12:ハミからトルファンへ〜愛しのトルファン?へ向かう〜

哈密を出発し、私たちは次の目的地、吐魯番(トルファン)へ向かった。新疆ウイグル自治区に入って都市名も漢語からウイグル語になった。漢字を当てた表記もあるのだが、ここからは都市名を漢字ではなく、カタカナで表記しようと思う。トルファンは「新疆ウイグル自治区の中で最も愛らしい町」なのだそうで、「愛しのトルファン」とも呼ばれている。どんな風景や人々に出会えるのだろう、と私たちの期待は高まった。

 

私たちがハミを出発した日には、トルファンへのバス直行便がなく、ピチャンという町でバスを乗り換えることになった。乗り換えをすること自体はたいした問題ではない。今回の問題は、通常中国の長距離バスは座席指定と定員があり、全員がゆったり座れるのだが、そうはいかなかったことだ。出発時、ハミのバスターミナルを2箇所経由し、そのバスターミナル間の連絡がうまくいっていなかったためか、暢の席をはじめとする、何席かがダブルブッキングになっていたのだ。暢は最初に座っていた席とは別の場所に席をなんとか確保できたが、立ち席の人も多く、人々は押し合いへし合い、まるで市内バスのようだ。長距離なのに、こんな状態で何時間もバスに乗って大丈夫なのだろうか、と思う。席を変更されたので、暢は最前列、私は中ほどの席、と、この旅ではじめて、離ればなれの席で長距離バスに乗ることになった。

 

ところで、私たちはこんなことになるとも思わず、自分たちの大きなザックを車内に持ちこんでしまっていた。普通大きな荷物はバスの屋根の上に縛り付けて網をかけるのだが、網をかけた後も荷が丸見えの姿に、バスが悪路で揺れたら、そこから落ちたり無くなったりするような気がして、空いている通路に置けばいい、と軽い気持ちでやったことだった。しかし、こんなに混雑してくると、場所をとってしまっていることが後ろめたい。しばらくすると、後ろの座席にいたおばさんが

「バッグを椅子にして、息子を座らせていいか?」

と尋ねてきた。その息子とは、小学校高学年くらいのウイグル人の男の子で、最初、私の隣の席に座っていた。暢は少年とこの席がダブルブッキングだったので、少年にこちらを譲ったのだが、その少年も一人のウイグル老人が現れると、さっとその場所を譲った、優しい子だった。この少年になら、と、私は申し出を快諾した。しかし、それが運の尽きだった・・・。最初の数分こそ、少年はバッグに座っていたが、安定感のない、ゴツゴツしたザックは座り心地がわるかったのだろう、じき、母親のいる座席の手すりにこしかけるようになり、役目を果たさないバッグは戻されることもなく、放置され、なぎ倒されて、人々が通路に吐き出したタンとブドウのタネやカスまみれになってしまった。さらにバスの揺れと、人々に蹴られて、1時間も経つと、ザックは通路のはるか後ろの方にまで行ってしまった。行方が気になるが、席を立ったら最後、誰かに席を取られて、もう二度と座れないだろうと思う。終点で取り戻すしかない、と、何度も振り返りながらも、取りにいくのを泣く泣くあきらめた。

 

ところで、となりの老人は宗教家であるのか、この暑い中(35℃はあるだろう)、黒い丈の長い上着と長ズボンを穿き、頭にも黒い帽子をかぶっている。のべつまくなし、人々がブドウやヒマワリの種を食べている中、老人はなにも口にせず、涼しげにコーランなどを時折口ずさんで、風流なたたずまいだ。さすがだわ、と私は感心していたが、しばらくすると、彼はいびきをかいて居眠りをはじめてしまった。居眠りにも少しガッカリだが、眠りが深くなるにつれ、彼の姿勢がだんだん斜めになってきて、足をだらしなく投げ出し、私の席を半分以上侵略している。

 

「そもそも、最初にいい顔をしたのが間違いだった。自分の座席以外はまるで全てゴミ箱のようではないか。なんでも物を投げ捨て、吐き捨てる。何かに包んだり、まとめて捨てようという気もない。感心していた、宗教家の老人さえも、傍若無人なこの有様。なんというマナーの悪さだろう!」と怒りが頂点に達しようとしたそのとき、とある停留所に到着し、人々も降りだして席に余裕ができた。その物音に老人は目を覚まして足を元に戻し、肩を叩かれて振り向くと、一人のウイグル人少女が、私のザックを持って微笑んでいた。最後尾近くに座っていたこの少女は、通路に余裕ができたのを見計らって、自分の背丈の半分ほどもある、汚れた重いザックを引きずって、私のそばまで運んできてくれたのである。髪を三つ編みにしてウイグル帽をかぶり、矢絣模様の衣装を着た少女の笑顔と良心に、一気に心が和んだ。「こんなつまらないことでいらいらしていたのでは、私も仕方ないわね。」と思った。

 

しばらくして、「ピチャン→」という標識が現れた。しかし、バスはあらぬ方向へ向かう。幹部なのだろうか、制服のような人民服を着た、漢人と思われる2・3人が、運転手に何か言っている。どうやらある鉄道駅へ向かってくれと言っているようだ。まもなく街だと期待していたのに、逆方向の駅へとバスが向かっているので、乗客たちが怒っている。彼らの怒りはウイグル語で何を言っているのかさっぱり分からないが、特にとなりの宗教家?の老人の語気は激しい。何十人の人たちの時間よりも数名の意見が公共バスで最優先される、そのことのおかしさは、異邦人の私の目にも明らかであった。

 

しかし、ダブルブッキングがなくても、この路線はこんなに混雑するものなのだろうか。そう思っていると、前の座席のおばさんが「バザール」を連発した。そうか、今日は市の立つ日なのだ。市を「バザール」という言葉で表現することに、シルクロードの風情を感じる。

 

ピチャンの停留所に着くと、トルファン行きのミニバスがぽつんと私たちを待っていた。無事トルファン行きに乗り継ぐことができて安心したが、トルファンへの道はさらにひどい悪路であった。このあたりでは、道路工事が頻繁に行われているのだが、道路を片側通行にせず、両方向を通行止めにしているので、ちっとも先に進めない。冷房のない、蒸し風呂のようなバスの中で、なかなか着かないという苛立ちだけが募る。結局トルファンに近づいたのはもう日も傾いたころであった。トルファンを代表する火焔山という山が、名前の通りメラメラと夕日を浴びて燃え上がっている。夕方6時を過ぎたが、まだ気温は40度近くあるのだろう、バスの窓をあけると砂埃の混じった、焼け付くような熱風が吹き付ける。暑いを通り越して、熱い。田舎では幹線道路でもまだまだ舗装されていない道路が多いのだが、街が近くなってアスファルトで舗装されている道路に入ると、更に熱さが増してくる。この熱さに、もうトルファンも近いのだろうと期待したそのとき、また、バスが徐行し始めた。「また工事!?もういいかげんにしてほしい。」そう思って窓の外を見ると、道路上におびただしい水があふれ出している。砂漠の真ん中で洪水。おかしな風景だが、用水路が氾濫してしまったのだろうか。薄暗くなってきた砂漠に目を凝らして見ると、太くて茶色い、鉄のパイプのようなものが荒野に1本浮き出ていて、そこから水がどくどくとあふれ出している。このあたりでは砂漠の盆地に水を供給するため「カレーズ」と呼ばれる地下水路が周囲の山脈から1100本余り、のべ3000キロに渡って張り巡らされているそうなのだが、ここは何らかの理由でその灌漑水路が地下ではなく砂漠の表面に造られているのだろう。その用水路のどこかにヒビが入ってしまったようだ。まだなんとか徐行して車が通れるが、緩い地盤にアスファルトはくだけてしまい、道路は徐々に沼地と化している。そんな状態がしばらく続き、最終的にトルファンバスターミナルに着いたときには午後8時を過ぎていた。さすがに真っ暗だ。

 

ターミナル内には明かりも少なく、どちらが中心街の方向なのかもよくわからない。さらに、沢山の人がバスを取り囲んで動けない。「全員タクシーの客引きかしら。遅くまで商売熱心だわ。」と思うが、びっくりしたのは、そこで日本語がとびかっていたことだ。「ロバシャ、ノリマセンカ?」「ホテル、ドコデスカ?」「アシタ、ツアーイキマセンカ?」カタコトの日本語で、客引きたちがつぎつぎに話しかけてくる。日本人と見ると、次々と駆け寄ってきて、周りを取り囲み、動けなくする。こちらはくたびれているのにしつこくつきまとってくるので、非常にうっとうしい。そんな彼らをかき分けるようにして、バスターミナルから大通りへ出ると、ほとんどの者があきらめて離れていったが、1人だけ、まだ話しかけながらついてくるウイグル人の若者がいた。「日本語使い」と呼ばれる、彼らのような日本語を使った客引きたちの言うことはたいてい信用ならないが、「キョウハ、ドコノホテルモ、イッパイ。」という、彼のこの言葉だけは合っていた。彼を振り払い、トルファンの街を歩き回って、どこのホテルに行っても、希望するような安くて快適な2人部屋はない。しかもホテル11軒がけっこう離れている。重い荷物を背負って、蒸し暑くて暗い道を何十分も歩いていると、いいかげん嫌になってきた。再びバスターミナル付近に戻ってくると、また彼に会った。「トルファン飯店ナラ、アイテイルカモシレナイヨ。」彼も商売にならない私たちをロバ車にのせることは、ほとんどあきらめたらしい。「そうしてみる。」と言って、私たちはトルファン飯店に向かった。「モシ、ツアーニイキタクナッタラ、バスターミナルニキテ。」彼の最後の誘い文句を背中で聞きながら・・・・。

 

青年の言うとおり、トルファン飯店のドミトリーは空いていた。このホテルのドミトリーは本来3人部屋だが、今日は2人だけで使えるようだ。しかしトイレは共同トイレで羊臭く、トイレの向かいにある共同シャワーはトイレとシャワーカーテン一枚で区切られているだけ、そのうえ薄暗くて、とても使う気になれない。ここで文句を言っていても、野宿をするわけにもいかないので、今日はあきらめる。汗だくだが、シャワーも使わないことにした。顔と手足だけ洗い、近くの餃子店で食事をとると、時計はもう10時を回っていた。ベッドは一見清潔だが、なんだかむずむずする。汗をかいたせいなのか、はたまた南京虫でもいるのか・・・。足や背中が赤い発疹だらけになってしまった。冷房もないので、暑い。暑さとかゆみのため、夜中に何度も目が覚めた。こんな始まりになってしまったが、トルファンは本当に愛しい街なのだろうか・・・・。(つづく)