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11:哈密〜李平事件〜

次の目的地はトルファンだ。これで甘粛省を抜け、いよいよ新疆ウイグル自治区に入る。敦煌からトルファンまでは800キロ、2日ほどバスで走り続けることになる。寝台バスにしても、2日間ずっとバスに乗り続けるのはつらいので、直接トルファンまで行かず、途中の哈密(ハミ)というオアシス都市で一泊することにした。6時半に起きて、敦煌のバスターミナルへ向かう。今日の朝ご飯の主役は梨だ。甘粛省から新疆ウイグル自治区にかけては、梨・桃・ハミ瓜・葡萄など果物がたくさん取れる。果汁100%のジュースがビールと同じ値段、という中国において、ビタミンの補給には果物そのものの方が安いし、効率的だ。梨は小ぶりだが17円ほどで、甘くて味も良い。

 

車内で外国人名簿への登録を終えて、バスは8時に出発した。今日は定刻の出発だ。バスはまず柳園という町を目指して走る。敦煌郊外は緑が多い。30分ほどは美しいポプラ並木の中を走った。ポプラの間から草原が見え、羊や山羊がのんびりと草をはんでいる。ポプラは自生しているのかもしれないが、基本的に街路樹として植樹されているようだ。ところどころ、その植樹された背の低いポプラが見える。その後車窓はステップになった。紫色の花を持つ、茶色い棘だらけの草が群生している。柳園に到着すると、昼食休憩および給油・タイヤ交換をして、いよいよハミへと向かった。車窓は日本人にはますます見慣れない風景となってきた。近くに見える山は、山といっても木が一本も生えていない禿げ山で、赤、黒、緑に山肌が光っている。そうかと思うと、果てしなく砂漠が広がり、その遠くに万年雪をたたえた雄大な山脈が見える。砂漠というと、これまでサハラ砂漠や鳥取砂丘のような、黄色いさらさらとした砂がつづく土地を思い浮かべていたが、この砂漠は赤土に岩と砂利がひろがっている、という印象だ。そして、空が低い。砂漠では障害物がないので、空が低く感じるのだろうか・・・と思っていると、にわか雨が降ってきた。砂漠の年間数十ミリしか降らないであろう雨が、今このときに降っているのか、と思うと感慨深い。

 

途中までは順調なハミへの旅であったが、突然道路が工事中になり、悪路を1時間半、夕刻になってやっとハミに到着した。ウイグル族の伝統的模様である「ウイグル矢絣」の衣装を身につけた女性をみかける。新疆ウイグル自治区に入ったのだ。

 

今日はバスターミナルから最も近い、中銀賓館に泊まることにした。チェックインしようと中に入ると、明らかに日本人と思われる青年2人が、フロントの前で困っている。一緒にチェックインの手続きをして、隣の部屋になった。それは良いのだが、宿泊費が思っていたよりも安い。通常220元とガイドにはあったのだが、外国人料金ではなく、中国人料金と同じ120元で良いという。パスポートなどのチェックもない。また、中国では宿泊料金の他に、必ず保証金を預けることになっている。これは宿泊した部屋の物を壊したり、持ち帰ってしまったときに精算するためのお金だ。よって、ホテルによっては、「魔法瓶60元、電気の傘40元、コップ10元、テレビ・・・」と備品の金額が事細かに書かれたリストを置いているところもある。備品を壊したりしないようにと、少々気はつかうが、通常は何ごともなく、チェックアウトの時に簡単な部屋の確認をして、全額を返金してくれることになっている。ここでもいつもどおり、保証金を預けることになった。宿泊料金と同じ120元だ、というので支払うと、フロントの女性が保証金の受領書に保証金100元と書いている。さらに、払うと聞いていない旅行社手数料の欄に、20元と記入している。そしてよく見ると、私たちの名前と国籍(中国人の場合は民族の種類)が「李平、漢人」となっているではないか!しかも担当者が保証金の受領書を正副2枚とも持っていってしまったので、彼らが偽名を私たちに断り無く、勝手に使ったという証拠だけでなく、私たちが保証金を預けたという証拠さえもなくなってしまった。鍵を受け取り、部屋へと向かったものの、

「大丈夫かな。」

と、私はつぶやいた。

「大丈夫だろう。」

暢は言った。綺麗な部屋に安く泊まれたことに、暢は満足しているようだった。しかし部屋へ入って荷物をほどきながらも、私には不安が大きく押し寄せてきた。

 

引換証でもある受領書なしで、明日の朝、保証金をきちんと返してもらえるのだろうか。もしかしたらそのお金を返してもらえずに、「李平」と書かれた宿帳を見せられて、「中国人と偽っただろう、公安(警察)を呼ぶぞ。」と脅されるのではないか。いや、朝を待たず、夜中に公安が呼ばれて、私たちは連行されてしまうのではないか。隣の青年達もいったいどうなるのだろう・・・。中国では、外国人が外国人受け入れ可能なホテル以外に、許可無く宿泊することはできない。一般の家庭に軽い気持ちで泊まった旅行客が、夜中に公安に通報され、連行されたという話を本で読んだこともあった。ふくらむ不安を自分の心の中に留めておくことができずに、私はまたつぶやいた。

「本当に大丈夫かな。だって『李平』だよ。私たちが正当に泊まったという、なんの証拠もなくなってしまったんだよ・・・。」

「大丈夫だろう。」

暢はもう一度答えた。

「でも・・・。」

暢の言葉では不安を消しきれずに、私は同じ言葉を繰り返そうとした。すると、

「そんなに心配だったら、もう一度フロントに行って、聞いてくればいいだろう!!」

暢が語気を荒げた。確かにその通りだ。心配だったら、フロントで聞いてくれば良いのだ。でも、どうやって?

「明日保証金をきちんと返してくれるんでしょうね?」という間抜けな質問でもしろというのか?それとも「宿帳に『李平』と書いたでしょう」というのか?それが元で、払わなくてもよい外国人料金を払うことになってしまったら?そんなことになったら、暢は「余計なことをした」と怒り狂うのではないか?それよりもフロントとの話がこじれて、すぐに公安を呼ばれてしまったら、公安になんと言い訳をすればよいのだろうか?ここは心配だから、別の宿を探すといっても、もう夜だ。探し歩くのにも時間がない。暢は別のホテルを探しに行くのは面倒だ、というだろうし、私一人で夜道を歩き回るのは心細い。

それにしてもなぜ、いつもトラブルの時にその対処をするのが私、と決まっているのだろう。暢はいつも後ろで立っているだけ。そしてそれに文句を言うだけ。いや、トラブルの対処をするのは良い。でも、そのトラブルを避けるために先回りして考えることや、そしてその不安を口にし、相談することさえも許されないのか。うまくいって当たり前、そうでないときには文句を言われる。交渉と緊張の続く生活。なんだかもう、疲れた・・・。

私の目から涙がぽたぽたと流れ落ちた。

 

「都合が悪くなると、いつも私のせいにばかり!」

私は暢の背中に向かって叫ぶと、子供のようにわんわん泣いた。暢は驚いていた。こんなことで、何をそんなに泣く必要があるのか、という感じだった。たしかに今日の件は、今心配しても仕方がないことなのだ。自分でもわかっていた。でもその不安な気持ちを暢に共有してほしかった。きっと一言「そうだね」といってもらえば気が済んだのだろう。それを頭ごなしに否定され、怒声をあびせられた。確かに、私も同じことを何度も言って、暢をいらつかせたのだと思う。なにより長時間にわたるバスの移動直後で、2人とも疲れていたのだ・・・。ひととおり泣いてスッキリすると、今度は泣いてしまったことに対する罪悪感と悔しさが押し寄せてきた。「泣く」という手段は、これを使うと「負け」という気がして、一番したくないことだった。「泣く」ことは、その時点で無条件に相手に寄りかかってしまう。それは全てを投げ出す、赤子の手段のように思えるのだ。ましてや、今回は楽しむための旅行ではないか。嬉しいことで感動の涙を流すのならまだしも、この旅の中でどんなに辛いことがあっても、泣くことだけはするまいと心に誓っていた。でも、今日は自分をコントロールしきれずに、泣いてしまった。そんな自分が、少し情けなかった。もう二度と泣かないようにしよう、何か不満があったら、それを溜めないでどんどん口にして、それですぐに解決し、お互い後に残さないようにしよう、と改めて思った。

 

李平事件は、私にとって中国で起こったトラブルの一つに過ぎず、特筆すべき事象でもないと思っていたのだが、暢にとっては旅行を思い返す中で、非常に印象的な出来事となったようだ。「泣く」という手段を使ってしまったことは、幸か不幸か、暢の意識の変化に大きな影響を与える結果になったという。暢は最初の数日でぶつかって以後、私にストレスが溜まっているとは思っていなかったそうだ。本来は泣くということをせずに、自分の意見を相手にきちんと伝えられるのが一番望ましいのだが・・・。そのためには、話し合いをとことんすることが、いつでも大切なのだ・・・。

 

翌日、保証金は全額戻ってきて、書類にあった旅行社手数料というものも実際にはとられず、宿泊料金も中国人料金のままであった。私たちは何の問題もなく、「李平」ご一行様として中銀賓館を後にした。結局、昨日の心配はすべて私の取り越し苦労であった。この「李平」という偽名は、外国人料金に苦しむ若い旅行者たちに対する、中銀賓館フロントのちょっとした心遣いの名前なのかもしれない。

(つづく)