中央アジア9(No.29) 乗り合いタクシーに詰め込まれて〜ビシュケク3

【ビシュケクだけど「オシ」バザール】

ビシュケクにはオシバザールという大きな市場がある。活気のある市場の様子に久々に感動する。実りの秋らしく、プルーン・ブルーベリー・ラズベリーなどの色鮮やかな果物が沢山売られていて、とてもおいしそう。朝鮮系の女性達がキムチを売っている。試食させてくれ、おいしい。キムチといっても辛くなくて、酸っぱいサラダ風である。魚も湖でとれるのだろうか。干物にされて売られている。野菜の赤・緑・黄色が美しい。私たちはメロン・パン・缶詰・トイレットペーパーを購入する。安い。メロン121円(3スム)。玉葱・ジャガイモ・トマトそれぞれ1キロ105円(1.5スム)〜。パン1つ17.5円(2.5スム)。ソーセージ・チーズは割高で150円(20スム)〜。野菜は特に安い。夕食はガイドブックで紹介されていた、カフェテリアでとる。ペリメーニがあって喜んで頼むが、具の肉が羊で大失敗。そのうえ、スープ仕立てのペリメーニの上に、変なクリームみたいなのをかけるので、気持ち悪い。マサトにあげてみたが、彼もあまり箸が進まず、中心街に戻ってホットドッグとハンバーガーを食べなおした。庶民にはマントウが人気だが、これも具が羊で臭いのではないかと気になって、私は食べられない。好き嫌いを言っていてはいけないと、わかっているのだけど・・・。

そういえばアルマトイでバーバが「キルギスのコニャックはおいしいわよ」といっていたのを思い出し、1本買ってみる。これが本当においしい!!2人でコニャックのボトル1本を一晩であけてしまい、酔っ払ってテレビに合わせて、部屋で踊り狂う。すっかり酔っ払ってしまった。

設備のよいビジネスセンターだが、唯一の難点は虫(それもゴキブリ)が多いことだ。トイレや風呂には常に必ず2〜3匹生息している。時には死んでいるものに会うこともある。ツインではなく、LUXなら多少ゴキも少ないかと思っていたら、同じであった。朝目覚めるとなんとシーツの中でゴキが天寿を全うしているのが発見された。高校生の時に日本史の先生が話していた、「ゴキは人間のかさぶたさえも食べる」という話を思い出して、げんなりした気持ちになった。しかし、カシュガルやタシュクルガン、そして昨日のサナトリウムのベッドに比べたら、まだまだましな方である。そう思って自分を元気づける。

ビシュケクは官庁近くの街路樹にしいの木が植えられており、ドングリがたくさん歩道に落ちている。木を注意深く見ると、リスが駆け回っているのを見かけることができる。首都なのにこの緑の豊かさ!近くに山も川もある。金銭的に貧しいという問題はあるのかもしれない。しかしコンクリートジャングルの東京と、豊かさという点ではどちらが豊かだろうか?

 

【オシュへの旅】

翌日はイラン大使館へ行ってみた。サムにまた会えた!サムは30ドル、エレーナは60ドルでイランのトランジットビザがとれたという。私たちは150ドルとのこと。どこの国の国民かによって値段が違うのだ。ビザにだいぶお金を払ったので、そろそろ銀行でお金をおろさなければならない。カードが使える銀行を探して、街を右へ、左へ。なかなかVISAMASTERが使える銀行がない。親切な町の人に教えてもらった銀行で、やっとVISAカードが使えた。

キルギスコンセプトへE-mailしにいくが、インターネットはない。大学に行ってみる。遅いマシンしか使わせてもらえず、Unixのメーラーのアドレスをもらって、メールを出すだけ出した。

今晩はオシュへ向かう。ビシュケク駅前にはタクシーの溜まり場があり、ミニバスよりももっと小規模な、いわば乗り合いタクシーでオシュへの客を集めている。ガイドブックにもあるとおり、この乗り合いタクシーで行くか、飛行機で行くかしか、ビシュケクからオシュへの交通手段はない。私たちは乗り合いタクシーの中で、キルギス語・ロシア語の他、ドイツ語、英語も少し話せるインテリ運転手(航空部後輩のA君に似た男前)のジープで行くことにした。今すぐ出発するのではなく、「18時にビジネスセンターへ迎えに行く」とのことで、荷造りして待つ。ジープがやってきて、私は目を疑った。もう、ジープに人が乗る場所がほとんどないのだ。助手席には中年の男性、後ろには12才位の少女とその父親と思われる男性が既に乗っており、私か暢どちらか1人が乗り込むともう満員である。インテリ氏は「このお嬢さんとあなたは小さいから2人で1人分だ」などとむちゃくちゃなことを言う。それなら、料金も半額にしてもらいたいものだ。しかし、値切ることはできなかった。出発すると、ある民家で助手席に乗っていた中年男性がおりた。どうしたのかと思っていると、中年男性の家から家族と旅支度を調えた少年が出てきた。中年男性は、旅をする少年がいる自分の家に案内するために、助手席に座っていたらしい。少女の父親が助手席へ移ったので、少年がその空いた場所に乗り込むのかと思ったら、インテリ氏は荷物室をあけ、そこに少年を詰め込んだ。既に荷物室にはビニールシートが山ほど積まれている。しかもよく見ると、その荷物室には、既にもう一人、少年の先客があった。荷物であるビニールシートの山にうもれるように、小学校低学年くらいの少年がうずくまっている。どうも、私の隣に座っている少女の弟らしい。インテリ氏が「ここで料金を払ってくれ」というので、マサトが800スム支払うと、中年男性とその家族は札束に目を見開いた。「なんでこんなにお金がとれるんだ?」といった雰囲気。インテリ氏が「外国人だからだよ」というようなことを言っているように見える。やっぱり私たちは料金を払いすぎなのではないだろうか。ともあれ、最初より少し座席に余裕ができた。安心していたのもつかの間、インテリ氏は駅に戻ると、再び客引きをはじめる。赤ん坊をつれたウイグル人の若い男性が客になった。赤ん坊連れなので、後ろの座席ではきつすぎる。結局少女の父親が助手席をゆずり、ビジネスセンターを出発したときとおなじ窮屈な状態でジープはビシュケクを出発した。しばらく走って、インテリ氏が「Dinner!」という。停車したのはラグメンの店だ。具が羊肉だといやなので、警戒して1皿だけ取り、マサトと分ける。意外にも牛肉をつかっていて、とてもおいしい。ラグメンというと、緑の野菜はおもにピーマンか青とうがらしを使っているのだが、ここのラグメンではニラをつかっていた。そんなに辛くないので、食べやすい。これなら2皿とってもよかったか・・・。インテリ氏は「This is Chinese dish.ここで『小さな中国』を作っているのだ」という。いわゆるDungunだ。ガイドブックにはDungunの説明として、1880年代に中国からキルギスへと、弾圧をさけて移住した中国の回族とある。回族の小さな「中華街」といったところなのだろう。店で私がトイレを借りようとして、何処ですかと聞くと、外にあるという。外の離れがトイレのようだが、明かりがなく、どこがトイレの穴なのかわからない。困ってうろうろしていると、車内で隣に座っていた少女が私のあとからついてきた。彼女は何の迷いもなく、トイレの入り口で服を脱ぎ、さっさと用をたす。もちろん、ただのコンクリートの床の上に、だ。驚いてみていたが、奥に入って穴に落ちたら嫌だし、こんな調子でみんなトイレをするのだったら、どこに落とし物があるかしれたものではないので、迷った挙げ句、彼女に習うことにした。食事も済んで、さあ、オシュへと思っていると、ジープのエンジンが少しおかしくなった。小さな自動車修理工場についたが、直すのにけっこう長く時間がかかる。車内に座っているのもつらいので、外でぼんやり立っていると、少女がひまわりの種を分けてくれた。私たちが先ほど11皿のラグメンを食べず、2人で分け合っていたので、気の毒に思ったのだろうか。さらに、「アタベク」と名乗る、赤ん坊を連れたウイグル人の男性は、よっぱらって気が大きくなっているようで、私たちにボンボンを1本買ってくれた。「妻がビシュケクで踊り子をやっているんだ」出稼ぎに来ている奥さんに会ってきたという訳か・・・。御礼にと皆さんに日本から持ってきた絵はがきを渡す。少女は御礼の御礼にこんどはりんごをくれた。形は小さいが、とてもおいしいリンゴであった。2時間程たっただろうか。修理がなんとか終わって、オシュを目指してジープは走る。ビシュケクから直行の長距離バスがないのは、ビシュケク−オシュ間に、けわしい峠があるせいだ。乗り合いタクシーは小回りがきくので、真夜中にその峠を越えてしまう。

狭いジープにすし詰め状態になっている上、舗装もされていない、振動の激しい道を、「いろは坂」の数倍くねくねしながらいったりきたりしているので、窓のない荷物室に押し込められている少女の弟は、とつぜん姉の肩にげろげろとさきほどのラグメンを吐きはじめた。つられて少女も気分が悪くなったようで、ふたりしてげろげろとやっている。もちろんエチケット袋などというものはない。車内にすえた臭いが漂う。隣にいたわたしにもげろがかかってしまったが、「ごめんなさい」と目で訴えられると、2人が気の毒で怒る気にもなれない。「いいのよ。」通じないだろうが、私もにっこりと目で答えた。インテリ氏もさすがに見かねたらしく、途中の道ばたで休憩をとる。外に出ると、山だけあってとても寒い!しかし、空には雲一つなく、星々が地上より数段近いところでまたたいている。「星が降ってくる」というのはまさしくこのような夜空のことをいうのだろう・・・。その後、再び走り、山越えが一段落したころ、インテリ氏も仮眠をとった。エンジンが止まってしまったジープ、これが寒い!マサトは耐えきれず「毛布を貸してくれ」とインテリ氏に頼んだ。ドア側に座っていたマサトの足元には、すきま風がぴゅーぴゅーと入ってくるのだ。ひどい寒さだったが、疲労からだろうか、それでもしばらく眠ることができ、朝が来た。日が出てくるとわりと暖かい。街道(といっても、もちろんどこまでも舗装もされていない)の食堂で朝食をとる。朝食といっても、夕食と変わらず、カバブ・スープ・ラグメンなどのメニューしかない。もちろん、羊肉である。わたしは食べない。テーブルの上にはおかわり自由のパンがおいてあるが、いつからおいてあるのだろう、蠅どもがまわりでぶんぶんうなっている。マサトは、アタベク氏の誘いを断りきれず、2人で朝からウォッカを1本あけてしまった。大丈夫だろうか。そろそろ出発とのことで、トイレに行こうとするが、トイレらしきものはない。みな、街道の下(崖になっている)にある、ひまわり畑で用を足している。足下を注意しないと、トイレットペーパーや、ブツをふんでしまう。他に手段もないので、そこで仕方なく用をたす。ところで、私がトイレに行こうとすると、少女が必ずついてくる。そして私が用を足し終わるのをまっている。気遣ってくれているのだ。このジープの乗客はとてもフレンドリーである。異常に狭い車中にかかわらず、エンジンの不調の際も、男性はみな手助けをし、少年達は荷物室の荷崩れに気を使い、少女は食べ物を分け与え・・・。ウイグル人はみな親切なのだろうか。アタベク親子はジャラル・アバッドで降りた。「家に寄って行け」としきりに皆を誘うが、皆先を急いでいる。というより、ジープの過酷な旅を早く終えたいのかもしれないが・・・。皆が乗り気でないのがわかると、アタベク氏は、家の前で「ちょっと待っていてくれ」といって、中に入っていったかと思うと、山盛りのブドウとナンを持って出てきて言った。「みんなで食べてくれ。」ブドウが限りなく甘い。朝ご飯を抜いた私にはこのうえないごちそうであった。少女達の家族はウズゲンの町で降りた。この街では、ウイグル人・ウズベク人が目立つ。少女ははにかみながら、去りゆく私たちに手を振った。やっとオシュに着くと、インテリ氏は残った少年と共に、私たちを町の中心で下ろしたかったようだが、ホテルが決まっていないことを聞いて、ホテル探しにつき合ってくれた。23軒まわったが、適当なところが無く、お湯は出ないが清潔な、ホテルアラルで妥協することにした。料金は払いすぎたのかもしれないが、道中が過酷であったかもしれないが、この運転手と乗客に会え、オシュに無事到着したことに一種の清々しさを感じた。

荷物を置いたあと、ホテルアラルの向かいにあるレストランで、鶏のモモを天火で焼いたタバカを食べた。鶏肉はとてもおいしい。あとは、もう疲れ切って何もする気にならず、冷たい水シャワーをがまんしながら浴びて、汚れた上着を洗濯し、ひたすら寝てしまった。

 

(つづく)