3.中国・上海から西安へ:中国鉄路旅客列車の旅

上海では魯迅公園・外灘・上海雑伎団を観光した。上海は大都会で、衛生面でも食事の面でも、何の心配もない。トイレはどこでも水洗だし、外灘では東京ディズニーランドよろしく、ひっきりなしに清掃員がやってきて、ベンチや通路を掃除している。宿泊したホテルの隣には、コンビニエンスストアの「羅森(ローソン)」まであって、日本のそれと何の変わりもない。違うのは商品のパッケージに中国語が印刷されていることくらいだ。中心街のデパートにはインターネットカフェもあり、早速Eメールで日本の友人達に近況を報告することができた。多少の文化の違いはあるにせよ、これではほとんど東京にいるのと変わらない生活である。それでもあっという間に3日が過ぎて、西安へと発つ日がやってきた。

 

上海駅はたくさんの人でごったがえしていた。駅の待合室は小学校の体育館ほどの大きさがあり、小さな電光掲示板が天井から4つほど下がっていて、それぞれに列車の番号・行き先・出発時刻が点灯されている。その電光掲示板の前にはそれぞれたくさんの椅子が列をなしており、そこには発車予定時刻の30分以上前から、椅子にも座りきらないくらいたくさんの人が並んでいた。こんなに早くから並んでいるなんて、指定席でない、硬座(2等座席)の乗客たちなのだろうか。その時はそう思った。しばらくして、ある列車が入線して改札が始まり、並んでいたのがぐちゃぐちゃになって、狭い出口へ我先にと人々が押し合いへし合い動き出した。せっかく並んでいたのに、それは何の役にもたっていない。ハタから見ると、将棋倒しでも起こらないかと危険な様子にさえ思える。その混乱がおさまったころ、私たちが乗る予定の列車も入線し、先ほどと同様に押し合いへし合い、改札へと人々が流れ出した。「予約してあるし、寝台だから、急いでその競争に加わらなくても大丈夫だろう。」私たちはそのようにのんびり構えて、ほとぼりがさめるまで、待合室の椅子に腰掛けていた。

 

しかし、それは甘かった。改札を済ませ、自分の席にいってみると、網棚がもう一杯で、どこにも荷物を置く場所がない!網棚は列車の通路一杯に設置されており、かなりのスペースがあるが、すでに巨大な麻袋の山・山・山・・・。どうして皆、こんなに荷物が多いんだ!?と、怒りにも似た感情がわき上がってくる。しかし怒ったところで、誰に言うアテもない。座席に置くと、こんどは寝る場所がなくなってしまう。とにかくこのままでは自分たちの荷物がどこにも置けないので、無理矢理にでも場所をつくろうと、勝手に他の人の荷物を縦にしたり横にしたりした。すると、

「・・・!」

とパーマ頭で眼鏡を掛け、痩せた中年男性が怒っている。(彼は西部警察の山さんに似ている。)彼は私たちと同じ3段ベッドの中段の客のようだ。どうも「俺の荷物だ!」と言って、怒っているようだが、何を言っているのかよくわからない。彼にかまわず私が荷物をどかしていると、あきらめたのか、彼は横から手を出して、場所を作ってくれた。私は日本語でいうところの「すみません」というつもりで、

「対不起。」

というと「対不起じゃねえよ。」と彼はぶつぶつ言った。これから西安までのまる1日間、旅をともにする人なので、機嫌を損ねたのは気になるが、ここで弱気になってはいけない、と気にしないことにした。

 

中国の2等寝台(硬臥)のつくりは、3段(上段・中段・下段)のベッドが向かいあわせに並んでいて、向かいあわせになったところに細い空間があり、奥に大きな窓がある。その窓の下から折り畳み式のテーブルが一つ通路に向かって出ていて、それを、この向かい合わせになった6人が共同で使う。私たちのベッドは向かい合わせになった上段の2つだ。

 

改札は、駅の待合室を出たときの切符の確認と、車掌(列車員)による車内での切符の確認の2回が行われる。車掌は一人一人の座席を回って切符を預かり、小さなアルミの札と交換する。札には車両番号とベッド番号および種別(上段)が刻印されている。これは到着駅で再び切符と交換される預かり札のようなものだ。車掌が切符を返しにくると、自分の下車駅が近いとわかるしくみになっている。

 

ベッドの上には寝具として、きちんと糊のかかったシーツと上掛けがすでに用意されていた。

 

列車が西安へと走り出した。一息ついて周りを見回すと、17時というおやつにも夕食にも中途半端な時間だというのに、出発するやいなや、乗客のほとんどが何か食べ物を広げて食べはじめている。しかも、何分たってもそれを食べ終わる気配がない。「中国人はよく食べる」といわれるが、たしかに次から次へとよく食べている。何を食べているのかと詳しく見ると、ひまわりの種だ。その後も観察したところ、彼らは食事の時間以外、のべつまくなし、この種を食べているような感じだ。「種を囓る・手で割る・中身を食べる」という一連の動作が、一種の暇つぶしになっているのかもしれなかった。

 

また、中国語で列車は「火車」というが、中国の列車は今でも燃料に石炭を使っており、石炭を燃やす熱を利用してお湯が沸かされ、列車の車両接続部分には給湯器が設置されている。そこからはいつでも自由にお湯がもらえるので、ひまわりの種を食べながら、彼らは常にお茶も飲んでいた。ほとんどの人が口幅の広い円筒型のプラスチック水筒(あるいはコーヒーの空き瓶のようなもの)を使っており、本体が水筒も湯呑みも兼ねていて、水筒に直接お茶の葉を入れ、お湯をさし、葉が沈むのを待って、葉をいれたまま飲んでいる。飲まれているのは緑茶が多いが、白い菊みたいな花びらを入れて飲んでいる人も多い。コップに葉を入れたままお茶をのむということは日本ではあまりしないが、郷に入れば郷に従えと、私も同じ飲み方をしたいような気になってきた。しかし、私たちの水筒は日本から持ってきた口幅の狭い魔法瓶水筒だったので、葉が詰まってしまうおそれがあり、ティーバックを使わざるを得なかった。私の水筒は日本の子供が遠足で使うような、口栓を回してはずし、お茶を注ぐタイプの魔法瓶水筒だが、暢に至ってはプッシュ栓のついた魔法瓶水筒をつかっていた。魔法瓶水筒を使っている人は他には、この車内ではみかけない。ましてや、プッシュ栓のついた水筒は中国で販売されているのかどうかさえわからなかった。

 

そのせいだろうか、私たちが通路の窓際で水筒にお茶を作っていると目立ったのだろう、水筒を見た通りがかりの男性が、声をかけてきた。色が浅黒く、がっちりしていて、目が細い。軍人風だ。30代後半くらいだろうか。がっちりおやじ、と私は心の中で名付けた。彼は不躾に、

「良い水筒だな、いくらだ?」

と聞いてきた。いきなり金額を聞いてくるのが面白い。そのほかも何か言っているようだが、よく解らず、

「わかりません。私たちは日本人なので。」

というと、先ほど荷物で一悶着あったパーマおやじがぱっと振り向いて、がっちりおやじと声を合わせたように、

「日本人!」

と驚いた。彼らは私たちの顔をのぞき込みながら、

「中国人にみえる。」

とか、

「全然(中国人と)かわらないな。」

と言い合った。

 

私はその会話を聞いて、少し戸惑い、少しうれしくなった。それまで正直言って、中国がちょっと怖かった。「日本人に見られること」、そのことで、変にぼられたり、騙されたり、嫌がらせにあったりするのではないか、そんな風に思っていた。そのため中国ではなるべく日本人だと分からないようにしたほうが良いのではないか、と思っていた。幸い同じアジアで、いろいろな民族がいるこの国では、私も中国人に見えないこともない。現地の人のようにこの国に溶け合ってしまうことが、安全上も、旅行上ももっとも良いことなのではないかと思っていた。そしてそれが認められた今、「わかばマーク」旅行者が少しだけ「旅慣れてきた」証をもらったような気がした。中国という国に、自分たちが少しだけ受け入れられたような気がした。しかし、何かを尋ねられたとき、偽ってまで中国人になる必要はない。金銭が絡まないとき、話が込み入ってきた時は、早めに日本人と言っておいた方が、誤解を招くことなく、相手も安心するのは明らかだった。実際、今まで私たちを怪訝そうに見ていたパーマおやじは、私たちが日本人とわかると急に親切になり、立ったままお茶を作っていた暢に、自分の座っていた通路の椅子を譲ってくれた。

 

列車が発車して1時間以上が過ぎ、夕食の時間になった。食堂車のある方向からお弁当を手にした人たちがやってくる。白い発泡スチロールのお弁当箱からは、もわもわと湯気が立ち上り、とても美味しそうだ。蓋をされているので中身が見えないが、一体どんなものなのだろう。私は、暢に「ちょっと見てくるね」と言って、食堂車に向かった。食堂車は簡単なテーブルと椅子が約30席分並んでおり、入り口の所で食券を売っている。テーブルの奥の方まで入ると厨房が丸見えで、白い調理服を着た体格の良い料理人が、大量の青々とした韮を、ざく、ざく、ざく、と切っていた。その横には本格的なコンロがあり、中華鍋の脇から炎がはみ出して、火力がかなり強そうだ。ここからは別の料理人がものを炒めていて、「ジャー」という大きな音がする。そして辺りに漂っているのは・・・なんとおいしそうな匂いだろう!調理済みの品を積み込んで、車内で温めるだけというのではなく、街の中華料理店のように豪快に、本格的に料理をしていることに私は驚いた。

 

みんな弁当のことを「ゴウファン」といって買っているので、それに習ってわたしも

「ゴウファンを2個ください。」

といって二つ買った。「盒(蓋)飯」と書くらしい。1つ10元。日本円で約200円といったところだ。「盒飯」の「盒」を少し開けてのぞいてみると、炊きたてご飯の上に豚と大根のピリカラ煮とキュウリといかの炒め物という2種類のおかずが「ぶっかけ」られていた。私は冷めないようにと小走りで席に戻り、早速暢と食べてみた。おいしい!暢も満足そうだ。

「温かいのが素晴らしいよねえ。食堂車で温かいお弁当を作ってしまうって、日本にはない発想だね。」

と、話し合う。食べ終えてしばらくすると、今度は銀色の四角い食缶の中にご飯やおかずを入れ、それをカートにのせた「弁当屋」がやってきた。わざわざ食堂車まで買いにいかなくても車内を巡回しに来るのだ。おかずは私たちが食べた物以外に2種類ほど増えている。先ほど切られていた、韮のおかずなどもあった。まあ、カートで運んでくる間に少しさめてしまうのだから、食堂車まで買いに行ってできたての温かいものが食べられたので、結果的にはよかったのかな、と思った。

 

しかし、この列車、暑い。エアコンはなく、車内は扇風機が回っている。でも車内が暑すぎて扇風機から吹いてくる風も熱風だ。先日切符を買った際、列車代とは別に「空調費」をとられたが、あれはなんだったのだろう・・・。それについて理由が判明するのは、まだ少し先の話だ。

 

到着駅に関するアナウンスは流れないが、夜9時を過ぎると「おとしよりや子どもが寝ますから静かに・・・」とか「食堂車は22時で閉店・・・」といったアナウンスが流れる。そして夜10時になると、洗面所の電気以外はすべて消灯した。ベッドの周りは真っ暗闇だ。それは良いのだが、消灯と同時になんと扇風機も止まってしまった。一番上段にいる私たちのところには、窓もない。上を向いても横を向いても、あるのは壁ばかり。なのに、熱気は上へ上へと上がってくる。蒸し風呂状態だ。

「参ったね・・・」

2人とも上段なので、交替で席を替わって涼むこともできない。暑さでなかなか眠れなかったが、夜中の1時を過ぎると自然に空気がひんやりしてきて、やっと眠りについた。夏でも一晩中暑い日本と違って、大陸らしい気候なのかななどと考えた。とはいえ、今後は列車では中段を確保することにしようと心に決めた。

理由1 中段には窓がある。

理由2 中段は座席にされない。(下段は足下に荷物がおけて便利だが、中段・上段の人も日中は座席として座るので、汚される可能性が大きい。)

 

通路には「果皮盆」というゴミ入れの皿がおいてあるが、夜中にそれを掃除する人が来た。車掌は「列車員」だが、清掃担当者は「服務員」という名札をつけている。夜中のトイレもわりときれいで、けっこうひんぱんに掃除しているようだ。「中国は不潔」という先入観が少し変わってくる。でも、このサービスは寝台列車だからなのかもしれない。「硬座」と呼ばれる自由席の車両は今頃どうなっているのだろうか・・・。

 

夜が明けた。中国人の朝は早い。朝6時頃から活動している。歯を磨いたり、顔を洗ったり、女性はお化粧したり・・・けっこうきれい好きだ。しかし、洗面所の洗面台の中にではなく、汽車の接合部分で歯をみがいて、「がらがらぺっ」とうがいした水を吐き出してしまっている人もいる。洗面所が混んでいるからなのだろうが、このマナーの悪さには、少し驚いた。そういえば昨日の夜は洗面所が空いていて、歯を磨いている人は私たち以外にいなかった。中国の人は朝しか歯を磨かないのだろうか。しかしこれは彼の国の習慣というだけではなく、私の両親も子どもの頃は朝しか歯を磨かなかったと言っていたのを思い出した。日本でも1世代前まではそうだったのだろうな、などと思う。

 

朝食には朝からカップラーメンを食べている人が多い。食堂車では朝食用に肉まんを売っているようだ。私たちは上海で買ったラスクを朝食にした。私たちは昼食にカップラーメンを食べた。日本の友人に中国のカップラーメンはまずいと聞いていたが、商品の改良が進んだのだろうか、そんなに悪くない。むしろおいしい。暢はある駅での待ち合わせの時間に、鶏ももの薫製とビールを買ってきた。車内から窓の外を見ると、列車の出入口近くで、物売りがカートに商品を山積みにして待っている。カップラーメン、お菓子、ジュースなどはもちろんのこと、この薫製のように調理されたものや、果物まで売られていた。鶏ももの薫製は日持ちさせるためか、色から想像するよりも、かなり塩辛い。

 

車内では軽快な音楽がスピーカーから流れている。中国のポップスだ。食事時や停車駅が近い場合を除いて、このようなサービスをしているようだ。旅にその音楽がよく合っている。下段のベッドの親子はトランプに興じている。上海の魯迅公園でもトランプは流行っていた。もちろん、トランプをしながらも、ひまわりを食べる手は休めない。

 

午後、暢が通路の席に座って写真を撮り始めた。小学校5年生くらいの男の子が、隣の房の中段のベッドからちょこんと顔を出して、暢のカメラを興味深そうに見つめている。パーマおやじがそれに気づいて、

「彼らは日本人だからニイハオとシェシェくらいしかわかんねえぞ。」

と、男の子に呼びかけた。「日本人」と聞いて、男の子は暢の行動にますます興味しんしんだ。写真を取り終えて、暢が日記をつけ出すと、今度はベッドから降りて、そのノートをのぞきに来た。ノートを見ながら、暢に何か話しかけている。暢は

「僕は日本人で中国語はできないんです」

と言っている。暢は日記をつけ終わると、再びカメラを手にとって、その男の子の写真を撮ってみたり、近くにいる赤ちゃんの写真を撮ってみたりした。男の子は

「どうして中国に来たのですか?旅行?」

などと暢に尋ねている。暢はまた、

「僕は日本人で中国語はできないんです。」

と答えている。男の子のあまりの無邪気さと熱心さに、「中国語がわからないから」とはねつけてしまうのが勿体なくなり、私も一緒に話をしたくなった。

 

ふたりに近づいて、わからないところは筆談しながら、どこから来たのかということや、目的地のことなどを話していると、男の子の母親がやって来た。大人の女性だと、やはりかなり突っ込んだ話をしてくる。私たちの年齢や職業についていろいろと聞かれたあと、彼らの職業についての話になった。男の子の名前は高c玉くんといい、母親は張海淋さんというそうだ。父親は、今は電車には乗っていないが甘粛省の薬剤師で、張さんは看護婦だという。寝台車に乗って旅行に来られるのだし、彼らは中国では「良い生活をしている家庭」だといえるだろう。張さんは

「西安での見どころは、兵馬俑と乾陵、歴史博物館、則天武后陵などがあるわね・・・」

と言いながら、暢の日記にその場所をメモし、続けて、

「私たちの日本人の印象は『南京大虐殺』です。」

と書き記した。

 

突然の出来事に、暢と私は顔を見合わせた。いったい何と答えたら良いのだろう。ただ、ただ言葉もなく、私たちは顔を見合わせ、どちらともなく、視線を足下へと落としていた。張さんは重苦しい雰囲気を察してか、あわてて日記帳の次のページを開き、

「私たちも貴方達も同じ黄色の皮膚をしています。みんな仲間ね。」

「日本のスターと言えば、山口百恵よね。」

「息子が大きくなったら、日本へ留学させたいわ。住所を教えてくれる?私も教えるから。」

「息子が『ウチに寄って欲しい。』ですって。機会があったらぜひいらしてね。」

「私たちが泊まる事務所の近くのホテルに貴方達も泊まれば安心なんだけど・・・。」

「西安の歴史博物館に行くには、5番の公共バスにのるのよ。1元で安いわよ。」

などと立て続けに書いて、明るく話し、私たちを慰めてくれた。元気付けられるのもなんだか情けない。よっぽど私たちは落ち込んでいたのだろう、一旦話を終え、別れてからしばらくして、高くんが一通の手紙を渡しに来た。そこには

「西安ではスリにくれぐれも気をつけてくださいね。楽しい旅行になりますように!」

と心を込めて書かれてあった。私たちは彼らの優しさに胸が熱くなり、高くんや車内を撮った写真を現像したら、必ず彼らにすぐ送ろうねと言って、列車を降りた。後日、その写真をトルファンで現像して高くんに送ったところ、連絡先とした日本の暢の実家に返事が来ていて、実家では「甘粛省の病院から手紙が来た!」と少し心配したらしい・・・。

 

それにしても、「日本人の印象が『南京大虐殺』」と、旅行をはじめてからこんなにも早く、面と向かって言われたというのは、なんとも衝撃的なことだった。そして、その言葉とは関係なく、あたたかい思いやりを彼らから受けたことも、大変印象深いことであった。この列車の旅で、初めて現地の人と話をして、私は言葉の大切さを改めて実感した。筆談に頼ったところはあったけれども、全く中国語を勉強していなかったら、このような経験をすることはできなかっただろう。言葉ができなくても旅行くらいはできるだろうが、その国の人の心の扉を開く、つまりその国の人々の本音を聞くには、その国の言葉でこちらが話す、ということが欠かせないように思う。特に、中国のように英語が堪能な人ばかりではない社会においては・・・。反対に、学生時代に中国を訪れてこのような経験をしていれば、もう少し熱心に中国語を勉強したのではないかと、少し後悔したりもした。でも、学生時代の短期留学などではわからなかったかもしれない。学校という、一種保護され、隔離された一ヶ所に留まっているだけではわからず、中国を実際に自分の足で歩いて、いろいろなことを経験するからこそ、コミュニケーションの手段としての言葉の大切さが分かるのではないかと思った。(つづく)