【旅への思い】

199841日。

「行こうか」とユウコが言った。夕飯を食べているときのことだった。

 

僕はこれまでに「長旅に出ようかどうしようか」と悩んだことが2回ある。

 

はじめは1995年の春、就職を目前にしていた3月のことだった。

その前年、1994年の9月に、僕は大学の夏休みを利用して、東欧を1ヶ月間、ひとりで回る旅を経験していた。東欧を選んだ理由は単純であった。「学生のうちに、一度ぐらいはひとりで海外に行ってみよう」と思い立ち、「そこそこに快適な旅行ができ、それでいて日本人旅行者にはマイナーな国々を選ぼう」と考え、出てきた結論が東欧だったのだ。もともとヨーロッパ旅行への憧れはあったのだが、ドイツやオランダなど西欧を旅行した話は、すでに多くの知人から聞いており、二番煎じの感が拭えない。それで、民主化などで当時話題に上がる機会が増えていた、それでいて旅行先としてはマイナーな、東欧諸国を選んだのだ。

特定の国に強い思い入れがあるわけではない。「どうせ行くなら、いろいろ見て回ろう」と思い、まずはドイツのフランクフルトに降り立ち、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、スロバキア、チェコを巡るルートを1ヶ月で回る計画を立てた。日本で予約したのは往復の航空券と第1泊目の宿だけで、あとは移動しながら考え、考えながら移動するという、気ままな旅行であった。

 

いま思い返すと、とくに旅の前半は、分からないことばかりで、不安だらけで、怖くて、とにかくがむしゃらに、街をひとりで駆け抜けたと表現して良いだろう。それでも旅の後半では、経験豊富な旅行者たちに出会えたこともあり、ひとり旅の要領が分かるようになってきた。喜びも、失敗もあったが、旅の楽しみをつかみつつある自分を実感していた。しかし、そんなときに旅は終わる。あるいは人生も、そういうものかもしれない。やっと楽しみが実感できたころには、その楽しみを存分に味わえる年齢ではない自分に気づく。振り返ってみれば、「あのときもっと、ああしていればよかったのになあ」と思うのだが、しかしその時に戻ることはできない。

僕はこの旅を通じて、自分が思っていた以上に長期旅行をする人がこの世に多く存在することを知った。彼らは、ヨーロッパを、アフリカを、中南米を、あるいはアジアを、自由気ままに旅行していた。彼らの豊富な旅行談に触発された僕は、「もっと旅がしたい。こんどはもっとじっくり、アジアもヨーロッパも見て回りたい」という思いとともに日本に帰った。夏も終わろうとする、19949月のことである。

すでに就職先が内定していた。仕事はしたい。しかし旅にも出たい。一年間、就職を延ばすことはできるだろうか。「バカげている」と思われるだろうか。世話になった人事部長は、どんな顔をするだろう。一年後の就職を、約束してくれるだろうか。それより、両親はなんと言うだろうか。驚くだろうか、怒るだろうか、呆れるだろうか。

けっきょく、誰にも相談することができなかった。要するに、第一志望だった就職先の内定を蹴って旅に出たあと、自分がどうなるか不安だったのである。19954月、僕は仕事に就いた。

 

ところで、この旅の道中で、「もう一度この国を見て回りたい」と強く思ったのがルーマニアだった。治安が悪いと言われ、身の回りをつねに警戒しながら首都ブカレストに3日間滞在しただけだったが、陽気なルーマニア人の気質に助けられ、帰国後、思い出すにつけ印象が深くなった。それで、就職してから1年半が過ぎた19969月、遅い夏休みを取ってルーマニアへ行った。約10日間のひとり旅であった。この旅では、大都市でニセ警官に金をだまし取られたり、いっぽう田舎町では若い子たちにアイドルのようにもてはやされたりと、思いも寄らない事件が続き、短い期間にもかかわらず密度の濃いひとときを過ごした。そして僕はこのとき、ある種の歯がゆさをあらためて感じた。時間が限られ、つねに帰り道を考えなければならない。これが窮屈であった。帰りのチケットを持って旅をすることが旅の自由を失っている。僕が求めるのは、もっと自由で気ままな旅だ。時間に拘束されることなく、自分が行きたいと思ったときに、行きたいと思ったところに足を向けたい。そんな旅をしたい。つまり、下火になっていた長期旅行への思いが再燃したのである。

 

思いは日増しに強くなり、思い浮かべる旅程は徐々に具体化されていった。順調に行けば1年ほどで回れる計画を立てた。5月までに出発すれば、自分の思い描いた理想のコースを、理想的な時期にたどれると踏んだ。あとは会社を辞め、荷物をまとめてアパートを出るだけ、というところまで来たこの計画がストップしたのは、ユウコとの出会いである。

ユウコは、20人余りの同期新入社員の1人であった。配属部署は違ったが同期入社ということもあり、他の仲間を交えて仕事帰りに酒を飲んだり、休日に遊びに行ったりする機会は、入社当初からあった。それがこのころ、仕事の相談をしたきっかけで、2人で会うようになった。それから結婚するまで、さして時間はかからなかった。

 

結論として、「結婚か、放浪か」の選択に対して、僕は結婚を選んだのだが、このとき、僕はもうひとつ結論を出した。長期の旅にこだわる必要はない。その代わり、つねに海外への意欲を失わず、年に1回か2回、10日間でも1週間でもいいから、海外に出よう。それをコンスタントに続けられれば、それで良いのではないか。帰りのチケットを持つ窮屈な旅は今後も続くことになるだろうが、これからは2人だ。楽しみも喜びも2倍になる。ユウコは海外旅行の経験がゼロに等しい。だから、まずは自分の行ったことがある場所へ行って、それからいろんなところを旅行できるようになれば、それで良いのではないか。そんなふうに自分を納得させた。

これは実際に実行することができた。新婚旅行では5月にチェコへ行った。同じ年の9月に、ロシア極東を旅行した。それぞれ10日ほどの日程であった。そして、これらの旅行はどちらも充実していた。

 

そんなとき、シルクロードを旅行しようと計画しているという、ある学生のホームページを見た。このころメディアでは、ひとり旅が若者の流行のように取り上げられていたが、ホームページを見る限り、彼の計画は流行に乗せられた生半可なものではなく、やる気と誠意に満ちていた。僕が驚いたのは、その計画の具体性だった。中央アジア各国のビザの取り方、ツアー旅行しかできないと思われている旧ソ連国での自由旅行の仕方、利用価値の高いガイドブックの紹介など、参考となる情報の量が多かった。彼の計画が僕の心を打った極めつけは、旅行ルートにあった。それは、僕が前々から思い描いていたコースとまったく同じ道、すなわち、中国から中央アジアをシルクロード沿いに進み、イラン、トルコへ抜けるというルートであった。

彼はその年、1997年の9月に発ち、翌年3月に帰国した。そして、旅行ルートや旅先でのできごと、現地で撮った写真などを掲載するようになっていた。彼のホームページから得られる情報はますます増え、具体的になっていった。僕は彼から旅の情報を得るべくメールを出し、彼はすぐに返事をくれた。僕は旅の知識が豊富な彼に感心し、そして、僕の旅への欲望は駆り立てられるばかりであった。「いつか俺も、彼に負けない旅を」。そう思っていた。しかし、いつになったらそのときが来るのか?

 

そのようなことを思い悩んでいたとき、妻であるユウコが「行こうか」と言ったのだ。彼女は、長旅に出たいという僕の夢を知っていた。結婚することで、いったんはその夢をあきらめたつもりだったが、隠しきれなかったようだ。彼女も彼女で、僕の夢のことを気にかけていたのだと思う。

 

ユウコの一言で僕の迷いが消えた。我々はさっそく準備を始めた。

 

**

 

「なんのために行くのか」と問う人がいる。

僕には、その問いに対する明確な回答はなかった。何かを見に行くというのでもない。そこに何があるのかを見に行くのだ。これが正解に近いのかもしれない。僕には訪れてみたい国がいくつかあった。きっかけといえば、それがきっかけということになるだろう。どこへ行くにもそれなりに手間と金がかかる。だったらまとめて見に行こうと思った。それで行きたい国を線でつなげてみた。それでルートができあがったのだ。「海外への長旅」と聞くと、なんだか大げさに思われることが多いが、実際は大したことではない。「ちょっと長い海外旅行」というだけのことだ。もちろん、そのための金と時間を用意することは大変かもしれない。しかし、やっていること自体は、1週間程度で行く旅の延長でしかない、と思う。荷物の量でいえば、34日程度の旅行と変わりがないのだ。

 

「どういうルートで行くのか」と問う人がいる。

旅に出るにあたり、チェックポイントとでも表現するべき主要な立ち寄り地点があった。僕にとってのそれは、ウズベキスタン、イラン、ルーマニア、シベリア、そしてラオスである。ユウコにとってのそれはたとえば中国であり、トルコであった。それらをつなげたルートが僕の頭の中には既に存在していた。つまり、夏の中国から始まり、鉄道とバスでシルクロードを西へ向かう。新疆ウイグル自治区から、カザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンといった旧ソ連の中央アジア諸国を通り、イラン、トルコを経て、ヨーロッパに出る。この辺りで冬になる。ブルガリアを経由してルーマニアに至る。クリスマスはルーマニアで過ごし、新年はハンガリーで迎える。その後は北上してポーランドからバルト3国を巡り、ロシアへ向かう。モスクワからシベリア鉄道で東進し、アジアへ戻ってくる。つまり、中露国境の満州里から中国東北部に入境し、ハルピン、北京、さらに南進して雲南省からラオス、タイへと抜ける。この辺りで3月になる。これで僕の夢は概ね実現できた。

 

しかし、このようなルートの全容を、まだ出発もしていない段階で口にすることは僕にはできなかった。僕は自問する。出発してから3日目で荷物をごっそり盗まれたら、どうする? 1週間で病気になったら、どうする? 1ヶ月で、旅を続けるのがイヤになったら、どうする? 日本を離れている間に、身内にもしものことがあったら、どうする?・・・。旅の継続を否定する要素はいくらでも考えることができた。先のことはどうなるかわからないのだ。だから、出発する前はいつもこう答えていた。

 

「まずは上海からスタートし、そして中央アジアをシルクロード沿いに西へ行きます。

イスタンブールまで行けたら、それがひとつのゴールです。

そこから先はそのときに考えます。途中でどうなるか、わかりませんから」。