1026日(月)ケルマン 晴れ

 日本を出発して、今日が90日目になる。

 中国、中央アジアと異なり、イランではなぜかしら「前進する積極性」が、自分たちの内部に強く感じられる。その理由として、ひとつには「行けばなんとかなる」という事実がある。安宿はいっぱいあるし、物価は安いので金回りを気にすることもない。そして、必ず誰かが助けてくれる、という安心感が(悪く言えば甘えが)ある。

 

しかしそれよりも重要なのは、これはユウコの指摘だが、我々が「健康」であることだ。肉体的にも、精神的にも、いままでに比べてはるかに元気である。水もうまい。下痢もない。衛生面に気を使う必要はほとんど無い。人々は優しい。多くの意味で、「見えないストレス」が少ない。

裏を返せば、キルギスタンではよく頑張っていたと思う(キルギスタンでは酒がうまかった。「うまい」と感じることが出来るのは健康な証拠か)。

中国では全般に不健康だったが、長距離移動が続いた日々を思い返すにつけ「よく頑張ったものだ」と言える。とくに敦煌からカシュガルにかけての道のりは、ずいぶんとつらかった。疲れが出ればイライラもするし、やる気も失せる。が、元気である間はなんでも出来るような気になるし、実際にイランでは、頑張ればどうにでもなることが多い。

 

 今日はバムへ向かう。バムまではさほど遠くはないが、バスの時刻が分からない。6時半に起床、7時半にターミナルに着いた。ケルマンのバスターミナルは1つでまとまっているのではなく、通りに面してそれぞれのバス会社がそれぞれに建物とバス乗り場を持ち、それが並んでいる。ひととおり聞いて回っても、バスは10時まで無いという。がっくりするが、まあ仕方がないと思ってチケットを買った。早起きをしたせいか、朝は寒い。

 

 待合いのベンチに座ってひと休み。あらためてチケットを見ると日付が印字されていた。

今日は、“137784日”である。

パスポートのスタンプを確認すると、イランに入国したのは「1377723日」とあった。

 

 「アノー、日本人デスヨネ」。

 

とつぜん日本語で話しかけられた。見上げると、地元の人と思われる男が立っている。

彼のややうしろには、学生風の日本人の男の子が立っていた。20歳ぐらいだろうか。細い身体、くたびれた黒髪、細い黒縁の眼鏡をかけ、薄汚れた白い巾着袋を肩に下げている。学生風の日本人君は、無言である。

話しかけてきた彼が「私はパキスタン人です」という、ひげをたくわえた男が僕の横に座り、さらに横には日本人の男の子が座った。

ひげのオジサンは、日本で出稼ぎに行ったときに日本語を覚えたという、非常に上手な日本語を話す彼の説明によると、いま横に座って茫然自失としている若者は、今朝シーラーズからの夜行バスで、ここケルマンに到着したばかりなのだが、降りてみると自分の荷物がなくなってしまったらしい。

で、たまたま居合わせたパキスタン出身のオジサンが助け船を出したのだそうだが、「バス会社に言っても、取り合ってくれないんだよ。警察の盗難届が必要なんだよね。で、パキスタンの盗難届だったら、僕には知り合いがいるから作るのは簡単だけど、意味無いでしょ? 君、ファルシー(ペルシャ語)出来る?」と僕に聞く。

「いや、・・・」と答える間もなく、彼の話が続く。「僕ももうすぐ、行かなくちゃいけないんだけど、心配で、誰かに託したいんだが・・・、まあいいや。時間とってスイマセン、ドウモ」と、2人、立ち上がって去っていった。

男の子は終始無言で、パキさんが熱のこもった話をする最中にも無造作にタバコをプカプカと吸い出す始末であった。

 

「あれが困っている人の態度かなあ」と、ユウコは憮然としている。しかし、僕は思う。

「自分でも、なにがなんだか分かってないんじゃないのかな。今はあのパキさんに任せるしかないということさ」。僕がそう応えると、彼女も深刻な顔をして、「うーん・・・。たしかに、いま、荷物が突然なくなったら、頭が真っ白になっちゃうよね」と言った。

僕は、マシュハドからヤズドに向かう夜行バスの途上で検問があったのを思い出した。荷物室の荷物が無造作に取り出されチェックを受けていた。薄暗い照明の下での検問だった。僕が心配になって、降りて自分の荷物を確認しようとしたところを、バスの助手に制せられたものだ。

また、どこかで夜中にバスを降りる人があったことも思い出した。荷物室から荷物を取ってその乗客は去ったのだが、そのようなどさくさの中で、荷物が盗まれる、あるいは積み残される可能性は、ある。

 

「つまりは、明日は我が身、ということよ」。僕は自分に対してつぶやいた。だから僕は、彼の不愛想な態度に、同情はしないが、憤慨もしない。

 

 ケルマン発バム行きのバスは10時に出発。バスは砂漠の中を走る。左手(北側)には遠く禿げ山が望まれ、柔らかい稜線が続いている。いっぽうの右手(南側)にはゴツゴツとした岩山がそびえている。火焔山も顔負けの圧倒的な山容だ。砂漠を走る道も、バスも、よく整備され、乗り心地がよい。そのせいか、同じ砂漠の街道であっても、新疆を走っていたときのような「やりきれなさ」を感じることはない。

新疆の砂漠は、まさしく荒涼としており、人を寄せ付けない何かがある。

いっぽう、いまバスが走るルート砂漠は、たしかに荒涼とはしているが、ときおり人家もあるし、雰囲気として「生が存在している」。

こんな思いをユウコに話したら「それも『健康か不健康か』の違いだよ」とあっさり返された。

健康であれば全てが「前向き」、不健康であれば全てが「後ろ向き」。

 

砂漠をどこまでも走っていく・・・と思っていたら、突如としてナツメヤシ園になった。

ここがバムであった。

沿道はナツメヤシに囲まれ、まるで砂漠に浮かぶ緑の島のようだ。市街には午後1時半に到着した。

ところで、バスにはペルシャ語がペラペラのドイツ人青年が1人同乗していた。「英語は話せないの?」と僕が尋ねると、

「イランに3ヶ月もいたから、頭が変わっちまったよ。ヴオー」。我々はペルシャ語もドイツ語も解さないので、彼は英語で説明をしようと試みるが、「頭が変わっちまった」せいで言葉が出てこない。さんざん悩んで「ヴオー」という嘆き声ばかりが出てくる。

その彼がアリ・アミリ・ゲストハウスに行くというのでこれに便乗し、我々も付いていくことにした。バスを降りて以来、地元の子ども達が何人か我々を取り囲んでいる。子ども達はドイツ人を見て、つまり白人を見て「アロー」と無邪気に笑って声をかけてくる。ペルシャ語を話すことの出来る彼は子ども達に「サラーム」と返す。子ども達は突然のペルシャ語に驚いて目を丸くする。しかしドイツ人の彼としては、「アロー」の挨拶は気持ちの良いものではないだろうなと思う。

 

バックパッカーはみなアリ・アミリ・ゲストハウスに泊まると決まっているかの如く、子ども達は「あっちあっち」と我々を先導する。ドイツ人の彼がペルシャ語で質問をしても、うなずいたり笑ったりするばかりで返事が来ない。ただ「あっちだよ」と指さし、歩くばかりである。彼も我々を見て「通じているのかどうかも分からないよ」という苦笑いを見せる。しかし、やはりこのゲストハウスが街の「顔」になっているのか、沿道の家塀に英語で道案内が書かれている。たしかにアリ・アミリに向かっている。そして通りから脇道に入ると、宿の前に大きく英語で「Ali Amir Guest House」とあった。いかにもパックパッカーのための宿という雰囲気である。日本語の案内板もある。

このゲストハウスにはドミトリーもあって、国を問わず安宿として名が知られている。僕はこのような「溜まり場」をいままで避けてきたつもりだが、まあ、たまには良いだろう。2人部屋は130,000、夕食は希望があれば17,000。ドイツ人青年はここの宿帳で知り合いの情報を得るのが目的だったそうで、泊まるかどうかをしばらく悩んでいた。2人部屋があるというので我々はここに泊まる。シャワー・トイレは共同である。フロントでは15歳ほどの小僧が、片言の英語で応対してくれた。主人は夜にならないと現れないらしい。

 

 バムの見どころは、街全体が廃墟となった遺跡アルゲ・バムである。「アジア横断」には「アルゲバムはイラン観光のベスト3に入る」とある。「そうは言っても、けっきょくはただの廃墟じゃーん」と、タカをくくっていたが、実際に見ると、これはすごい。アフガン人の侵攻に伴い、住民が全員、この街を放棄したのは1722年ということで、遺跡としては新しいほうだが、雰囲気は充分にある。

とはいえ、そこかしこで修復作業が進んでおり、廃墟の壁がきれいになっている。そういう部分は、もはや廃墟ではない。この調子で修復が進めば、やがて街は完全体が、「テーマパーク『アルゲ・バム』」となることであろう。

城壁のゲートから250mほど先には、40mほどの高さに小高くそびえる城趾があるが、これも再建物なのだろう。この城へ登ると、アルゲバムが一望できた。夕日を浴びる廃墟は、それでもなかなかムードがあり、観光客の目を楽しませてくれる。アルゲバムの中にはモスクもあるが、これは実際に今でも使用されているようで、モスク前の広場では子どもが遊び、おばさんたちが雑談をしていた。目が合うと、大人も子どもも「アロー、アロー」と声をかけてくる。我々が手を振ると、大人までもが、まるで芸能人にでも出会ったかのようにワッと喜んだ。

 

 宿への帰り道、バスNo.7のオフィスがあるので情報を得る。次の目的地はシーラーズだが直行はなく、ケルマンで乗り換えることになるとのことだ。ケルマン行きは530630830123016005本。12時半の便を予約した。

 

 夕食は「イランの家庭料理が食べられる」という期待から、宿で提供してもらった。宿の向かいの家に招かれ、中庭で食べる。屋外なので少々寒いのが参ったが、野菜煮シチュー(焼きナス、トマト)はなかなか美味しかった。

 

 宿に戻るとフロントにはオヤジがいて、「情報ノート」を見せてくれた。何冊もある。日本人のコメントが多い。

由来、情報ノートとは東に西に行き交うバックパッカー(古くはヒッピー)たちの情報交換手段として用いられていた。アリ・アミリ・ゲストハウスのような、彼らの溜まり場(つまり旅行者の間で有名になった安宿)にはたいてい置いてあるものだ。日本でも、山小屋やユースホステルに「思い出帳」というのがあるが、あれはどちらかといえば「情報ノート」というより「感想をご自由に記帳してください」ノートであり、結果、旅自慢をはじめとする自己満足的な話が多くて僕は好きではない。他方、海外での情報ノートは -とくにアジア横断ルートにおいては- 例えば「あの街のあの宿は危ないから気をつけろ」といった治安情報から、ビザの取り方、国境の越え方、おすすめの食堂、あるいはおすすめでない食堂など、旅行者にとっては有益な情報が満載しているという。

なるほど、たしかにいま見ているノートには、「パキスタンとイランの国境が8月に封鎖された」とか「クエッタからのバスが危ない」とか「トルクメンからマシュハドへの国境バスの話」とか「レバノンのビザの取り方」とか「イラクへの行き方」とか、旅情報として興味ある話も多い。

が、ノートの大半を占めるのは、自分の旅を記した「旅自慢」であり、それに派生した、「旅とは何か」という哲学めいた、つまり自己満足の論述であり、そしてそれに便乗する誹謗中傷であり、読むに耐えない悪口雑言であった。

けっきょくは「思い出帳」なのだ。しかも、その大半は日本語である。

なかには、「このノートに書かれている欧米人の英語は字が汚くて、とても読めたものではない」といった、情報でも何でもない、ただの「感想」が書かれているのには呆れてしまう。

さらに悪いことには、ノートにはこの宿の悪口が日本語で書かれている。もちろん褒め言葉もある。とくに夜の食事に関しては「イランの家庭料理を味わう絶好の機会」と評するもの、「とてもではないが食えたものではない」と評するもの、賛否両論であった。

だが、僕が思う。それをここに書いて何になるのだろうか。

「あまりにヒドイ料理だったので、次の人々も間違って頼まないようにアドバイスしてあげた」のなら親切だが、度が過ぎる。「悪口を書くなら、泊まるな!」という御意見も書かれていた。もっともだと思う。僕はこの言葉に賛成である。ただ、その御意見は、情報ノートには書かないで欲しい。だから、これはもはや「情報ノート」ではない。ユウコは「これは『意見ノート』だ」と評した。僕も同感である。あるいは『感想ノート』でもよい。

「楽しい一夜を過ごすことが出来ました。ありがとうございました」「ここの宿はサイテーだ!」

どちらも、情報ではない。

自分たちが得た情報を、真面目に書いている人たちの努力の結晶は、それこそが「情報ノート」に書かれるべき「情報」であるはずが、残念ながら、置くの「感情」に埋もれてしまっている。ノートを分けるべきであろう。よほど諫言せしめんか、と思うが、書いてしまっては我が身も同類、筆を執らず。

 ・あなたの日本語も、とても読めたものではありません。

 ・ここの日本語を全て英語とペルシャ語に訳したら、どういことになるか、創造したことがありますか?

 ・宿の主が日本語を読めるとしたら、あなた方は同じ事を書けますか?

 

 「だから溜まり場は嫌いなんだ」。敢えて偏見を込めて、僕はそう思っている。

 その「意見ノート」によれば、イスタンブールではMoonlightホテルがおすすめらしい。