113日(水)コシツェ 曇り

 

【コシツェにて一日のんびり過ごす】

 久しぶりにゆっくりの9時起床としたが、しかし、もう少し早起きしてパジャマの洗濯をするべきであったかと少し後悔した。

 

宿の人々や外のトラムは6時から7時にかけてが賑やかで(この時間でもまだ外は暗い)、それを過ぎると、宿の廊下は静かになる。

我々は11時前に部屋を出て、街をぶらぶらと歩き、東スロヴァキア博物館に出かけた。

この博物館の目玉は「コシツェの黄金の財宝(Kosicky Zlaty Poklad)」なる展示である。なんでも1935年に街の再建工事をしていたら広場の中心近くから金銀財宝が掘り出されたらしい。所在者が不明とのこと。

 

地下の金庫室のようなところへ案内されると、そこには2920枚の金貨をはじめとする財宝が畏れ多く展示されている。財宝は大きく、トランシルヴァニア公国時代のもの、ナポレオン時代のもの、その他各地ヨーロッパのものに分けられるそうだが、金貨なぞは同じデザインのコインがガラス戸の向こうで無造作に山盛りになっており、そこに照明が当たってピカピカ光っていて、あまりに数が多くてありがたみが薄い。しかし見応えはある。

 

宝石類のコーナーもあり、こちらもすごいが、さすがにテヘランの宝石博物館にはかなわない。それでもこのコレクションは、誰が集めたか分からないけどたいしたものだ。ダイヤがきらきらと光っている。

 

この博物館の一角は考古学博物館にもなっている。そして、ヨーロッパ・バロックを中心とする絵画のコーナーもある。ここの博物館員のオバチャンの英語ガイドはたぶんにドイツ語なまりだが、「私の娘が名古屋に留学していた」と言うので驚いた。その後、娘さんは大学で働き、今はチェコのプラハにいるのだが、また日本に行きたいと言っているらしい。

「日本にいってしまうと、遠いわネ」とさみしそう。

オバチャン本人もプラハの生まれだが、ブラチスラヴァにも住んでいたという。「プラハは素晴らしい街よ」というので、「そうですね。我々も行ったことがあります。だけど、コシツェも良いですよ」と言うと、嬉しそうに笑った。

 

 博物館の見物というのは、真面目に見て回ると、知らず知らずのうちにけっこう歩いている。くたびれたので、博物館の近くにある老舗のカフェ「Aida」でアイスとカプチーノを楽しみつつ休憩(詳細はユウコ日記参照)。その後は、街の中心通りから一本入った裏道を散歩していると、オヤジ共のたまる立ち飲みワインバーを発見した。日本では高級貴腐ワインと評されるトカイが妙に安いことにひかれて、我々もオジサン達にまじり一杯やってみる。が、やはり安酒であった。

 

 歴史博物館、シナゴーグと歩くが、いずれも閉まっている。シナゴーグは使われていないらしい。なんとなくやることもなくなったので、旅行案内所のインターネットコーナーに座る。知人からのメールに混じって、ブダペスト行きの列車でご一緒し、お世話になったマサさんからもメールが入っていた。が、日本語が文字化けして読めず。無事に帰国したのだろうと推察。返事を書いた。

 

 夕食はTESCOの少し南側へ歩いた、明るい雰囲気のVevericka Grilで取る。メニューのレパートリーは少ないが、出てきたものはおいしい。さしずめFast food Restaurantといったところだ。ひさしぶりにサラダを頼んだら、やっぱりチェコ風サラダが出た(詳細はユウコ日記参照)。

銀行で余ったコルナをドルに再両替する。残ったお金でビール、菓子、シャンプーなど買う。

 

 コシツェは街並みが美しく、しかもかなり広い範囲にわたって整備されているので、飽きない。写真も、撮りだしたらキリがない。ところで、この町には、肌の色の濃い、あきらかに違う民族がいる。あるいはジプシーなのかもしれない。そういえば、レヴォチャにはジプシーのコミュニティがあるというし。しかし、コシツェのジプシーは、他の国々で見たのと違い、周囲の人々と同じく普通の格好をして、普通の生活をしている。というか、少なくともTESCOで買い物しているし、周りから冷たい目で見られていないし、また、そういう風貌でもない。見た感じ、スロヴァキア人と共存しているようである。

 

 明日は移動日。スロヴァキアの日々は静かに終わった。払暁、宿を発ち、目指すはポーランド、クラクフである。

 

 (ポーランド編に続く)