。

インターネットは中国語で「電脳網絡」と言うらしい。ここは「網絡屋」だ。

1時間ほどパソコンをいじり、再び火車站へ向かう。16時に駅に着く。検票口をくぐり、初めて中に入る。

 

火車站は、大きい! なんとまあ、一大ショッピングセンターのようだ。

そして、待合室もでかい! 4つの列車で1つの待合いを共有するようだが、1つの待合いが小学校の体育館ぐらいはある。そして、人も多い。ごった返している。多くの人が大きな荷物を従えている。

待合い入り口の対面、60mほど先に改札口が4つ並んでいる。それぞれの上部に電光板があって、行き先と列車番号が書いてある。改札に向かって椅子が並んでいるが、その間の通路にはすでに行列ができていた。我々の列車の改札はまだ始まっていない。

 

お客の大半は行列に参加しているのだが、座席に座ってのんびりしている人たちもいる。我々としても寝台(硬臥)を確保しているのだから、急いで改札をする必要はない、はずだ。そうは思うが、この行列は気になる。実は「予約」とは名ばかりで、改札抜けたら猛ダッシュ、座席は早い者勝ちになったりして? などと要らぬことを考える。

ところが改札が始まると、この不安は増長された。列があるにもかかわらず、人々は我先にと押し合いへし合いとなる。割り込み・すり抜けも公然とおこなわれる。親は子供をつっかけ、妻は旦那をせかす。隙間があれば人が入る。我々もだんだんいきり立ってきた。改札抜けたら、まさしく、みな猛ダッシュ。我々も熱くなりつつ、だが待てよと思い直した。この人たちは「硬座」の人々なのではないか? そうだ、硬座は自由席なのだとユウコも言っていた。そうだ、そうだ。我々は硬臥だから違うのだ。焦る必要はないと自分に言い聞かせるが、周りにつられて小走りになる。そして我々の寝るべき車両に行くと、列車の中はすったもんだになっていた。車内に乗り込んですぐに理由が分かった。問題は寝台の確保ではなく、荷物棚の確保なのだ。誰も彼も荷物が多い。ザックの大きさなら、我々だって負けていない。通路は積みかけの荷物と人とで交錯している。みな大声を張り上げている。我々の寝台にたどり着くまでもひと苦労だが、やはり荷物棚はほぼ埋まっていた。寝台のハシゴに登り、なんとかユウコのザックを納めたが、僕のザックは上げられそうにない。まあ、仕方がないから通路に置かせてもらおう。と思っていると女列車員がやってきて荷物を指さし、怒鳴る。次いで荷物棚を指さし、また怒鳴る。理由は聞かなくても身振りで分かる。「通路の邪魔だから棚に上げろ!」しかし、上げろったって、どこに上げるのか。ザックを持って寝台のハシゴを再び登りながらつぶやく。しかたがない、このスーツケースを少しよけさせてもらおう・・・と人の荷物をいじると、やはり下からヤジが飛んできた。オヤジが一人、僕に向かって何かわめいている。「わかってるよ、でも仕方ないだろ、おれがわるいんじゃないよ!」僕も怒鳴る。すると、横で見ていた女列車員も怒鳴る。僕は「おまえが上げろっつったんだろが!」と応じる。しかし、オヤジは怒っているのではなかった。彼もはしごを登り、僕が動かそうとしたスーツケース、つまり自分の荷物を動かし、僕のザックを置くスペースを作ってくれた。つまり、彼はこういっていたのだ「おい、俺の荷物を横にするんだ。そうじゃねえ、横にするんだ、縦じゃねえよ、おい、聞いてんのか、横だってんだよ、しょうがねえなあ。」オヤジは立川談志に似ていた。サングラスのせいかもしれない。荷物の悶着は僕たちだけではなく列車中で起きているようだが、入ってしまえば落ち着くのだ。我々の周囲も、一段落すると和んだ空気が流れてきた。

 

列車は定刻通り17:00に発車した。

 

蘇州、無錫と、有名観光地を過ぎる。素通りしてしまうのは惜しい。実際、ユウコはこれらの街の観光を切望していた。時間が許せばそうしたかったが、こういった街を逐一見ていったら、漢中だけで一ヶ月が過ぎてしまう。我々は前に進まなければならない。

「進まねばならぬ」ことはないのだが、しかし「ねばならない」。

ユウコは「できるだけ現地の人に溶け込みたい」と言った。これは旅行者にとって大きな課題だと思う。

通路の席に座っていると、さきのオヤジが声をかけてきた。気のよさそうな人だが、なにを言っているのか僕にはさっぱり分からない。彼の声はしゃがれているせいか、ユウコでもよく分からないらしい。結局我々が「日本から来た」ことを知ると、彼はそれ以上聞かなかった。

 

ほかにも声をかけてくる人がある。とくに我々の魔法瓶が気になるらしく「いくらだい?」なんて聞いてくる。車内の中国人の多くは自分用の水筒を持っており、列車に備え付けの給湯器から熱湯を得て、そしてやはり自分用のお茶を入れ、これを飲む。その水筒というのは・・・ひと昔前はブリキ缶や瓶だったそうだが・・・プラスチック製のもので、みなだいたい同じ形をしている。街中でもよく売られていた。僕の持っているステンレス製のタイガー魔法瓶は、ちょっと珍しいらしい。しかし、いくらだったか。応えることはできなかった。

 

食堂車から弁当の車内販売がある。ご飯と炒め物。うまい。ただ、ビールはぬるかった。ユウコによれば、中国ではビールを冷やさないとのことだ。ぬるいビールはまずい。

「空調代」を払っているはずなのに、エアコンはない。これはいったいどういうことか。窓を全開にして列車は走る。扇風機ががんばっている。あるいはこれが「空調」なのか。

 

**

 

8月1日(土) 車中 晴れ

 

 昨夜は消灯就寝時間になったところで扇風機も止まった。

 多少蒸すが、寝苦しいと言うほどではない。が、列車が止まると風も止まる。そこで目が覚める。

 

 6時起床。ほかの客もおおむね起きている。ユウコは眠っていた。

 洗面所の水が出ないようなので、給湯器の熱湯を昨日飲み干したペットボトルに注ぎ、少し冷ましてからタオルにかけ、それで顔を拭く。歯も磨く。中国人は夜に歯を磨かない。朝一番にはみんなして磨いていた。

 

 湿度が高くなってきた。緑が多い。朝靄の農耕地を走っている。

 昨日の汗のせいでTシャツが塩を吹いている。黒いシャツなので、白い結晶が目立つ。

 

 開封、鄭州を過ぎ、洛陽には11時前に到着。洛陽では冷えたビールを売っていた。

 

 中国人はビニール袋などのゴミを平気で窓から投げ捨てている。いったい、線路沿いのゴミは誰が処理するのだろうか。ここにも環境問題がある。缶でも瓶でも、なんでも捨てる。飲み干したビール瓶を、窓からポイッと投げ捨て、しばらくして遠くで「ガシャーン」と音がする。

 昨日、上海からしばらくは田圃が続いていたが、朝からはトウモロコシ畑が広がっている。

 

 我々は三段寝台の上段にいる。中国語では上輔である。天井に近く、頭が低いために座る姿勢は困難である。着替えをするとなると都合が悪い。しかし、気が向いたときにはいつでも横になることができるし、座ってくつろぎたければ通路の椅子に座ればよい。通路のテーブルは列車員が定期的に掃除にくる。いろんな人が使うから、かえって清潔が保たれている。他方、下段(下輔)は一見便利に見えるが、昼寝するときなどは通路の様子や上の人々が気になるだろうし、座ったり寝たりを同じところでするから、つまり寝るところで飲み食いをするから、結構汚れる。上段は、確かに気温が高い気もするが、風があるので何とかなる。意外と、上段の方が快適かもしれない。

 

 下段の家族がトランプで大貧民をしていた。ルールは大体同じようだが、5と10とKを同時に出すと何か特別なことが起きていた。ジョーカーと同じで、オールマイティにでもなるのだろう。

 

 我々の下は、下段は若い奥さん2人。似ているところを見ると姉妹のようだ。妹と思われる方には2・3歳の小さな子供がある。そして姉の方には小学校低学年ぐらいの男子を連れている。彼らの旦那は別のコンパートメントにいるらしく、たまに行き来がある。そして、中段の1つには談志師匠(に似たオジサン)がいる。もう1つには、中学生になるかならないかの少年がいた。彼は少なからず我々に興味を持っているらしく、ユウコによれば、その少年は談志師匠に我々の素性についていろいろと聞いていたらしい。談志師匠は「こいつら日本人だから、中国語をしゃべれねえんだよ」とかなんとか言っていたようだ。

 

 少年は新聞を読んだりしていたが、今日になってますます我々に興味を覚えたらしく、我々の方にちらちらと視線を向けていた。僕としても、彼には興味があった。言葉が通じれば話しかけてみたい。彼は利発そうであった。彼はほかに母親と姉らしい女の子が別のコンパートメントにいた。彼をきっかけとして、話をする機会が持てるかもしれなかった。

 

 しかし、如何せん僕は中国語ができない。わざわざユウコに頼んで話しかけてもらうというのもためらわれる。そんなことを思いながら昼が過ぎた。

 僕が昼飯のカップラーメンを食べ終え、通路の椅子に腰掛けていると、彼がテーブルの向かいの席に座った。彼は列車に備え付けの「御意見帳」のようなノートを手にしていた。何か書きたいのだろう。しかし文面が思い浮かばないらしく、あれこれと考えたり、姉と話し合ったりしている。

 いままで、この列車の中で写真を撮りたいと思ってはいたが、カメラを出すのはなんとなく勇気が必要であった。それは、最初のどたばたで圧倒されていたということもあるし、わざわざ自分から「私は日本人の観光客です」と宣伝しているようでイヤだった。もっと正直に言えば、彼らの、じろりとにらむ視線がイヤだったのだ。

 しかし、今この目の前の少年は、どうしても写真に撮りたかった。彼は御意見帳に向かって一生懸命だったが、顔を上げた機会に、僕は「写真を撮ってもいい?」と身振りで尋ねた。彼は照れ笑いを見せながらも快諾し、姿勢を正してカメラを見据えた。僕は彼がノートに向かっている様子を撮りたかったので意外だったが、そのまま撮り「謝々」と言った。すると今後は彼が僕に質問してきた。ユウコは上段からおもしろそうに見ている。

 しかし彼になにを言われても、僕には対応できる能力はない。僕はノートに書き、彼に見せた。

 

 「我是日本人。我不会説漢語」

 

 それでも彼は質問をしてくる。ユウコが逐一助けを出してくれるが、僕では対応できないので、彼女に降りてくるよう頼んだ。

 こうして会話が始まった。

 ユウコもはじめは口頭で対応していたが、やはり分からないところもあるらしく、そのうちに筆談になった。

 彼らが我々に尋ねる。「你是留学生嗎?」

「不是。我們在日本工作。我是刅事員(公司)我的大夫 26才」

やがて彼も、母や姉を連れてきて筆談が盛り上がってきた。

 母親は「高恒菜」 ここにはいないが旦那は「張海淋」

 住所は「745100 甘粛省慶陽県長慶油田職工医院」とのことで、旦那がここの医師をしている。そしてお母さん本人は、「蘭州医学院葯学系柴亡副主任葯師」とのことである。電話番号まで教えてくれた。0934-3223911。

 少年は「高c」という。今日は西安で泊まるとのことで、我々も西安で降りると知ると、名所をいろいろと挙げて教えてくれた。

 「兵馬桶 乾稜 半稜 西安歴史博物館 武則天稜」

 ふと、母の高さんがノートにこう書いた。

 

 「在我們影响中日本人很坏南京大屠殺」

 

 僕は言葉を失ってしまった。ユウコもそうらしい。2人で顔を見合わせる。

 こんなとき、なんと答えればよいのだろう。中国に来る以上、この質問は出るかもしれないと思ってはいた。しかし、答えは用意していなかった。いや、質問が出ないことをどこかで願っていたのだ。「あれは悲劇でした」「日本人は悪いことをしました」「中国人がかわいそうだ・・・」。どんな言葉も空々しい。

しかし、夫婦そろって医者ということは中国ではエリートに属するのではなかろうか。そのような人々でも、いまだ「日本」と言えば「南京」なのか。いや、エリートだからこそ、そういう発想ができるのか・・・。

口をぽかんと開けたまま「ぁ・・・」としか出てこない。一瞬、気まずい空気が流れる。そんな我々を不憫に思ったのか、高さんは続けてこう書いた。

「看見你們両人和我們一一是黄皮一定是好人」

(あなた方の皮膚の色は我々と同じ黄色であるので好ましい)

「日本的影星山口百慧」

(日本の映画スター、山口百恵)

 

我々の気が和んだ。

そして高さんは、「あなた方の日本での住所を教えてほしい」と言う。話はこうである。「あなた方は信頼できる人だ。私(高さん)はいずれこの子(高cくん)が大きくなったら日本へ留学させたいと考えている。そのとき、あなた方を頼りにして良いだろうか」

『大きくなったら』とは軽く見て10年ほど先の話で、そんな先の約束をできるような立場ではないが、その言葉は嬉しく響いた。しかし、我々はもはや根無し草であるので、親元(浦和)の住所を教えることにした。

ついでさらに

 

「儿子激情請 你們有机会到我家做客」

(我が子(高cくん)はいつか、あなた方が我々の家を訪れる機会があることを切に望んでいる)

 と言う。これは我々を困惑させた。彼らは先ほど、今日は西安に泊まると言っていた。それが、いまは「うちに来てくれ」と言う。それは先の話なのか、それともこれから一緒に慶陽県まで行こうということなのか、よく分からない。そこで確認をしてみると、やはり今日は西安で泊まるとのことで、「慶陽県に来ることがあれば、ぜひうちに」という意味だったらしい。

 

 ところで彼らは、今日は興慶路の「皇后大酒店」の向かいにある「長慶油田刅事処」というところに泊まるとのことで、我々にも「どこに泊まるのですか? 皇后大酒店に泊まりますか?」と尋ねてくる。「歩き方」によると、皇后大酒店は、星のランクはついていないものの2人部屋は60$からという高級の部類に属するホテルだ。そんな高いホテルに泊まる気は全くないのだが、かといってどこに泊まるかははっきりとは決めていない。「歩き方」を見て手頃なところは2つ3つ目星をつけてはいる。しかし、彼らの泊まるところは日本人も泊まれるのだろうか。地元の人が泊まるのだからきっと安いに違いないと少し期待して聞いてみたが、答えは「(外国人が泊まれるかどうかは)分からない」だった。もっとも、名前から考えて外人向けではないのだろうし、そもそも「ホテル」というよりは「簡易宿泊所」なのかもしれないし、あるいはまさに事務所の部屋を借りて寝泊まりするとか、そういうことなのかもしれない。

 西安に着く直前、高君はふたたび西安の観光名所を話題にあげ、是非行きなさいとばかりにこう書いた。「歴史博物館と大雁塔は同じ通りにありますので、行くのは便利です。バスに乗れば1人1元で行けます。博物館には5番のバスで行けます。」「西安は大都市です。スリには気をつけてください!」

 列車は定刻通り、16時51分に西安に到着した。かなりの客がここで降りる。降り際、談志師匠が少し照れくさそうに笑って僕の方をたたいた。列車はこのまま、さらにひと晩かけて成都に至る。

 

 降りる人に対して改札は狭く、しかも検札をするので、ここでも押し合いになる。列に並びかけたところで学生風の女の子に声をかけられた。いきなり英語で話しかけらところがなんとも寂しいが、どうやら彼女は旅行社のバイトらしい。見ると、検札を出る手前右手に詰め所のような窓口がある。まあ、探しに行くよりはここで見つかれば儲けもんだと思い「安宿はないか」と聞いてみると、駅前の解放飯店なら2人部屋が240元だという。2つ星の宿と考えれば悪くはないが、我々からすれば少し高い。まけてくれと頼むと「180元でいいわ」とあっさり承諾し、電話をかけてくれた。が、周りのスタッフは渋い顔をしている。「無茶だ」というのだ。やはり電話口でもあっさり断られたらしい。そこで、尚徳賓館ではどうかということになった。これも駅前にある。188元ということだ。すでに日も傾いているし、歩いて5分ぐらいだともいうし、我々も疲れている。「とりあえずここに一晩泊まって、明日また、さらに安いところを自力で探そう」とユウコと確認して、女の子に連れられ3人で改札を出る。

 

 西安駅前には大きな広場があるが、その右前方、駅から150mほど離れたところに立派な城壁が見えた。城郭都市、西安。唐の都、長安。京都の手本にもなったという碁盤の目、国際大都。その城壁は、もちろん復元物であることは分かっている。しかし・・・堂々としているようなあ。とっさに知人の言葉が脳裏によぎった。「中国の城郭には三通りあって・・・」。その先は覚えていない。

 

 城壁の、西安駅(火車站)に一番近い門が「尚徳門」で、尚徳賓館は門をくぐって右手に入った、バスターミナルに近いところにあった。フロントでもう少しまからないかと聞いてみると178元になった。部屋は三階。エアコンが入っており、快適である。

 少し暗くなってきたところで夕飯と散歩を兼ね、さっそくに出かける。大通りの解放路へ出て、通り沿いに南へ。20分ほど歩き、2つ目の大きな交差点が東大街で、これを左に曲がったところで圧倒されてしまった。もうかなり暗くなっているが、人と、車と、自転車と、リヤカーと、出店と、長テーブルと、長椅子と、はだか電球と。

 

 広い歩道にはテーブルと椅子が並び、はだか電球がぶら下がる。車道との境に屋台が並ぶ。屋台のそばには車が横付けされる。大通りなので車通りが激しいが、その間を自転車やら、バイクやら、リヤカーやらがすり抜ける。

どこのテーブルにも客は多い。それを目当てにした流しのバンドも多い。胡弓、三味線、ラッパ、歌。写真を撮りたいが、暗いのでどうか。と思ってフラッシュをたいたら、周囲の人が一斉に振り返った。

 

 暗い上に、手書きの中国語では判読するにも時間がかかり、2人して店の前で菜単の看板を見ていると、客引きが声をかけてくる。餃子、包子、麺、飯、鍋、粥、鶏、魚、タニシ、豚。

 ひと通り冷やかしたあと、人気のある包子屋で立ち止まると、すかさず客引きが寄ってきた。座るとすぐに、蒸籠に入った包子と、冷やしたビールが出てきた。うまい!!

 となりの人をまねして粥も同時に頼んだら、黒い粥がでてきた。その名も「黒豆粥」というらしい。杏の実も入っており、甘い。やや失敗ぎみ。

 西安は空気がさらりとしている。