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1.はじめに

「ユーラシア大陸を横断する」

そんなチャンスが自分に与えられようとは全く思ってもみなかった。

「海外旅行をする」

それは「私には関係のない、雲の上の世界」そう、思っていた。

私にとって「海外旅行」といえば、旅行会社のツアーに参加し、世界の名所旧跡を効率よくまわり、豪勢な、あるいは珍しい料理に舌鼓をうつこと、そして安全な高級ホテルに泊まること。なぜなら海外は「危ない」から。そう、思っていた。

ふたりで旅にでるまでは・・・。

 

人生の転機、それは結婚であったり、就職であったり、出産であったり、転職であったり、入試であったり、誰かの死であったり、心を打つ一言であったりするのかもしれない。しかし、私の場合はこの「ユーラシア大陸横断の旅」である。おそらく人生でたった一度の長期旅行。夫、佐藤暢(さとうまさと)と駆け抜けた8ヶ月間のこの旅が、私に一体何をもたらしたのか。旅を振り返りながら、それを考えてみたいと思う。

 

2.ユーラシア横断に至るまで

1998年に起こった、この旅での出来事を振り返っていく前に「なぜ夫婦でユーラシア大陸を横断することになったのか」について、少し時間をさかのぼって述べておかなければならないだろう。

 

1995年に暢と結婚するまで、はっきり言って私は海外旅行に全く興味がなかった。と、いうよりも海外への好奇心は心の中に無意識に封じ込めていた。

 

自分の実家は自営業を営んでおり、常に家計は赤字の生活。父親は出張がちで、休日も不規則。そのうえ、乗り物に弱い母親は遠出をすると頭が痛くなり、家族3人が揃って出かけるということは国内外ともにほとんどなかった。父親はソウルオリンピックの頃から韓国に思い入れが深くなり、何度も彼の地を訪れ、家でも韓国語放送や語学番組が毎日のように流れていたが、私にとって、それは興味の対象にはならず、

「お父さんは通っている韓国パブの女の人にモテたいが為に、韓国語を一生懸命勉強しているのよ。」

という母の言葉を鵜呑みにして、興味を持つどころか韓国の文化を勉強する父を尊敬する気持ちにさえなれなかった。むしろ海外旅行や韓国の勉強に関する出費は決して余裕があるとは言えない、我が家の家計を圧迫する害悪以外にとらえられなかった。海外旅行イコール贅沢。家計を圧迫するもの。私とは無縁のもの。そう思いこむようになっていた。

また、戦争を経験した世代だからなのだろうか、父親の口癖は

「東洋人は優しい。西洋人は冷たい。」

というもので、それは私の進路にも影響した。多くの高校生がそうであるように、高校時代には欧米の音楽や映画などに憧れ、アジアのことよりもそちらに興味が移っていたが、

「欧米への留学はお金もないし、危険だからだめ。欧米のことを勉強するよりも、日本のことか、東洋のことを勉強しなさい。」

と父親は述べた。当時、アメリカの日本人留学生が銃で射殺されるという事件が起き、過熱する報道の影響もあって、留学に対する危険意識が植え付けられてしまったこともあったのだと思う。ヨーロッパでも東西冷戦は終結したものの、情勢は不安定で、たしかに安全というイメージはなかった。追い打ちをかけるように母親も

「留学はお金がないからだめ。やっぱり日本の大学で日本か中国あたりのことを勉強するのがいいわねえ。」

と言った。もう逃げ場もない。情けない話だが、高校生の私にはそれに反発して貫けるほどの考えも強さもなかった。

思春期の心というのは複雑なもので、親に反発したいという気持ちと、愛し、愛されたいという気持ちが同居している。私も家計を圧迫する父親の行動を憎み、(父の名誉のために述べておくと、あれから15年以上がすぎた今でも彼の韓国文化への情熱は全くさめやらない。そういう点では、母の言うような邪な考えからだけでなく、韓国という国そのものの魅力が彼を惹きつけているのだ、と今では思っている。)両親の発言に割り切れないものを感じながらも、心の底では両親を愛し、愛されたいと思っていたのだろう。結局大学では東洋のものである「中国文学」を専攻に選んだ。

 

しかし、複雑な気持ちのまま選んだ勉強に身が入るわけがない。大学時代は中国文学よりも、自分自身の意志だけで選んだ部活動(航空部)のグライダーに熱中し、専攻の学問よりも気象や操縦法に詳しくなっていた。そんな中、就職活動の時期になり、出版社や教育関係の会社を受けてみるが、これら「文学」に関する職業には、勉強不足でなかなか入れない。結局大学時代に一番勉強した(?)グライダーに関係ある職業、気象情報の会社に運良くひっかかった。

そこで出会ったのが同期の佐藤暢である。

 

私は営業、暢は調査と、働いている部署の違う暢の最初の印象は、同期会と称して、酒を呑んでいる時のものしかない。酔っぱらってカラオケボックスで騒いだり、友人と冗談を飛ばしている姿は、平凡な新入社員にしか見えなかった。しかし、いろいろと話を聞くようになると、暢はたいそう個性的な人物だった。大学時代にはウズベキスタンや東欧を旅行し、社会人になってからの休暇ではルーマニアの田舎に行ったという。なぜそのような国々を選んだのかについて尋ねると、「僕はあまのじゃくだから」と彼は答えた。人とは一風変わった行動をしてみたくなる、ということらしい。その話を聞いて、私にとってあまりなじみのない国々を旅行したということにも驚いたが、なにより私の興味を誘ったのは、その旅のスタイルであった。個人で航空券を手配し、ホテルも自分で探して、交通機関は公共のものを使い、見たいところを自分の足で歩く。海外旅行と言えば、パック旅行で添乗員さんに引き連れられて、団体行動をする、そんなイメージしかなかったが、このような旅行の仕方もあるのだと、私は初めて知った。そして暢は、

「自分は3年で会社を辞めて、世界を放浪する。その後日本に帰ってきて、会社の目の前でラーメンの屋台を引き、社長と再会して再び雇ってもらう。」

と冗談なのか本気なのかよくわからない話を、ことある毎に話した。

 

2人が交際し始めて2ヶ月ほど経った頃のことだった。暢が、

「もうすぐワンルームの部屋から、広いアパートに引っ越しをする。自分は世界を放浪するつもりだから、すぐには一緒に住めないけれど、君には新しい部屋で待っていて欲しい。」

と言った。もうすぐ社会人になって3年目になろうとしていた。暢にとっては「予定」の3年目である。私はこの言葉を聞いて、正直、困惑した。暢は本気で放浪の旅に出るつもりなのだ。自分は本当にこの人を待っていられるだろうか?いや、この人を待っていて大丈夫なのか?

運命というのは皮肉なもので、暢が広いアパートに引っ越して、放浪への準備がもうすぐ整おうとしていたときに、私に九州転勤の辞令が出た。その部屋では私が待てそうになくなったとたん、暢は今までの意見を翻して、

「結婚しよう。」

と言った。めでたく私たちは結婚した。結婚と同時に九州転勤の話もなくなり、私は関東で仕事が続けられることになって、暢の放浪計画だけが頓挫した。暢は

「放浪でなくても、違う旅の仕方もある。短期でも毎年海外へ旅行できれば良い。なにより、結婚で得るものもあるはずだ。」

と一応自分を納得させたようだった。しかし、私には結婚生活で大きな不安ができた。何十年後かに

「裕子のせいで夢を実現できなかった。」

と、言われるのではないかと・・・。

 

結婚して2年が過ぎた。家庭を大事にできるようにと、私は転職し、経済系の研究所でアルバイトをしていた。前職では同じ会社でも暢より早く出勤し、暢より遅く帰宅するという生活だった。そのことがいつも夫婦喧嘩の種であったが、今度の仕事は毎日6時間働けば、時間通りに帰って来られる。のんびりとした研究所の雰囲気。主婦アルバイトの仲間たち。優しい上司。居心地はよかった。家事と仕事も充分両立できる。しかし単純作業が多く、毎日同じことばかりの繰り返しに、「私は一体ここで何をやっているのだろう・・・・。」と思うことも多かった。上司はそんな私の気持ちを察してか、少しは考える仕事を与えてくれた。しかし、所詮アルバイトの上、これまでとまったく畑違いのこの仕事に、やはりやり甲斐は感じられない。「このままじゃいけない。」その気持ちだけが日増しに強くなっていった。「今しかできないことをやったほうがいい。」そう思ったとき、暢が結婚前に言っていた、

「放浪したい。今しなかったら、40歳くらいで後悔するだろうな・・・。」

という言葉が思い起こされた。

 

結婚後、私たちは夏休みなどを利用して、個人旅行でチェコやロシアを訪れた。私はその土地の人と直接ふれあえ、自分で自由に日程が決められ、しかも費用も安く押さえられる、この「個人旅行」というスタイルがとても気に入り、海外旅行に対するイメージがだいぶ変わってきていた。旅行に行くのが楽しみになり、次はどの国へいこうかと思いを巡らせるようになっていた。アメリカやイギリスといったいわゆる西側諸国でなくても、自由に旅行ができる魅力的な国々があることも知った。両親も私が結婚したこともあって、どこに行こうともう「好きなようにしなさい」という態度だった。

 

ところでそのころ、暢も仕事に悩んでいた。自分の携わっていた事業から会社が撤退することになったのだ。暢はその事業を担当することが入社当時からの希望で、他の部署に異動してまで、会社にしがみつきたくはなかったらしい。そもそも、その事業は市場規模が小さい、つまり将来性がない、というわけではなく、現在の会社でその事業に参入する方法がわからないために、撤退を余儀なくされたのだった。暢は、

「希望する事業を専門に行っている会社に転職したい。」

と言って、就職活動を開始した。学生時代に現在の会社と入社を迷ったもう1社が、その分野の専門の会社であり、そこに希望を出してみるという。一度蹴った会社であるのに大丈夫なのかと私は心配したが、門をたたいてみたところ、幸いにも採用を検討してくれることになった。しかし、小さい会社で現在は人数を増やす余裕がないという。でも「不採用」というわけではなく、近い将来暢を入社させたいという。つまり「採用はする。しかし入社は少し待ってくれ。」といわれたのだった。

現在の会社では異動しなければ、会社に居続けることができない。しかし、異動先の部署で仕事を始めてしまったなら、会社を辞められなくなる。辞めるなら今しかない。しかし、すぐに次の会社が受け入れてくれる訳ではない。その間どうするのか。暢はジレンマに陥っていた。私が「放浪」へのあこがれを抱き始めているとはつゆ知らず・・・。

 

暢が就職活動を始めたある日、

「次の会社に就職するまでの間、旅に出ようか。」

と私は言ってみた。暢は一瞬、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、そのあとすぐにとても嬉しそうな声で、

「今行こう、すぐ行こう!」

と、言った。長い間その言葉を待っていたかのようだった。気持ちのはやる暢を制して、私は続けた。

「そのかわり、3つのことを約束してくれる?

1.次の就職先を確実にしておくこと。

2.旅とその準備にかかるお金は自分たちの貯金で賄える範囲に抑えること。

3.紛争中であるなど、危険な地域に行かないこと。」

暢は快諾した。

「もし、放浪するとしたら、どういうルートで、どれくらいの期間を考えているの?」

と尋ねると、

「裕子はどこに行きたい?」

と逆に尋ねられた。

「私は中国とトルコに行ってみたいな。」

「俺はトルコにはあまり興味がないけど、中央アジア、イラン、ラオスに行ってみたい。そして、以前ルーマニアを訪れたときに、『クリスマスが素晴らしい』と聞いているから、ぜひ、ルーマニアでクリスマスを迎えたい。そうするとルートとしては、中国から中央アジアを通って、イランに抜け、さらにトルコを通ってイスタンブールへと、まずシルクロードを横断し、そのあと北に上がって、東欧を通り、ルーマニアでクリスマスを迎え、さらに北上してロシアを東進し、中国に戻ってラオス、タイまで行くということになるかな。期間的には7月末に日本を出て、次の年の春くらいまでということになるね。」

暢の放浪の全貌が見えた。ユーラシア大陸横断だった。あきらめたようなそぶりを見せていたけれど、すらすらと口をついて出る希望の訪問国やルートに、あきらめきれず常に放浪のことを考えていたことがうかがえた。暢のあげた国々は、日本人からすると旅行先としてはマイナーな国ばかりだが、人が行かないところに行ってみたい、見てみたいという暢の考え方は出会った頃から変わっておらず、どうせ旅に出るのなら、そういうところに行くのも個性的でいいかもしれないと私も思い、特に異存はなかった。

 

私たちは出発を7月末に定め、アパートを引き払い、それぞれの実家に荷物を分散した。

 

3.どんなにそばにいても

暢の壮大な、ある意味とんでもない計画について周囲の人に話すと、様々な反応があった。なかでも多かったのが、「いくら夫婦といっても、そんなに四六時中一緒にいて大丈夫か。お互いが鼻について、離婚するのではないか。」というものだ。反対に「夫婦だから、ずっと一緒にいて旅行しても大丈夫だろう。」という意見もあった。これは興味深いことで、私たち夫婦のことを述べているのだが、その言葉が、その人の「夫婦」という考え方、ひいてはその人自身の夫婦像を表しているように思えて他ならない。前者は「いくら夫婦といえども、お互いの全てを見せ合うことは不可能であり、危険なことである。」というプライバシーを重視する考え方。後者は「夫婦だからこそ、なにもかも見せ合うべきであるし、何が起こっても大丈夫だろう。」という全てをオープンにすべきという考え方。夫婦のあり方に正解もなにもあろうはずもなく、どちらの夫婦が良いとも言いきれない。そして、私達にはどちらの夫婦になる可能性もあるように感じられた。

 

実際、旅に出てから、自分たちがどのようなスタイルで旅を続けていくのか、そしてどのような夫婦になろうとするのかということを確立するまでの最初の2ヶ月間は、大変苦しい時期であったように思う。

 

私は旅のはじめに当たって、最初に訪れる国が中国であるということが、大きなプレッシャーになっていた。中国はかなり「開かれた国」になり、観光しやすくなったとはいっても、まだまだ観光地でも英語は通じず、中国語でコミュニケーションをとれればそれにこしたことはない。というより、商売上手な中国人のこと、「外国人です」という顔をしていると、しなくても良い出費がかさんでしまう可能性がある。しかし、暢に中国語の知識はない。今までチェコやロシアなどを訪れた時には、「旅において、私は食料調達を担当すればよい」という暗黙の役割分担があって、現地の市場などで私が中心になって買い物をすることはあっても、旅程のプランニングや切符の手配、宿泊先の交渉、両替などは暢が中心になって行っており、私はほとんどやることはなかった。だが、今回は違う。最初から私が交渉ごとを中心になってやらなければならないのだ。私の自他共に認める弱点は「押しが弱いこと」である。日本人同士でも、ものをはっきり言うことを好まないのに、パワフルな中国の人々といろいろやりとりをしなければならないのである。さらに大学では、先述のとおり部活動のグライダーばかりやっていて、勉強はろくに頭に入っておらず、中国語を実践的に使うのは初めてで、話すのも聞くのも全く自信がなかった。希望に満ちた旅立ちのはずであるのに、私はどこか気が重かった。そして最初のトラブルは中国に入国してまもなく訪れた。(つづく)