1123日(月)ギョレメ 快晴

 

 日本では連休だ。

カッパドキアの滞在中は非常に天気が良く、気持ちの良い日々を送れたが、つい先日までは雨が降っていたとのことだ。幸運としか言いようがない。

 

【コンヤへ出発。その前に、懐かしい顔立ちを見る】

 6時半に起床し、朝食をとる。テレビでは相変わらずイタリアへの抗議デモの話題が多く、ついに不買運動が広がり始め、イタリア製の商品が街頭で焼かれ、ベネトンなどのイタリアショップは閉店。この3日間で、15トリリオンリラ(≒60億円)の損害をイタリアに与えたらしい。ヴェッケルさんがテレビを見て「すべてアポ(のせい)だ。奴がモスクワからローマに来てからおかしくなっちまった」と苦々しげに言う。

 

 そのままテレビを見ていると、次にカザフスタンに関するニュースが流れた。トルコとの交流団に関する報道のようだが、久しぶりにカザフスタン人の顔を見る。アリ君の親父さんが「日本人とトルコ人とカザフ人は親戚だ。みんな、似ている」と微笑む。僕は、しかし、トルコ人とカザフ人が「意外と似ていない」と、このとき思ったのだ。

これまではカザフからキルギス、ウズベクときて、イランを挟んでトルコに入ったとき、「さすがに同系だけあって、トルコ人は中央アジアの人々と似ているなあ」と感じていたのだが、画面に映るカザフ人は、トルコ人よりも頬がふっくらと丸く、顔が大きい。目が細く、キレが長い。ちょっと雰囲気が違う。しかし、それがカザフ人なのだ。アリ君の親父が言う。「トルコ人にはアナトリアの血が入り、カザフ人や日本人には中国の血が入った」。そう言われて考えると、「カザフ人にはモンゴルの血が入っているんだな」という自分なりの結論になった。

 

ヴェッケルさんにパムッカレ、セルチュク、イスタンブールのオススメホテル名を教えてもらい、チェックアウトして8時にオトガルへ行く。バスは順調に走って11時半にコンヤに着いた。直前、ユウコは急に腹具合がおかしくなったらしく、降りたそばから駆けていった。

荷物番をしていると、ホテル・サライのカードを持った客引きが近づいてきた。オフシーズンなので、「11000エンで良い」と言う。さすがに中級ホテルだけあって値段も良い。泊まる気はないので適当にあしらい、ユウコの戻りを待って早速トラムに乗り市街地へ出る。安そうなホテルを2,3見て回るが、ホテル・ネットはシャワートイレ付き、部屋は狭いが清潔である。本来は2人で7,000,000のところ、オフシーズンなので4,000,000で良いという。直前に見た宿はトイレ・シャワー共同で同じ値段だったので、ここに決めた。

 

【とくに目新しいものが少ない静かな都会が、かえって我々には新鮮】

コンヤという地名は世界史で習ったきりだが、僕には意味もなく気になっていた地名の一つであった。

 

 コンヤの街は「静かな都会」といった感じで、別段ツーリスティックでもなく、異国情緒漂うわけでもないのだが、こういう都市に来るのは久しぶりだ。かえって我々の目には真新しいものに見え、なんだか嬉しい。街には市電トラムが走り、ドルムシュとバスが行き交い、大通りにはビルが建ち並ぶ。裏通りのバザールは賑わっている。ここには生活がある。トラブゾンとはひと味違った「都会の喜び」を感じる。

 

それでも街には観光の見どころがいくつかある。コンヤはかつて、セルジュクトルコ時代の首都であり、芸術の文化の中心地であったことから、当時の建築物が遺跡としていくつも残されている。日本人ツアーもあるし、バザールには日本語使いもいる。また、カメラを手にしたトルコ人の観光客も多い。最大の見どころは旋舞教団、イスラム神秘主義の一派であるメヴラーナ教団の創始者ルーミーの霊廟があるメヴラーナ博物館である。

 

【メヴラーナ教団とメヴラーナ博物館】

メヴラーナ博物館の霊廟には創始者のほか、何人もの偉人が眠っており、厳粛なムードが漂っていた。創始者ルーミー本人の廟も金に彩られ美しいが、ここに展示されているコーランのミニアチュア(挿し絵)が素晴らしく、目を見張る。ミニアチュアの本場がどこなのかは知らないが、いま目の前にするコーランの挿し絵は、ペルシアで見てきたものよりレベルが高いのではないかと思う。

また、カラタイ神学校に展示されている陶器は、画調がテヘランで見たものとよく似ていた。ここに展示されている陶器はほとんどが13世紀、ルムセルジュク時代のものだが、人の顔を見る限り、あのテヘランで見たのと同じく、妙に東洋調なのである。「これは中国製です」と言われても、信用できる。

おまけに、挿し絵の中には人面鳥やら人面獣がいる。さらに、インジェミナーレ神学校での展示物には、石で彫られた動物、双頭の鷲、さらには人物のレリーフまである。「イスラム教なのに???」

まあ、セルジュクはかつては仏教徒だったというし、土着の信仰もあるだろうし、ビザンチンやギリシアの影響もあるし、ペルシア芸術の流れもあるし、なんでもいいのかね。けっこう適当な時代もあったんだろうと勝手に納得した。

インジェミナーレ神学校の建築様式はセルジュク時代の代表というが、これがまたブハラやヒワで見た建築物とよく似ている。彼の地の建築物は早くても1617世紀のものだ。つまり、文化の浸透に34世紀かかったことになる。そしてブハラ、ヒワが栄えた頃、トルコではオスマン朝が隆盛を誇っていた。そうそう、ルーミーさんはもとはバルフの生まれで、そこからメルヴやタブリーズを経てコンヤにやって来たらしい。

こういう話を聞くと、「地続きの国々の歴史はなんと壮大なことか」と改めて感じる。国境とはいったい何なのだろうか。

 

【そしてすぐに移動】

夜、市街のバス会社でパムッカレ行きを尋ねると、どれも夜行である。

「宿を決めずに、今日の夜行で移動しても良かったかな」と僕。

「観光は今日1日で終わってしまったから、明日はやることがないね」とユウコ。

「しかし、ここで1日無駄にするのはシャクだよね」

ということで、やはり朝出たい。オトガルまで足を伸ばすと、朝7時半発のチケットが簡単に手に入った。

 

夕食。「ピデのチーズがクサイ」と言って、ユウコはあまり食べなかった。