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7:銀川から蘭州へ〜旅の意味を考える〜

旅行をはじめて10日目、銀川の西夏王陵を見学した翌日、私はついに体調をくずした。腹痛がとまらない。暢は同じ行動をし、同じものを食べているが、なんともないという。疲れたのだろうか?追い打ちをかけるように、宿泊していたホテルのシャワー室の水漏れがひどくなる。腹痛がとまらないので、薄暗いシャワー室にある洋式トイレで、じっと「考える人」になっていると、頭の上にポタン、ポタンと水滴が…。ホテルのつくりは各階同じのはず。上の階のトイレの水漏れかもしれない。そう考えると、お腹だけでなく、気分まで悪くなってきた。もういやだ。前日に王陵を見てしまったので、今日は特別に観光するところもない。この銀川という街にいる必要自体、もうないのだ。こんな宿は早くでて、別のところに移りたい。暢にその旨を話すと同意見で、ふたりとも荷物をまとめて宿をチェックアウトし、銀川駅へと向かった。

 

明日の列車の切符を今日の列車のものに変えてもらおうとするが、駅職員の答えは「今日の蘭州行きの切符は没有(売り切れ)。」念のため、別の窓口でも聞いてみるが、こちらの職員の答えも「没有。」では、硬臥(二等寝台)ではなく、軟臥(一等寝台)や軟座(指定席)なら空いていないかを聞くが、これまた「没有。」もう、がっくりだ。暢は、狭くて冷たい木の長椅子が並んでいる硬座(自由席)車両でも、「空席があるなら一泊くらい、座りっぱなしでも平気だ。先に進もう。」というが、私はお腹をこわしていることもあり、さすがにそれに耐える自信はなかった。結局、もう1泊銀川にとどまることにして欲しい、と暢に頼んだ。でも、もうトイレが水漏れしているような銀川飯店には戻りたくない。今朝よりすこしでも快適な環境を、と、「新しいホテル」とガイドに書かれている、銀川賓館を尋ねてみた。しかし手頃な部屋は「没有(満室)」で、今日空いている部屋は一番安いところで1220元(約4400円)だという。今朝までいた銀川飯店の部屋は、1110(2200)だ。それを考えると、少し高すぎる。とりあえず、ほかのホテルをあたってみることにした。しかし、手頃な値段の鼓楼飯店や寧豊賓館も今日は「没有(満室)」という答え。今日から銀川で大規模な学会が開かれるため、どのホテルもその参加者で満室であるらしい。暢は苦笑して「今日は没有デーだな。」と言った。なるほど、こう何もかもうまく行かないと、あとは冗談でも言って、笑いとばすしかない。仕方なく私たちは銀川賓館に戻り、220元の部屋に泊まった。昨日のCITSでのガイド代といい、今日の部屋代といい、銀川では余計なお金をつかう運命なのだろうか、と思う。しかし、100元ちがうとさすがに部屋が立派だ!最上階の部屋で調度もいい。リモコン付きのカラーテレビまで備え付けられている。水漏れなど、もちろん無い。こんな良い部屋に泊まるのは、この旅行で初めてだ。いつもこんな部屋に泊まりたいなあ、と思うが、少しでも長く旅をしたいんでしょう、と自分を戒める。

 

切符の件とホテル探しで、もうお昼になってしまった。せっかくもう1泊することにしたのだからと、銀川市内の見物に出かける。最初に、西夏の時代に創建され、敷地内に博物館のある、西塔を見学。見学中、再び私のお腹の具合が悪くなってきた。しかし、西塔にはトイレがない。ベンチに少し座って我慢する。腹痛は波のようなもので、すこし我慢していれば、おさまるものだ。

 

もう、蘭州への出発は明日だ、とほぼ諦めてはいるのだが、最後の悪あがきで、今晩、蘭州へむかう寝台バスがあるかもしれない、と、バスターミナルへ向かった。しかし残念ながら、そのような便はない。バスターミナルの待合室には、列車や飛行機のタイムテーブルも張り出されている。じっくり見て、どの方法で蘭州へ向かうのが良いのか、よく考えたいが、お腹が痛くて考えが集中できない。飛行機を使うなどという可能性はないので、明日、列車で蘭州に向かうことに改めて決定である、と次の見学スポット、銀川南関清真大寺へ向かうことにした。南関清真大寺へ到着すると、私はお腹が痛いだけでなく、体もだるく、ふらふらしてきた。南関清真大寺はすばらしいイスラム寺院だ。が、美しい建物を眺める余裕も、説明を読む気力もない。暢は元気だ。彼は、まだ街が見足りないという。彼は、「具合が悪い」と、途中休んでばかりで、スムーズに見学ができない私に、いらついているようだ。そのような様子を見て、「もうだめだ。ここを見たらホテルへ帰ろう。暢には悪いが今後のこともあるし…。」と考え、暢に

「申し訳ないけれど、あとは1人で観てきてくれるかな。」

と、言った。すると、暢は呆れた顔をして

「じゃあ、そうするよ。」

と言って、すたすたと街に消えていった。暢は「最初からそうすれば良かったのに。」とか、「自分の身体も自分で管理できないとは、情けない奴だ。」と思ったのだろうなあと、少し胸が痛んだが、1人になって、正直私はほっとした。帰り道を休み休み、ホテルに戻った。何度もトイレに行く。正露丸もきかない。少しでもサッパリしようと、シャワーをあびてベッドに横になった。

 

夕方になって、散策を終えた暢が帰ってきた。夕食はどうする?と聞かれ、食べたくないけれど食べないと治らないと思い、一緒に街の食堂へと出かけた。そこで出されたご飯とおかずが、私のはなんだかぬるくて、気持ちが悪い。しばらくして暢の頼んだものがやって来ると、こちらからは湯気がたっている。どうして具合の良い人に良く加熱されたものが来て、私には来ないのだろう。つくづく今日は運も悪いのだなあ、と思った。結局私はほとんど食べられず、残ったものは暢が全部食べてくれた。

 

具合は一晩経っても一向に良くならなかった。どうしても休憩時間が多くなり、食堂選びへの注文も増え、暢は苛立った。私としてもなるべく旅を滞らせないようにしよう、時間を有効に使おうとは思うのだが、どうにもならない。旅行をはじめて10日がすぎて、ふたりともストレスが増長し、疲れていた。

 

そんなストレスからだろうか、「裕子は所詮、旅に付いてきたのだから、俺は俺のペースでやりたい。」と暢が言った。私にとってこれはとても衝撃的な発言だった。私に振り回されたくない、自分のペースで進みたい、そう考えるのは当然かもしれない。しかしそれよりも私にとってショックだったのが、「お前は旅に付いてきた」と言われたことだった。たしかに「世界を放浪する」というのはそもそも暢のアイデアである。しかし、私はこの旅に出てからというもの、「一緒に旅をつくっている」つもりだった。たしかに、今まで旅行したチェコやロシアでは「付いてきた」と言われても仕方ないような状態であった。しかし、この旅では違う。駅でも、ホテルでも、郵便局でも、食堂でも、考え、交渉するのは私で、暢は後ろで見ているだけだ。なんだか恩着せがましくて言葉には出せなかったけれど、中国人料金で博物館などに入館できるのも、列車の切符が取りやすいのも、まがりなりにも中国語を使って交渉しているからだ。そして、私はただの通訳兼ガイドとして暢の側にいるわけではない。「この旅にでようよ!」と口火を切ったのは、私ではなかったか。確かに私は要領が悪い。人に聞くべきところで、引いてしまったりすることもある。それで暢のストレスは溜まっているのかもしれないけれど、まるで犬のように、何も考えず、私が暢の旅にただくっついてきたかのような発言をされるとは、心外であった。むしろこの1週間、暢の方が私に「ついてきた」といえるのではないかと思った。「あなたの方が私についてきているんじゃないの。」とは、喧嘩になるだけなので、さすがに言えなかったが、このままこの発言をうやむやにすることはどうしてもできず、私は暢に自分の旅の目標をノートにきちんと書いて見せた。

目標1 民族の変化を連続的に見る

目標2 語学の修得(中国語・ロシア語・英語・ペルシャ語)

目標3 ユーラシア大陸を横断する

なんとも大げさな目標である。しかしこうまで「ぶって」おかないと、気が済まなかった。実は私がこの「付いてきた」という言葉に過剰反応したのは、「旅の上のこと」だけでなく、日常生活全体で「女は男についてくるもの」という考え方が暢にあることを無意識に感じ取り、それに反発しているからなのかもしれなかった。暢は男女同権について、多少理解があるとは思う。彼自身、家事分担などもいとわない。だが、妻となった私が自分よりも遅く帰宅し、早く出勤するという生活を認めることはできなかった。また、子供が産まれたら、幼稚園に行くまでは母親が家庭保育すべきだという考え方を持っていた。私は暢の考えを理解し、自分自身もそう思って、気象会社の仕事を辞めてしまったものの、自分がこのまま家庭に収まることに、少し割り切れないものを感じていた。そんな私が提案したのがこの「旅」であった。この「旅」の間は「今しかできないことをしている」という人生の充足感が感じられるはずであった。これは私が主体的に選んだことであって、暢に盲目的についてきたというものではない。私にとってもこの旅は「自己実現」の場所であった。暢だけの自己実現の場所ではないことをわかって欲しかった。

 

そして、暢に「付いてきた」と発言されてはじめて、私はなぜ自分が旅にでたかったのかをはっきりと理解した。そして当たり前のことなのかもしれないが、心の中で思っているだけでは、気持ちが相手に伝わらないことも、はじめて理解した。結婚してから旅に出るまで一年、なんとなく一つ屋根の下に暮らしてきたが、これほどお互いの気持ちをはっきりと述べることはなかった。普段は、日常生活のせわしなさにかまけて、お互いの意志をぶつかり合わせることなく、なんとなく衝突を避けて進んできたけれど、四六時中一緒にいる今は、そういうわけにはいかない。

 

このように、旅に出ることで自分自身の生き方や夫婦のあり方について深く考えることになるとは、思ってもみなかった。そして、これから旅を続けていくためには、私たちはお互いのプライバシーを守り合う夫婦ではなく、お互いを全てさらけ出して、何でも話し合って進めていく夫婦になったほうが良いのではないかと思った。そして、きちんと相手に気持ちを伝えるために、私たちは旅の記録でもある、お互いの日記を読み合うことにした。日記は自分の気持ちを文章にすることで、自分自身と向かい合うことができ、さらにそれをお互い見せることによって、行動や口頭では表せなかったことを伝えてくれる。そしてそれをお互い読み進めるにつれて、私は責めるべきは暢ばかりではなく、暢に対して私自身に甘えがあり、対等なパートナーとして一緒に旅をしていくためには、自分自身がもっと自立すべきなのだということにもだんだん気づいていった。それに本当に気づくのはカザフスタンのアルマトイで暢が立て続けにアクシデントに遭った時なのだが、そこに飛ぶ前に、中国でまだまだたくさんの個性的な人たちに出会ったので、次回は蘭州での出来事に戻りたいと思う。

(つづく)