1129日(日)イスタンブール 霧雨の1

 

124日目、旅の新章の始まり】

日本を発って4ヶ月が過ぎた。

我々の旅はイスタンブールで終わるわけではない。

イスタンブールは、それまで我々が通り過ぎた街、例えば西安、敦煌、カシュガル、サマルカンド、イスファハンなどと同じく、旅の途上における通過点の1つにすぎない・・・はずだった。イスタンブールの先にも、同じような通過点が続いており、旅のルートはそれらの点を線でつなぐことで出来上がっている・・・はずだった。そもそもの目的からしても、イスタンブールで旅が終わるのでは断じて無いのだ。むしろ「ルーマニアのマラムレシュでクリスマスを過ごす」ことのほうが、旅の意義としては大きい・・・はずだった。

 

しかし実際のところ、イスタンブールという街には我々の予想を超える重みがあった。いや、いつの間にか重みがついてきたというべきだろうか・・・。

「まずはイスタンブールまで」。

日本を発つ前、僕は友人に旅の話をするたびにこう言い続けてきた。当初はただの通過点のつもりが、人と話をするうちに、自己暗示がかかったかの如く、イスタンブールという「点」の位置づけが変化したとでも言うべきだろうか。自分たちの頭脳に、いつのまにか「イスタンブールという1つのゴール」というキーワードが焼き付けられてしまったのかもしれない。

 

 僕は「行ってそれでおしまい」という旅ではなく「行って戻ってくる」ところまで旅にしたかった。そう考えると、我々の旅は、「イスタンブールまで行く旅」と「イスタンブールから帰る旅」という、大きな2つの流れがあることになる。そして、「まずは行く旅を実現し、先のことはそれから考えよう」という意識があったことにあらためて気づかされる。いま、僕のザックには日本からイスタンブールまでを旅するためのガイドや会話集がひととおりそろっているが、それ以降の旅の資料はいっさい入っていない。それらは「イスタンブールで」手に入れる計画だったからだ。このこと一つをとって考えてみても、自分の意識の中には出発前から「イスタンブールまで」と「イスタンブールから」という、明らかな仕切りができていたことになる。

 

実際、イスタンブールという街は区切りが良いのである。なぜなら、

・シルクロードは、ローマまで続く。しかし、我々はローマには行かない。

(イスタンブールまでの旅は「シルクロードを沿う旅」そのものだった)

・ここまではアジアである。しかし、ここからはヨーロッパに入る。

  (イスタンブールまでの旅は「アジア横断」そのものだった)

 

 いま、我々2人は「イスタンブールまでの旅」という、いわば旅の前半、第1章を実現させた、ともいえる。そして、「イスタンブールからの旅」という、旅の後半、第2章が新たに始まる。

1章は「シルクロードの旅」であり「アジア横断」であった。第2章に意義を求めるとすれば、それはなにか?

「ヨーロッパから帰ってくること」。これに尽きるのではなかろうか。

 かつて、日本人がヨーロッパへ行くためのほぼ唯一の手段としてシベリア鉄道が位置づけられていた時代があった。僕は、シベリア鉄道に乗って、日本に、より正確にはアジアに、帰りたい。

しかし、そこには立ちはだかる大きな敵がいる。「冬将軍」である。

 

【イスタンブール散策の一日】

 ハネダンは5階建てで、我々の部屋は3階。最上階は食堂になっている。食堂からはマルマラ海が一望でき、眺めはよいが、あいにく天気は悪い。

朝食後、スルタンアフメト広場にあるツーリストオフィスを訪れ、市街図をもらい、メヴラーナ博物館の上映時間を確認した。オフィスを出たところで、アニ遺跡を一緒に回ったY君とバッタリ出会った。彼はMoonlight Pensionに泊まっているという。

「バーテンさんが泊まってませんか?」

「バーテンさん? あぁ、背の高い。いますよ。なんか、お二人と10回ぐらい会ったらしいですね。『運命の人だ』って言ってましたよ」。

 

 ブルーモスクを見物し、そしてアヤソフィアへ。ここのモザイクは素晴らしいの一言に尽きる。イスラム寺院の礼拝堂ミフラーブの上にマリア様の壁画が、照明に照らされ浮かび上がる。奇妙な眺めだ。内部に掲げられた大きなメダリオンにはコーランの一節を書いたアラビア文字が金文字で描かれているが、イランに行って文字を覚えたおかげで「アッラー」「ムハンマド」「メヴラーナ」ぐらいは読みとることができ、嬉しい。

その後、海上ドルムシュで海を渡り、メヴラーナ博物館に行く。チケットはかなり高いが、なかなか見られる機会もないと思い、買う。上演は午後3時とのことで、まだ時間がある。そこでタキシムの目抜き通りイスティクラルを呑気に走る、かわいらしい古風なチンチン電車に乗って街を冷やかし、終点まで乗って同じ道を歩いて戻る。翌年の1999年はトルコ建国75周年に当たるとのことで、繁華街の各所には垂れ幕が下がっている。イスティクラルはおしゃれな高級店が建ち並び、往来する人々もおしゃれだ。ウィンドウショッピングを楽しむ。カバン、スーツなど、わりと安い。旅行者の間では「物価が高い」と言われるイスタンブールだが、日本よりはやっぱり安いヨ。

横道に入ると盛況なバザールがあった。魚がうまそうに並んでいる。バザールには焼き栗の出店があった。イスタンブールの焼き栗は「歩き方」にも出ている名物らしく、ユウコが「買おう買おう」と言うので買ってみた。

 

 メヴラーナ博物館に戻るとすでに開場していた。中央に円形の舞台がある。それを取り囲むように座席が並ぶ。座席と舞台には段差がない。満席になった。舞台の片隅に音楽団が陣取り、2階のバルコニーにはコーラス隊が並ぶ。なんとも不思議な音楽と、なんとも不思議な舞踏である。というか、旋回舞踏そのものは宗教的儀式なのだから、そもそもこうして他人に見せること自体、妙な話ではある。が、それは気にしない。それぞれの「修行者」が、途中儀礼などを交えつつ、一つところで両手を広げ、くるくると回り始める。僕は狂ったようにウワーッと回るのかと思っていたが、そうではなくて、わりと淡々と回っている(それでも別の意味で狂っているよ)。いつの間にか始まり、気がつけばくるくると回っており、そして静かに終わった。それにしても、フラッシュ撮影禁止と言われているのに平気でフラッシュをたく無礼な見物人には、関係者でない僕でも腹が立つ。オートフラッシュで思わぬことになったということもあり得るが、もっと注意を払うべきだ。

 

 ふたたび海上ドルムシュに乗り、エミノニュに戻る。

 

 フィルムを現像した。今回は36枚撮りで11本。さすがに多く、金もかかった。写真の出来は、良いものも悪いものもある。

 

 シルケジのトラムの通りに面したところに、中華料理を発見した。久しぶりに中華も良いかと入ってみる。店は閑散としている。値段はやはり高めだが、我々はチャーハンとラーメンが食べられればそれでよい。ラーメンは、期待したとおりというか、やっぱりというか、中国風であり、日本のラーメンを想像して頼んだらガックリするような代物だが、我々は気にしない。しかし、チャーハンは、日本の大衆食堂で出てくるチャーハンそのものであった。どちらも「懐かしい」というより、食べた瞬間、「舌が帰ってきた」感覚になる。ダシがよく効いている。醤油とラー油が卓上にあれば涙が出るところだ。